第九話:ガードレールの先の記憶
療養所の重い鉄扉が閉まる音は、国枝憲吾の背後で、まるでギロチンの刃が落ちるような響きを伴っていた。 外はすっかり日が傾き、灰色の海は濃い群青色へと染まり始めている。国枝は、自分の指先に残る早苗の服の繊維の感触と、あの掠れた叫び声が耳の奥で反響し、平衡感覚を失いそうになっていた。
国枝の足元は、もはやおぼつかない。かつて法廷でどんな難解な論理を組み立て、相手をねじ伏せてきたあの毅然とした男は、今、一人の女性の絶望の前に、ただの「泥棒」にまで成り下がっていた。
一実:「そんなに肩を落とさないでくださいよ。まだ、あなたの『お仕事』は終わっていません。……さあ、次の目的地へ。ナビはいりませんよね? あなたの体が、一番よく覚えているはずですから」
一実は、自分の手首についた早苗の涙を、まるで高価な香水でも拭い去るかのような仕草で、ハンカチで拭った。そして、当然のように助手席に乗り込む。
車は再び、海岸線を北上し始めた。 ヘッドライトが切り裂く夜の闇の中に、潮風で錆びついたガードレールが延々と続いている。
一実:「ねえ、国枝さん。さっき、早苗さんの指、冷たかったでしょう? ……あるドラマでこんな言葉がありました。『誰かを許すってことは、その人がつけた傷跡を、自分の体の一部として受け入れることだ』って。……でも、彼女はあなたを許さない。許すはずがない。彼女にとって、あなたの存在は、美咲ちゃんの時間を止めた黒いアスファルトそのものなんだから」
国枝:「……僕は、死ぬべきだったんだ。あの日、あのガードレールを突き破って、そのまま海に沈んでいれば、こんなことには……」
国枝の声は、震えていた。ハンドルを握る彼の手からは、もはや弁護士としてのプライドも、一人の男としての尊厳も、すべてが滴り落ちていた。
一実:「死ぬ? ふふ、逃げないでください。死ぬのは、いつだって一番簡単で、一番自分勝手な解決方法ですよ。……お父様があなたに教えたのは、死ぬことじゃなくて、生きながら死んでいくことだった。……あ、ほら。見えてきましたよ。あなたの『原点』が」
国枝がブレーキを踏んだ。 そこは、緩やかなカーブが続く、人里離れた崖の上だった。 二十年前、工事中だったはずのその場所には、今は真新しいガードレールが設置されている。だが、その足元にある歪んだ土砂と、崖下に広がる荒い岩礁は、あの日と何も変わっていない。
国枝は、導かれるように車から降りた。 潮騒の音が、二十年前の雨音と重なる。
一実:「ここで、あなたはハンドルを切り損ねた。……あの日、美咲ちゃんは、お父さんに買ってもらったばかりの赤い靴を履いて、逃げ出したお母さんを探して歩いていた。……そこを、あなたが運転する、お父様から貰ったばかりの銀色のセダンが通りかかった」
一実は、ガードレールの隙間から、崖下の闇を指差した。
一実:「お父様は、すべてを後始末したと言いました。でも、彼は嘘つきです。彼は、美咲ちゃんの遺体を、この崖下のどこかに『捨てた』んじゃない。……彼はね、あなたが毎日見ることになる、ある場所へ『埋めた』んですよ」
国枝:「……何だと? 毎日、見ることになる場所……?」
国枝の背筋に、氷のような冷気が走った。 毎日。自分がこの二十年間、欠かさず目にし、その上で平穏を享受してきた場所。
一実:「そう。宗像邸の、あの広大な庭。……お父様が一番愛していた、あの朝顔の温室の真下です。……彼はね、あなたの罪を、自分の足元で花として咲かせたかったんですよ。あなたが、その花を見るたびに、無意識のうちに彼への忠誠を深めるように。……美咲ちゃんは、今もあなたの職場のすぐ近くで、冷たい土の下にいるんです」
国枝は、その場に崩れ落ちた。 自分の、あの日々の平穏。宗像氏と交わした、あたたかいお茶の時間。そのすぐ足元に、自分が殺した少女が埋まっていた。
国枝:「あああ……あああああ!」
国枝の慟哭が、夜の海に響き渡った。 彼は爪を立てて地面を掻きむしった。二十年前、早苗がアスファルトの下を掘り返そうとしたのと同じように。
一実:「大人になれよ、憲吾さん。……本当の地獄は、ここからなんです。……ねえ、国枝さん。温室の鍵、持っていますよね? 明日の朝、一番に、自分たちの手で彼女を掘り起こしに行きましょうか」
一実は、国枝の背中にそっと触れた。 その手の温もりが、今の国枝には、どんな死刑宣告よりも残酷に感じられた。
一実の微笑みが、暗闇の中で、一輪の黒い朝顔のように、静かに、そして禍々しく開いていく。
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