第十一話:崩壊する秩序
温室のガラス屋根を叩く夜風の音が、今の国枝憲吾には、数千、数万の指先がガラスを爪立てている不吉な音に聞こえていた。 掘り起こされた土の匂い。雨を含んだ重い泥の感触。そして、月光を浴びて白く、静かに横たわる小さな遺骨。 国枝は、泥に塗れた掌を見つめたまま、自分の指の震えを止める方法を忘れてしまったようだった。
「……これが、私の二十年間の正体か」
国枝の声は、空洞になった胸の奥で反響し、乾いた音となって漏れ出した。 かつて法廷で証拠の矛盾を突き、冷徹に真実を構築してきた彼の思考は、今やバラバラに砕け散ったガラス細工のように無残だった。
一実は、掘り返された穴の淵に、まるで深淵を覗き込む子供のような無垢な仕草で腰を下ろした。彼女のトレンチコートの裾が泥に触れているが、彼女はそれを気にかける様子すらない。
一実:「ねえ、国枝さん。昔、誰かが言っていました。『人は、忘れたいことほど、一番近い場所に隠す』って。お父様は、あなたの罪をこの温室に隠した。あなたは、自分の罪をこの屋敷の顧問弁護士という肩書きの裏に隠した。……でも、土は嘘をつきませんね。春が来れば芽を出し、時が来れば、こうして化石を吐き出すんです」
一実は、泥にまみれた「もう片方の赤い靴」を指先でそっと拾い上げた。
一実:「見てください。こっちの靴は、早苗さんが持っていたものより少しだけ色が濃い。……きっと、お父様が毎日、朝顔に水をやるたびに、土の下のこの子にも、たっぷりと『毒』を注いでいたせいかもしれませんね」
国枝:「……なぜだ。なぜ、宗像氏は私をここまで徹底的に……」
一実:「愛ですよ、国枝さん。歪みきって、真っ黒に焦げ付いた愛。……彼は、自分の手足となる人間が、完璧に『汚れている』ことを好んだ。真っ白な人間は、いつか自分を裏切るかもしれない。でも、血で汚れた人間は、自分のそばから離れられない。……彼は、あなたを法的に救ったんじゃない。あなたを、この屋敷という檻の一部にしたんです」
国枝は、這い上がるようにして立ち上がった。 足元がふらつき、ガラスの壁に手をつく。磨き上げられたガラスには、泥まみれになった自分の、酷く惨めな顔が映っていた。
国枝:「警察へ行く。……この遺骨を、羽田さんの元へ……いや、司法の手に委ねる。それが、僕が最後にできることだ」
一実:「警察? ふふ、いいですね、その正義感。でも、国枝さん。あなたが警察へ行けば、どうなるか分かっていますか? 宗像重蔵の汚職。あなたがもみ消してきた数々の醜聞。そして、何より、この二十年間の『隠匿罪』。……あなたは、明日には日本中で最も軽蔑される弁護士になりますよ。築き上げてきた名声も、資産も、全てがこの泥の中に沈むんです」
一実は立ち上がり、国枝の胸元に歩み寄った。彼女の指が、泥に汚れた彼のネクタイに触れる。
一実:「……このネクタイ、もう二度と結べなくなりますよ。それでもいいんですか? あなたは、ただの『人殺しの共犯者』として、一生を終えることになる。……それとも、今ここで、もう一度、この穴を埋めますか?」
国枝の視線が、足元の深い闇へと吸い込まれていく。 一度穴を埋めてしまえば、明日の朝には、また「立派な国枝弁護士」に戻れる。宗像氏の莫大な遺産を管理し、上流階級の秩序の中に身を置くことができる。早苗さんは、あの窓のない病室で、幻影と共に朽ち果てていくだけだ。
「……できない」
国枝は、一実の指を静かに、だが力強く振り払った。
国枝:「僕は、二十年前、あの雨の夜に死んでいるべきだった。……その時間を、宗像氏から借りて生きてきたに過ぎない。……借りたものは、利子をつけて返さなければならない。それが、大人の、いや、人間の責任だ」
一実の瞳に、初めて微かな驚きが、そしてそれ以上に深い愉悦の光が宿った。
一実:「……責任。いい響きですね。耳の奥が痒くなるくらい。……いいですよ、国枝さん。あなたがその道を選ぶなら、私は最後まで特等席で見届けさせてもらいます。……崩壊していく、あなたの正義のパレードを」
国枝は温室を出ると、夜の風に向かって大きく息を吸った。 肺の奥に、夜の冷気と、潮の香りが流れ込む。 それは痛みを伴うほどに鋭かったが、彼にとっては二十年ぶりに味わう、本物の「空気」だった。
一実:「ねえ、国枝さん。警察へ行く前に、もう一つだけ、片付けなきゃいけない『残り物』があるんです。……お父様の書斎の、あの隠し金庫。あの中に、美咲ちゃんの父親を陥れた本当の証拠が眠っています」
国枝は、無言で頷いた。 屋敷の窓から漏れる明かりが、牙を剥いた獣の目のように彼らを睨んでいた。
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