第七話:コロッケと罪の味

定食屋の店内は、時間の流れが澱(よど)んでいた。 天井で回る換気扇は、長年の油を吸い込んで「グ、グ、グ」と喉を鳴らすような異音を立てている。国枝憲吾は、パイプ椅子の冷たさをスラックス越しに感じながら、自分の大きな手がこの安っぽいデコラのテーブルの上でひどく浮いているのを自覚していた。


「お待たせ。コロッケ定食、二つね。ビールは……はい、お姉さん」


店主と思われる腰の曲がった老人が、お盆をガタつかせて料理を運んできた。 皿の上には、不格好な楕円形のコロッケが二つと、山盛りの千切りキャベツ。そして、申し訳程度の福神漬けが添えられている。


一実:「わあ、美味しそう。ねえ、国枝さん。見てくださいよ。この衣のトゲトゲ。まるで、あなたが他人に向け続けてきた言葉のナイフみたい」


一実は慣れた手つきで栓抜きを使い、瓶ビールの蓋を弾いた。シュ、という短い音が、店内の静寂をわずかに揺らす。彼女はコップに泡を立てて注ぎ、それを一気に飲み干した。


一実:「ぷはぁ……。最高。ねえ、国枝さん。一口どうですか? 法律とか義務とか、そういうカサカサしたものを飲み込むには、この安っぽい苦味が一番ですよ」


国枝:「……いらないと言ったはずだ。一実、遊びはいい加減にしろ。この店に何がある。当時のことを知る誰かがいるのか?」


国枝は箸を割ることさえせず、一実を鋭く射抜いた。だが、彼女は全く動じる様子もなく、コロッケにたっぷりとソースをかけた。


一実:「遊び? 心外だなあ。私は真剣ですよ。……ねえ、国枝さん。さっき、このお店は二十年前からあるって言いましたよね。……おじいさん、ちょっといいですか?」


一実は、カウンターの奥で新聞を広げようとしていた老店主に声をかけた。老人は、分厚い眼鏡の奥の目を細めながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。


一実:「ここのコロッケ、昔から味が変わらないって評判ですけど。二十年前も、この形だったんですか?」


老人:「……ああ。うちは親父の代からこれだ。じゃがいもをわざと粗く潰してな。それが一番、腹にたまるんだ」


一実:「二十年前、この向かいのアパートに住んでいた羽田さんって家族、覚えてますか? 朝顔をたくさん育てていた、あの……」


老人の動きが、一瞬だけ止まった。 新聞を握る節くれだった手が、かすかに震える。彼は、国枝の仕立ての良いスーツと、一実の透き通るような肌を交互に見つめ、それから店の外のコインパーキングに視線を落とした。


老人:「……羽田さんの話か。あんたたち、あの一家の何だい。……あそこは、呪われたんだ。ある日突然、警察が来て、あんなに優しかった旦那さんが捕まって。それからすぐに、可愛い盛りの娘がいなくなって……。ありゃあ、神様も仏様もいない仕業だった」


国枝は、胃の奥がせり上がってくるような不快感に襲われた。 老人の言葉は、どんな法廷の証言よりも重く、鋭く、彼の良心を切り裂いた。


一実:「神様や仏様じゃなくて、人間がやったんですよ、おじいさん。……例えば、そこに座っているこの立派な弁護士さんみたいな、頭のいい人たちが、会議室で決めたんです。あのアパートを壊して、駐車場にする方が、効率がいいって」


国枝:「一実!」


一実:「何ですか? 怖い顔して。……ねえ、おじいさん。この人、あの時に羽田さんを追い出した会社の……」


老人:「……いいんだ、お姉さん。もう、済んだことだ。あの後、羽田さんの奥さんは、夜な夜なあの場所を掘り返してたよ。アスファルトの下に美咲ちゃんが埋まってるんじゃないかって、爪から血を流して。……見てられなかったよ」


国枝は、目の前のコロッケを見つめた。 老人が丹精込めて揚げたはずのそれは、今や、泥を固めた塊のようにしか見えなかった。


一実:「国枝さん。食べなさいよ。……これが、あなたが守りたかった『秩序』の味ですよ。あなたが綺麗なオフィスでコーヒーを飲んでいる間に、一人の母親が、アスファルトを爪で剥ごうとしていた。その重みを、今、あなたの胃袋に入れなさい」


国枝は、震える手で箸を取った。 彼はコロッケを一口、無理やり口に運んだ。 サクッとした衣の音。口の中に広がる、じゃがいもの素朴な甘み。 だが、それを飲み込もうとした瞬間、喉が拒絶した。


彼はナプキンを口に当て、激しくむせ返った。


一実:「どうしたんですか? 美味しいでしょう? ……坂元さんのセリフ風に言うなら、『泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます』。でもね、自分の罪を食べながら吐き気がする人は、まだ人間だってことですよ」


一実は、残りのビールを飲み干すと、テーブルに千円札を叩きつけた。


一実:「おじいさん、ごちそうさま。コロッケ、やっぱり苦かった」


二人は店を出た。 アスファルトの照り返しはさらに強まり、コインパーキングの精算機が、また無機質な電子音を響かせている。


一実:「さあ、国枝さん。次は、美咲さんの『お母さん』に会いに行きましょうか。……今は、この先の海沿いにある、窓のない病院にいるそうですよ」


国枝は、車のキーを握りしめた。 彼の白かったシャツの襟元には、いつの間にか、ぬぐいきれない汗の染みが広がっていた。


「……行く、のか。僕は」


一実:「行くしかないでしょう? あなたが二十年前に止めた時間を、動かせるのは、あなただけなんですから」


一実は助手席のドアを開け、あの小さな赤い靴を、国枝の座席にそっと置いた。


一実:「大人になれよ、憲吾さん。……本当の地獄は、まだ入り口すら見えていないんですから」

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