第十三話:同乗者の正体

書斎にぶちまけられた書類の束が、月光を反射して白い鱗のように床を埋め尽くしていた。 国枝憲吾は、重蔵から遺されたあの一枚の写真を、指が震えるほど強く握りしめていた。モノクロに近い色のない写真の中で、雨に濡れた若き日の自分が、ある人物をエスコートするように車のドアを開けている。


二十年間、国枝の脳内には「あの日、自分は一人で酒を飲み、一人でハンドルを握り、一人で地獄へ落ちた」という完結した物語が保存されていた。だが、写真の中の自分は、助手席に座る誰かに向かって、この世で最も尊いものを見るような、狂おしいほどに切ない眼差しを向けていた。


「……思い出せ。私は、誰といた」


国枝の声は、自分の喉を切り裂いて出てきたような悲鳴に近かった。


一実は、金庫の縁に寄りかかり、その光景を冷ややかに眺めている。彼女の視線は、国枝の苦悩を慈しむようでもあり、同時に、その答えを彼自身が口にするのを、毒を盛られた獲物の死を待つ狩人のように観察している。


一実:「ねえ、国枝さん。人間の脳って、本当に都合よくできていると思いませんか? 耐えられないほどの苦痛に出会ったとき、私たちはその部分だけを綺麗に切り取って、なかったことにできる。……あなたが守りたかったのは、自分自身の人生じゃない。……その助手席に座っていた、『彼女』の未来だったんでしょう?」


国枝の脳裏に、激しいノイズが走った。 雨音。ワイパーの規則的なリズム。そして、助手席から漂ってきた、石鹸の匂いと、微かなアルコールの香り。


「……そうだ。あの日、彼女は泣いていた。宗像氏との結婚が決まって、自由を失うことに絶望して。……私は、彼女を連れ出したんだ。この屋敷から、あの男の手から、一晩だけでも遠くへ……」


記憶の蓋が、爆発するように弾け飛んだ。 隣にいたのは、宗像重蔵の後妻となるはずだった女性――。そして、一実の面影を色濃く持つ、あの人。


国枝:「……君の、母親か」


一実は、ふっと息を吐くように笑った。だが、その瞳には一滴の涙もなかった。


一実:「いいえ。お母さんは、あの日、死んだんです。……事故の衝撃で死んだんじゃない。あなたが、お父様と取引をして、彼女の存在を事故の記録から完全に消し去ったその瞬間に、彼女は人間として死んだんです。……お父様は、自分の面汚しになる不貞の証拠を消すために、彼女を別の場所へ幽閉した。そしてあなたは、その片棒を担いだ」


国枝:「……消した? 僕は、彼女を守るために……重蔵氏が、彼女は安全な場所で療養していると言ったから、だから僕は……!」


一実:「安全な場所? ……ふふ、さっき行ったでしょう。あの窓のない療養所。あそこが、お父様の言う『安全な場所』ですよ。……早苗さんは、あなたの愛した人であり、私の母親であり、そして、あなたが二十年間、存在を抹消し続けた幽霊なんです」


国枝は、持っていた写真を床に落とした。 足元の泥が、写真の中の若き日の自分を汚していく。 自分が「正義」と「恩義」だと思って捧げてきた二十年間は、愛した女性を地獄へ閉じ込め、その娘から母親を奪うための、醜悪な偽装工作に過ぎなかった。


一実:「大人になれよ、憲吾さん。……あなたは、彼女を守ったんじゃない。彼女を忘れることで、自分を守っただけだ。……お父様は、そのあなたの『傲慢な愛』が大好きだった。だから、私をあなたの前に差し向けたんです。自分の死後、あなたが一番残酷な方法で真実を知るように、完璧な台本を書いてね」


国枝は、書架を支えにどうにか立ち上がった。 背筋を伸ばし、乱れたネクタイを、もう一度、ゆっくりと結び直した。その動作は、もはや秩序を守るためではなく、自分という人間が完全に崩壊するのを食い止めるための、最後の足掻きのように見えた。


国枝:「……一実。君が、僕を殺したいなら、今すぐそうすればいい。だが、僕はまだ、やらなければならないことがある」


一実:「あら、まだ何か残っていますか? 遺骨は見つかり、証拠は暴かれ、あなたの恋心は泥にまみれた。……これ以上の地獄が、どこにあるっていうんです」


国枝:「……早苗さんを、あそこから連れ出す。そして、美咲さんの遺骨を、彼女の故郷に届ける。……それが終わるまで、僕は、死ぬことも、捕まることもできない」


一実は、国枝の結び直されたネクタイを、じっと見つめた。 その瞳の奥に、初めて、計算ではない複雑な感情が明滅した。


一実:「……いいですよ。最後まで、あなたの『責任』とやらを見届けてあげます。……でも、忘れないでくださいね。あなたが向かおうとしているのは、救済じゃなくて、さらなる絶望の入り口かもしれないってことを」


屋敷の時計が、午前三時を告げた。 夜が明けるまで、あと数時間。 二人は、もはや共犯者ですらない、呪いによって繋がれた異質な二人組として、再び動き出した。

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