第十四話:深夜の奪還

宗像邸を出る際、国枝憲吾は一度も振り返らなかった。 かつては自分の誇りであり、盾でもあったあの広大な屋敷は、今や巨大な爬虫類の抜け殻のように、暗闇の中で無機質にうずくまっている。


車の後部座席には、温室の土の下から掘り起こした、小さな白い遺骨を納めた木箱が置かれている。そして、助手席には一実。彼女は、窓の外を流れる深夜の街灯の光を、まるで実体のない宝石を数えるように目で追っていた。


「……これからすることが、何を意味するか分かっているな」


国枝の声は、驚くほど静かだった。それは、すべての迷いを断ち切り、崖っぷちに立つ人間だけが持つ、不気味なほどの澄み渡った響きを湛えていた。


一実:「わかっていますよ。誘拐、住居侵入、そして遺体遺棄の共犯。……立派な経歴ですね、国枝先生。二十年かけて築き上げた『正義の城』を、一晩で瓦礫の山に変える。……坂元さんのドラマだったら、ここで誰かが『壊れたからこそ、見える景色があるんだよ』なんて言うのかもしれませんね。でも、私には何も見えません。ただ、夜が深い、それだけ」


国枝は、アクセルを深く踏み込んだ。 向かう先は、あの潮騒療養所。窓のない部屋で、幻影の赤い靴を抱きしめている早苗の元だ。


深夜二時の療養所は、死者の吐息のような静寂に包まれていた。 国枝は、宗像重蔵から生前に預かっていた「特権」を最後に行使した。受付の眠そうな当直員に、重蔵の署名が入った緊急移送の偽造書類を突きつけ、有無を言わせぬ威圧感で道を切り開く。彼のその堂々とした振る舞いは、弁護士としての長年の経験が生んだものだったが、その目的は法を犯すことにあった。


三階の突き当たり。あの、光を拒絶した部屋の扉を開ける。


そこには、パイプ椅子に座り、壁の一点を見つめている早苗がいた。彼女は、国枝が渡したはずの赤い靴を、胸元で大切そうに、赤ん坊を抱くようにして眠らせていた。


国枝:「早苗さん。……行きましょう。あの子のところへ」


早苗は、ゆっくりと顔を上げた。その焦点の合わない瞳が、国枝の泥だらけのシャツと、解れかけたネクタイを捉える。


早苗:「……雨、まだ降っているの?」


国枝:「いいえ。空は晴れています。星が見えます。……あなたの朝顔が、一番綺麗に咲く場所へ、あなたを連れて行きたい。……美咲さんも、そこで待っています」


国枝は、早苗の細い、骨の浮き出た肩を抱き寄せた。彼女の体は驚くほど軽く、まるで中身の抜けた蝉の抜け殻のようだった。


一実が、部屋の入り口で、その光景を無言で見つめていた。 彼女の瞳には、いつも浮かべていた嘲笑の色はなく、ただ、自分の記憶の中にだけ存在する「母親」という概念を、目の前の肉体に重ね合わせようとしているような、痛々しいまでの空白があった。


療養所の裏口から、三人は闇に紛れて車に乗り込んだ。 早苗は後部座席に座り、隣に置かれた木箱にそっと手を触れた。彼女には、その中にあるものが何であるか、本能的に理解しているようだった。


早苗:「……冷たくないわね。あの子、やっと、あたたかいお布団に入れたのね」


その言葉を聞いた瞬間、国枝はハンドルを握る手に力を込め、奥歯を噛み締めた。 涙を流すことは許されなかった。自分には、まだ泣く権利さえ与えられていない。


車は、海岸線をさらに北へ、羽田一家がかつて暮らしていた、あのコインパーキングのある街へと向かった。


一実:「ねえ、国枝さん。……どうして、そんなに一生懸命なんですか? 証拠を隠滅して、私をどこかに閉じ込めれば、あなたはまだ『立派な大人』でいられたはずなのに」


国枝:「……大人、か。君が何度もその言葉を口にするたびに、僕は自分の胸が抉られるような気がしていた。……僕は、大人ではなかった。ただ、子供の頃に負った傷を、高いスーツで隠していただけの、臆病な少年に過ぎなかったんだ」


国枝は、サイドミラー越しに、後部座席で穏やかに微笑む早苗の姿を見た。


国枝:「僕は、彼女に愛されていた。……あの日、彼女を連れ出したのは、僕の勝手な独りよがりだったのかもしれない。でも、彼女は助手席で笑っていたんだ。……その笑顔を、僕は二十年間、自分の記憶から消し去っていた。……その罪を、僕は今日、返しに行く」


一実は、ふっと顔を背けた。 彼女の横顔を、過ぎ去る街灯のオレンジ色の光が、交互に照らしては闇に沈める。


一実:「……バカですね。本当に、救いようのない、バカな大人だ」


彼女の声は、微かに震えていた。 それは、彼女がこの復讐劇を開始して以来、初めて見せた「本当の感情」の断片だった。


夜明けが、遠い水平線の向こう側で、微かな紫色の光を放ち始めていた。 目的地までは、あと数時間。 そこは、アスファルトの下に朝顔が埋まった、あの絶望の場所。 だが、今の彼らにとっては、そこだけが唯一の、約束の場所だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る