第十二話:隠し金庫の嘘と真実
宗像邸の廊下は、真夜中の静寂の中で異常なほど長く、冷たく感じられた。 国枝憲吾の足音は、高級な絨毯に吸い込まれ、代わりに彼の荒い呼吸だけが壁に反響する。泥のついた革靴が、完璧に手入れされた廊下を汚していく。かつての彼ならば、この「秩序の崩壊」に耐えられなかっただろう。しかし今の彼にとって、この汚れこそが、自分がようやく地獄の底から這い出そうとしている唯一の証拠だった。
「……あの中に、何がある」
国枝は、宗像重蔵の書斎の前に立ち、重厚な扉を睨みつけた。
一実:「何って。あなたが二十年間、見ないふりをしてきた『真実の明細書』ですよ。お父様は、無駄なことが嫌いな人でした。誰かを陥れるときも、必ずそのプロセスを記録し、万が一のときの『首輪』として保存しておく。……羽田さんの父親を刑務所に送った、あの偽造工作の全記録です」
一実は、国枝を追い越すようにして書斎に入り、壁に掛けられた巨大なタペストリーの陰に手をかけた。そこには、壁の色と完全に同化した、最新鋭の電子ロック式の隠し金庫が埋め込まれていた。
一実:「さあ、国枝さん。暗証番号を入れてください」
国枝:「……私が、重蔵氏の金庫の番号を知っているとでも?」
一実:「知っているはずですよ。お父様は言っていました。『国枝には、私の心臓の鍵を預けてある』って。……ねえ、思い出してください。あなたがこの二十年間、毎日口にしてきた、あの忌まわしい数字を」
国枝は、金庫のパネルの前に立った。 指が、ある数字の配列の上で止まる。 「三・二・八・四」。 二十年前、彼が雨の坂道で、アクセルを踏み外したあの日付。そして、美咲という少女の時間が止まった、あの日。
電子音が短く鳴り、重い扉がゆっくりと解錠された。 国枝の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。
金庫の中には、整然と並べられたファイルがあった。国枝はその中から、一際古びた一冊を手に取った。表紙には、殴り書きのような文字で『朝顔』と記されていた。
中を開くと、そこには驚くべき内容が記されていた。 羽田氏の自宅に麻薬を置くように指示された、偽の「実行犯」たちの領収書。警察内部への工作を記したメモ。そして、そこには国枝自身が、かつて「土地売買の手数料」として処理したはずの不透明な金の流れが、克明に「偽造工作費」として再定義されていた。
国枝:「……僕は、知らずに……この犯罪の一部を……」
一実:「知らなかった、なんて言葉は、子供にしか許されませんよ。あなたは、怪しいと分かっていながら、その金の匂いに鼻を塞いだ。……その代償が、あの温室の下の骨なんです」
国枝は、その書類を握りしめ、床に崩れ落ちた。 自分のキャリア、名声、正義感。すべてが、この一枚の紙切れによって否定された。自分は、法律を武器にする士(さむらい)などではなかった。ただ、怪物の食べ残しを片付ける、掃除屋に過ぎなかった。
一実:「ねえ、国枝さん。もう一つ、面白いものがありますよ」
一実は、金庫の奥から、一通の封筒を取り出した。 そこには『国枝憲吾殿』と、重蔵の筆跡で書かれていた。
国枝は、震える手で封筒を破った。 中に入っていたのは、短い手紙と、一枚の古い写真だった。
『国枝へ。 お前がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないだろう。 お前は自分のことを、私の被害者だと思っているかもしれない。 だが、思い出せ。あの夜、お前がハンドルを切ったとき、助手席にいたのは私ではない。 お前が本当に、あの日、一人で運転していたのか……その記憶を、もう一度、掘り返してみるがいい』
写真は、二十年前のあの雨の夜、事故を起こす数時間前のものだった。 そこには、馴染みのない高級クラブの軒先で、泥酔した国枝が、ある人物の肩を抱いて車に乗り込む姿が写っていた。
国枝の視界が、急激に白濁した。 記憶の断片が、鋭いナイフのように脳裏に突き刺さる。 ガソリンの匂い。雨音。そして、隣で笑っていた、高い声。
「……違う……」
国枝は、目の前に立つ一実を見上げた。
国枝:「あの日……助手席にいたのは……」
一実:「……やっと、思い出しましたか? 国枝さん。お父様があなたを救ったんじゃない。あなたが、お父様の『一番大切なもの』を庇って、身代わりになったんです。……お父様が、その忠誠心を、どれほど面白がっていたか」
一実の微笑みが、月の光を浴びて、歪な美しさを放っていた。 彼女の正体。そして、この「復讐」の真の目的。 物語は、さらなる狂気の深淵へと、国枝を引きずり込もうとしていた。
国枝:「一実……君は……」
一実:「大人になれよ、憲吾さん。……真実はね、暴かれた瞬間が一番残酷なんです」
一実は、金庫の中の書類を床にぶちまけると、国枝の耳元で囁いた。 夜の海鳴りが、再び激しくなり、屋敷の壁を打ち鳴らしていた。
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