第十話:温室の下の化石
夜の闇を切り裂いて走る黒いセダンの車内は、死を待つ病室のような静寂に包まれていた。 国枝憲吾の大きな手は、ハンドルの革を潰さんばかりに握りしめられている。彼の指先は、血液が通っていないかのように白く、冷たい。
「……毎日、あの花を見ていた」
国枝の声は、喉の奥に溜まった砂を吐き出すような掠れ方をしていた。
「宗像氏が、新種の朝顔だと言って誇らしげに見せていたあの温室だ。私はあそこで彼と、何度も、何度も、法律の話をした。正義の話をした。……その足元に、彼女がいたというのか」
一実は、窓の外を流れる暗い街灯の光を目で追いながら、静かに、だが残酷に頷いた。
「ええ。お父様は、あなたのその『無知』を愛でていたんですよ。自分が殺した少女の上に立って、立派な弁護士としての論理を組み立てるあなたの滑稽さを、ワインの肴にしていたんです。……ねえ、国枝さん。ある人が言っていました。『最悪の悪意は、善意の顔をして隣に座っている』って。お父様にとって、あの温室は、あなたという人間を完成させるための、最後のピースだったんです」
車が宗像邸の巨大な鉄門を潜った。 ヘッドライトに照らされた庭園は、夜の帳の中で、まるで巨大な墓標の群れのように見えた。国枝は車を止めると、トランクからシャベルを取り出した。その鉄の感触は、今や彼の唯一の「現実」となっていた。
二人は、迷宮のような庭の奥にある、ガラス張りの温室へと向かった。 月明かりに照らされた温室は、青白い鱗を持つ巨大な獣が、森の奥で眠っているかのような不気味な光沢を放っている。
国枝は、震える手で温室の鍵を開けた。 中に入ると、湿り気を帯びた土の匂いと、朝顔の蔓が絡みつく青臭い香りが鼻を突いた。昼間は色鮮やかな花を咲かせるその植物も、夜の闇の中では、獲物を待ち構える触手のように見えた。
一実:「ここです。この、一番大きな青い朝顔が植えられている場所。……ここだけ、土が妙に柔らかいと思いませんでしたか?」
国枝は、言葉を失ったまま、シャベルを土に突き立てた。 サクッ、という、土を切り裂く音が静寂の中に響く。 一度、二度、三度。 彼は狂ったように土を掘り返した。完璧にプレスされていたシャツは汗と泥にまみれ、ネクタイはいつの間にか解けて、泥の中に引きずられていた。だが、今の彼には、自分の汚れを気にする余裕など微塵もなかった。
一実:「もっと深く。……もっと、自分の罪の深さまで掘り進めてください」
シャベルの先が、硬い何かに当たった。 国枝の動きが止まった。 彼はシャベルを捨て、素手で土を掻き出し始めた。爪の間に泥が入り込み、皮膚が裂けて血が滲む。だが、彼はその痛みさえも、贖罪の儀式であるかのように受け入れていた。
土の中から現れたのは、腐食したビニールシートの端だった。 国枝は、それを引き剥がす勇気が持てず、ただ荒い呼吸を繰り返した。
一実:「開けてください。あなたが二十年間、見ないふりをしてきた『答え』が、そこにあります」
国枝がシートを捲ると、そこには、白く、小さな骨が、眠るように横たわっていた。 二十年の歳月を経て、それは土の一部になりかけていたが、その傍らには、泥に汚れながらも、はっきりとその色を残している「もう片方の赤い靴」があった。
国枝:「……ああ……美咲……さん……」
国枝の大きな体から、魂が抜けていくような、掠れた叫びが漏れた。 彼は、その小さな骨の前に崩れ落ち、額を泥に擦り付けた。
二十年間、自分を守ってきた「法」も「秩序」も、この小さな一足の靴の前では、何の役にも立たなかった。自分は、この少女の命の上に、自分の人生を不法に建築していたのだ。
一実:「……綺麗な骨。化石みたいですね。……ねえ、国枝さん。この子はここで、ずっとあなたの声を聞いていたんですよ。あなたが正義を語る声、あなたが宗像氏に忠誠を誓う声。……彼女は、どんな気持ちで、あなたの足音を聞いていたんでしょうね」
国枝は、泥だらけの手で、その小さな骨を包み込もうとした。 だが、その手はあまりにも大きく、あまりにも汚れていた。
一実:「大人になれよ、憲吾さん。……さあ、これからどうしますか? 警察を呼びますか? それとも、お父様の遺志を継いで、また土を被せますか? ……あなたの『第二の人生』の設計図、今ここで描き直してください」
一実の瞳には、月光を反射した冷たい光が宿っていた。 温室を叩く夜風の音が、まるで死者の啜り泣きのように、どこまでも、どこまでも響いていた。
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