第六話:アスファルトの下の朝顔

コインパーキングの精算機が、十秒ごとに無機質な電子音を吐き出していた。 アスファルトは、照りつける日差しを吸い込んで、陽炎(かげろう)をゆらゆらと立ち昇らせている。国枝憲吾は、運転席のドアを開けたまま、その場に立ち尽くしていた。


「ここが、羽田さんの……」


国枝の声は、乾いた風に攫われて消えた。 視線の先にあるのは、白線で区切られた十台分の駐車スペースと、ひび割れたアスファルトの隙間から不敵に顔を出している名もなき雑草だけだ。二十年前、ここには生活の匂いがする木造のアパートがあった。洗濯物が揺れ、夕食のカレーの匂いが漂い、子供が階段を駆け上がる音が響いていたはずの場所だ。


一実:「何を見てるんですか? まさか、まだここに誰かが住んでいる幽霊でも探しているんですか?」


一実は助手席から降りると、トレンチコートのポケットに手を突っ込み、軽やかな足取りでアスファルトの上を歩き回った。彼女のハイヒールの音が、硬い地面に無機質に響く。


一実:「ここ、四番のスペース。ちょうどこのあたりに、美咲さんの部屋の玄関があったんですよ。お父様が調べた資料に書いてありました。……ねえ、国枝さん。四番の車、今ちょうど軽自動車が停まってますけど、あの中、覗いてみませんか? もしかしたら、二十年前の幸せの残骸が、ダッシュボードに置かれているかもしれませんよ」


国枝:「……悪趣味だ。一実、もういいだろう。ここには何もない。ただの空き地だ。羽田さんの家族がどこへ行ったのか、それを探すのが先決だ」


一実:「何もない? 違いますよ。ここには『埋められた時間』があるんです。あなたが宗像邸の地下に車を埋めたみたいに、この街の人たちは、羽田家の記憶をこのアスファルトで蓋をして埋めちゃった。……大人はね、不都合なことが起きると、とりあえずコンクリートを流し込むんです。そうすれば、何もなかったことにできると信じて」


一実はしゃがみ込み、アスファルトの大きな亀裂に指を差し入れた。


一実:「見てください。この下、まだ土の匂いがします。美咲さんのお父さん、朝顔を育てるのが上手だったんですって。近所でも評判だった。夏になると、この場所は青や紫の大きな花でいっぱいになった。……でも、ある夜、突然警察が来て、お父さんは連れて行かれた。麻薬の所持。もちろん、あなたのご主人様が仕組んだ、最低な罠ですけど」


国枝は、思わず自分の掌を見つめた。 この手で、かつて宗像氏から受け取った「工作費用」の小包を思い出す。自分はそれが何に使われるかを知りながら、法的な手続きの書類として、その「毒」を浄化したのだ。


国枝:「……僕は、正当な法的手続きだと思っていた。宗像氏の土地開発を邪魔する不法占拠者だと……そう聞かされていたんだ」


一実:「正当、不当。大人はその二つのタグだけで世界を整理しようとする。でもね、国枝さん。朝顔の種には、タグなんてついてませんよ。ただ、咲きたかっただけ。……お父さんが逮捕されて、お母さんが精神を病んで、美咲さんが行方不明になって。そのあと、このアパートは一晩で壊された。朝顔も、美咲さんの積み木も、お母さんのエプロンも、全部このアスファルトの下です」


一実は立ち上がり、国枝の胸元に歩み寄った。彼女の瞳には、朝日を反射した残酷な煌めきがあった。


一実:「ねえ、国枝さん。『悲しい時に流す涙は、まだ温かい。でも、悔しい時に流す涙は、体の中を氷に変える』。……あなた、今、体の中が冷えてるでしょう? エアコンのせいじゃありませんよ」


国枝:「……一実、君は一体、何者なんだ。なぜ、そこまで羽田家の詳細を知っている。宗像氏の娘だというのも、やはり嘘なのか」


一実:「嘘か本当か。そんなの、このアスファルトと同じくらいどうでもいいことですよ。……大事なのは、あの日、あなたがハンドルを切らなければ、今頃美咲さんは、どこかで誰かと笑って、美味しい朝ごはんを食べていたかもしれないってこと。……その可能性を、あなたが殺した。……ねえ、お腹、空きませんか?」


急激な話題の転換に、国枝は呆気に取られた。


一実:「私、お腹空いちゃった。あそこにある定食屋さん、行きましょうよ。あそこは二十年前からあるはず。……お父さんが、美咲さんに内緒でコロッケを買い食いしていたお店です」


一実は、コインパーキングの向かいにある、色あせたのれんが掛かった古い定食屋を指差した。


国枝は、抗う気力さえ失い、彼女の後に続いた。 のれんを潜ると、油の匂いと、安っぽい醤油の香りが鼻を突いた。店内のテレビからは、昼前のニュースが流れている。


一実:「おじさん、コロッケ定食二つ。あと、ビール」


国枝:「……ビールはやめろ。運転中だ」


一実:「あら、私は運転しませんもの。……国枝さんは、お水でいいですよね? 罪を洗い流すための、冷たいお水」


一実はテーブルの上の、水滴がついた古いコップを国枝の前に突き出した。


一実:「さあ、国枝さん。エチュードの第二場。タイトルは『アスファルトの下の朝顔』。……私がお父さんで、あなたが、それを陥れた冷徹な弁護士。……始めてください。まずは、謝罪の言葉から? それとも、金で解決しようとする傲慢な正論から?」


国枝は、目の前の濁ったコップを見つめた。 自分の顔が、そこに歪んで映っている。 それは、高級なスーツに身を包みながら、中身は空っぽな、一人の哀れな男の姿だった。


一実の微笑みが、店の奥から流れてくる揚げ物の煙の中で、妖しく、そしてどこまでも深く揺れていた。

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