第八話:窓のない病室

国道を外れた車は、潮風に削られた痩せた崖沿いの道を走っていた。 左右に広がるのは、手入れの行き届かない松林と、灰色の海。国枝憲吾の運転するセダンのタイヤが、道に散らばった乾いた枝を「パキッ、パキッ」と、まるで小さな骨を砕くような音を立てて踏み越えていく。


助手席に座る一実は、窓を全開にして、吹き込む風にその白い頬を晒していた。


一実:「ねえ、国枝さん。さっきの定食屋さん。あのコロッケ、冷めてもきっと美味しいんでしょうね。冷めても美味しいものって、この世にどれくらいあると思いますか? 揚げたての愛とか、炊きたての正義とか、そんなのは誰だって喜んで食べるけど。……冷え切って、固まって、油が回ったあとの『残り物』を、誰が最後に片付けるのか。世界はそれで決まると思うんです」


国枝は答えなかった。ハンドルの十時十分を握る彼の手は、指関節が白く浮き出るほどに強張っている。昨夜から一睡もしていない彼の眼窩は深く落ち窪み、その奥で充血した瞳が、逃れられない獲物のように前方を見据えていた。


「……着いたわよ。あなたの終着駅に」


一実が指差した先には、コンクリートが塩害で赤茶けて変色した、三階建ての建物があった。看板には『潮騒療養所』と、消えかけた文字で記されている。周囲に民家はなく、ただ波の音だけが、絶え間なく建物の壁を叩き続けていた。


国枝は、サイドブレーキを引く音さえもが、自分自身の断頭台のレバーを引く音のように聞こえた。


一実:「行きましょう。美咲さんの、お母さんに会いに」


受付の奥からは、消毒液の匂いと、古い紙が腐ったような澱んだ空気が流れてきた。案内されたのは、三階の突き当たりにある「静養室」だった。


扉を開けると、そこは一実の言った通り、窓のない部屋だった。 壁には換気扇が回る音だけが響き、天井の蛍光灯が、チチチ、と不快な瞬きを繰り返している。部屋の中央にあるパイプ椅子に、一人の女性が座っていた。


羽田早苗。かつて朝顔を愛した女性は、今や、肉体という名の殻だけを残して、魂はどこか遠い場所へ置き忘れてきたような姿をしていた。彼女の手元には、数枚の白い皿が並んでいる。彼女は、何もない皿の上を、指先で執拗になぞり続けていた。


一実:「早苗さん、こんにちは。また、遊びに来ましたよ」


一実の声が、この部屋で唯一の「生きている音」として響いた。早苗はゆっくりと顔を上げたが、その焦点の合わない瞳は、一実を通り越し、背後に立つ国枝を射抜いた。


早苗:「……雨、止んだかしら」


掠れた、紙が擦れるような声だった。


国枝は、その場に釘付けになった。国枝の大きな体が、この四畳半ほどの空間で、行き場を失って縮こまって見える。彼は、自分が着ている何十万円もする高級なスーツが、この部屋の空気によって汚されていくような、あるいは、このスーツ自体が彼女への最大の侮辱であるような、激しい嫌悪感に襲われた。


一実:「雨は止みましたよ、早苗さん。……ほら、今日は、あなたの朝顔を盗んだ泥棒を連れてきました」


国枝:「一実……!」


一実:「いいじゃない。本当のことでしょう? ……ねえ、早苗さん。この人、弁護士さんなんです。とっても偉くて、とっても綺麗な言葉を喋る人。……この人に、聞きたいことはありませんか? 美咲ちゃんが、どこに隠れているのか。この人なら、法律の本をめくって、きっと見つけ出してくれますよ」


早苗は、皿をなぞる手を止め、国枝をじっと見つめた。その瞳には、恨みも怒りもなく、ただ、底の知れない「虚無」だけが広がっていた。


早苗:「……弁護士さん。あの子、靴を片方、忘れていったの。……赤い、小さな靴。あの子はいつも、右足から履く癖があったから、きっと右足だけ冷たがっているわ。……あなた、それ、持っていませんか?」


国枝の喉が、引き攣ったように動いた。 彼は、コートのポケットの中に手を入れた。そこには、地下室から持ち出した、あの赤い靴が入っている。


彼の手は、震えが止まらなかった。 それを彼女に渡すべきか、それとも隠し通すべきか。 大人の国枝憲吾なら、ここで「遺憾ながら、私はそのようなものは存じ上げません」と言うべきだ。それが、彼女の病状を悪化させないための「正当な判断」だと、昨日の彼なら自分に言い聞かせただろう。


だが、一実の視線が、彼の逃げ道をすべて塞いでいた。


一実:「出しなさいよ、国枝さん。あなたのポケットの中にある、その『真実の欠片』を。……坂元さんなら、ここで言うかしら。『人は、一番大切な嘘をつくために、九十九の本当を並べる』って。……あなたは、あといくつの本当を並べれば、その一粒の嘘を捨てられるんですか?」


国枝は、ゆっくりとポケットから手を出し、掌を開いた。 そこには、埃を被った赤い靴が、蛍光灯の青白い光を浴びて、静かに横たわっていた。


早苗の瞳に、初めて、微かな光が宿った。 それは、希望ではなく、封印されていた地獄の火が、再び灯った瞬間だった。


早苗:「……ああ……美咲……」


早苗は、国枝の掌から奪い取るようにして靴を掴むと、それを自分の頬に押し当てた。 そして、獣のような、掠れた叫び声を上げた。


早苗:「冷たい……。あの子、ずっと冷たかったのね……! あなた、どうして、今頃持ってきたの……? どうして、二十年も、あの子を一人にしたの……!」


早苗は椅子から崩れ落ち、国枝の足元に縋り付いた。 彼女の細い指が、国枝の磨き上げられた革靴を、そしてスラックスの裾を、執拗に掴み、汚していく。


国枝は、動けなかった。 彼を見下ろす一実の顔には、聖母のような慈悲と、悪魔のような愉悦が、絶妙な均衡で混ざり合っていた。


一実:「大人になれよ、憲吾さん。……あなたの正義が、今、泣いていますよ」


国枝は、天を仰いだ。 窓のない部屋の天井は、ただ白く、無機質に、彼の絶望を照らし続けていた。

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