〈浸食する痣〉

 一週間後通い詰めて自分の姿を絵に写してもらった冬梧とうごは今、声を失っていた。完成した絵の上を――痣が浸食し始めたのだ。

 画板の上に幾重にも置かれた絵具で描かれた堅苦しいと言われる顔が墨滲むように黒に浸食されていく。辻堂冬梧は黒々とした何かに浸食される己の顔を前に冷ややかな目を向けていた。

 冬梧は四方を海に囲まれた〈緒宇良ノ国おうらのくに〉の軍人だ。軍人は生きた証を写真と絵に残す。しかし、冬梧の顔は写真にも絵にも何一つ、残っていない。

 何故なら、冬梧の顔を写した写真も絵画も痣に呑まれ、滲んで見えなくなるからだ。痣に呑まれるとはどういうことなのか、それは見た者しか分からない。

 冬梧の顔には痣がある。黒々とした痣だ。漆黒ともいうべき黒い痣が顔の右半分を覆っている。しかしこの顔、幼い頃からそうだった訳ではない。産まれた時は何もなかった。だが、三歳を過ぎた頃、ぽつんと小さな点が右のこめかみに現れた。母は黒子ほくろであると疑わなかった。小さな黒子は墨が滲むようにじわじわと広がり、七歳になると右目の周辺を覆うまでに広がった。両親は病気ではないかと医師に見せたが、原因は分からないままであった。

 やがて痣が右頬を覆う頃、冬梧は写真に写らなくなった。正確には写らないのではない。写真を撮るまではいい。現像して定着し、水洗と乾燥を経た印画紙を冬梧が目にした途端に顔の痣が滲み広がっていく。冬梧の顔を侵食するように覆い隠してしまうのだ。そうして写真は冬梧だけが黒く滲み、冬梧の姿を描いた絵画もまた、痣が広がり顔を超えて頭部と首を黒く滲ませる。冬梧が己の姿を見ることが出来るのはたった一瞬。顔の痣から黒く滲む何かが冬梧の姿を留め置くことを許してくれないのだ。

 冬梧は一縷の望みと描いてもらった絵を前に得心していた。気落ちするには手を尽くしてきた日々がある。今更だ。

「やはり駄目でしたか」

 冬梧の隣に並んだ月古つきこは冬梧の手元を覗き込んだ。白か金色か分からぬ淡い髪のつむじが目の前にある絵画を隠す。月古はしばらくの間、絵を眺めたかと思うと、顔を上げて冬梧を見た。彩雲のように様々な色彩の交じる淡い色の瞳が冬梧を観察するかのように見つめている。柔い雰囲気に似つかわしくない、射抜くような目だ。

「そして厄介ですね。あなたの姿を描くにはその痣の正体を知らねばならない。呪いの類なのかを突き止める必要があります」

 そうして月古は迷ったように目をさ迷わせてから、再び冬梧を見た。気圧されそうな真摯な目だった。

「痣は……顔だけですか?」

 言葉を選ぶかの様な穏やかな声に冬梧は頷き、答えた。

「顔だけではなく、体にも痣は年々、少しずつ、じわじわと範囲を広げています」

「口頭でどこにあるか教えてください」

「まず、見える範囲には顔です。そして首。その下は右胸から太腿全てです」

「半身を覆っているわけではないのですね。痛みは?」

「ありません。ただの黒い痣です」

 冬梧の淡々とした答えに思うところがあったのか、月古の目が揺らぐ。彩雲のように様々な色彩の入り交じる瞳の面の光が揺らいでいる。

「冬梧様。痣はおそらく、あなたの体を覆い尽くすでしょう」

「はい。存じております」

 彩雲のような瞳が揺らいで色を変える。夜と朝のあわいを映す雲の色だ。金色のようにも見える瞳には戸惑いが浮かんでいた。だが、その目から同情というものは見えてこない。冬梧を見つめる他意のない目だ。

「手は尽くしたのです。それこそ怪しい拝み屋なる者にも見てもらいました。皆様の答えはいずれも同じです。痣はいずれ体を覆い尽くすだろう、と」

 冬梧は手の中にある画板を見た。墨のように黒々と滲むように、自分の顔はいずれ痣に覆われる。そして――。

「痣が私の体を覆い尽くす時、私の命は失われます。軍人として死ぬか、痣に覆い尽くされて死ぬか、どちらか早いでしょうね」

 冬梧は自嘲するように微笑んだ。

「馬鹿げた考えかもしれませんけどね、私は自分の姿を残したいのです。軍人として生きた、確かな証を残しておきたい。時間とお金はいくらかかろうと構いません。どうか最後までお付き合いいただけますか」

 どうか――と深々と冬梧は深々と頭を下げた。ひと房、癖のある前髪がはらりと落ちる。

「冬梧様」

 名前を呼ばれて冬梧は頭を上げた。月古は穏やかな微笑みを浮かべて冬梧に言った。

「その前に僕の仕事を一度、手伝っていただけませんか」

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