第五話:逃亡者と共犯者
朝の陽光は、昨日までの嵐が嘘のように、宗像邸の石造りの外壁を白く焼き尽くしていた。 国枝憲吾は、玄関ホールに置かれた革製のトランクを見つめたまま、微動だにせずに立っていた。国枝の背筋は、今朝も定規で引いたように真っ直ぐだが、その手首から覗く白いカフスは、昨夜の地下室の戦慄を記憶しているかのように、かすかに震えていた。
彼は、人生で初めて、自らの意志で「秩序」の外へ一歩を踏み出そうとしていた。それは遺言執行人としての業務ではなく、一人の「犯罪者」としての、あまりにも遅すぎた出頭のような旅だ。
「……準備はいいですか? 逃亡者さん」
階段の上から、歌うような声が降ってきた。 一実は、一条ゆかりの描く旅装のヒロインさながら、つばの広い帽子を被り、細身のトレンチコートを纏っている。彼女は小さなキャリーケースを軽やかに転がしながら、国枝の横に並んだ。
一実:「そんな顔しないでください。これから葬儀に行くわけじゃないんですから。まあ、あなたの『潔白な人生』の葬儀だと思えば、あながち間違いじゃないかもしれませんけど」
国枝:「……車を回してある。君の気が済むまで付き合おう。だが、これは僕の『仕事』の一環だ。羽田美咲さんの行方を確認することも、宗像氏の負の遺産を整理するために必要なプロセスだ」
一実:「仕事、仕事。ふふ、まだその鎧を着ているんですね。いいですよ、そう思わないと車も運転できないでしょうから。……でも、途中で泣き言を言っても、私はハンドルを握ってあげませんからね」
二人は、国枝が用意した黒い高級セダンに乗り込んだ。 エンジンが目覚め、重厚な振動がシートを通じて伝わってくる。国枝はハンドルを握り、ゆっくりとアクセルを踏んだ。宗像邸の巨大な鉄門が背後で閉まる音が、ミラー越しに彼を見送った。
車は海岸沿いの国道を、一路北へと向かう。 車内には、坂元裕二の脚本に特有の、濃密で、どこか噛み合わない沈黙が充満していた。
一実:「ねえ、国枝さん。パーキングエリアの自販機で売ってる、あのアメリカンドッグ、どう思います?」
沈黙を破ったのは、あまりにも場違いな一実の問いだった。
国枝:「……アメリカンドッグ? 食べたことがない。不健康な食べ物だ」
一実:「損してますね。あのアメリカンドッグって、世界で一番切ない食べ物なんですよ。衣は甘いのに、中のソーセージは申し訳程度にしょっぱくて。食べてる間中、『私、今、何を食べてるんだろう』って自問自答しなきゃいけない。……あなたの人生、あのアメリカンドッグに似てませんか?」
国枝:「……ふざけるな。食べ物と僕の人生を一緒にするな」
一実:「一緒ですよ。外側は法律とか倫理とかいう甘いパン生地で着飾って。でも、中身は二十年前に腐った小さなソーセージ。……一本食べれば、少しは自分の正体に気づくかもしれませんよ?」
国枝は何も答えず、ただ前方の道路を凝視した。 阿部寛の横顔は、彫刻のように険しい。だが、彼の視界の隅には、ダッシュボードに置かれた一実のバッグから、あの小さな赤い靴のつま先が覗いているのが見えていた。
一実:「あ、そうだ。次の角、左に曲がってください」
国枝:「……なぜだ。国道を直進したほうが早い」
一実:「早さなんて、私たちには必要ないでしょう? 途中で寄りたいところがあるんです。美咲さんの家族が、二十年前に追い出される直前まで住んでいた古いアパート」
国枝の指が、ハンドルの革をギュリと鳴らした。
一実:「そこにはね、まだ美咲さんの父親が植えた朝顔の種が、土の中で眠っているかもしれない。……まあ、アパート自体はもう壊されて、今はただのコインパーキングになっているらしいですけど。……どうですか? 自分の罪の上に、何台の車が停まっているか、数えてみる気分は」
国枝:「……一実、君は僕をどうしたいんだ。ただ壊したいだけなら、もっと手っ取り早い方法があるはずだ。警察に言えば済む」
一実:「警察? そんなの退屈じゃないですか。私はね、あなたが自分の足で、美咲さんの父親の前に立って、その立派なネクタイを泥で汚しながら、『私が娘さんを殺しました』って言うところが見たいんです。その瞬間、あなたの顔がどんなふうに崩れるのか……。それが、私にとっての、何よりも美しいルノワールなんです」
車は、一実の指示通りに旧道へと入っていった。 道の両側には、錆びついた看板や、色あせた自動販売機が並び、時代の流れに取り残されたような風景が広がっている。
国枝は、自分が二十年間、一度もこの景色を見ようとしてこなかったことに気づいた。 彼は常に、高速道路を走り、目的地だけを見て、周囲の痛みや綻びを無視して生きてきた。それが「大人の効率」だと思っていた。
だが、今、助手席に座る不穏な聖女は、彼に一メートルずつの地獄を強制的に見せつけている。
一実:「見てください、あの雲。……大きな犬の形に見えませんか? 自分の尻尾を追いかけて、ぐるぐる回っている悲しい犬の形。……あ、ほら、形が崩れちゃった。大人になると、雲の形すらまともに見られなくなるんですね」
国枝は、バックミラーで自分の瞳を確認した。 そこには、自分でも見たことがないような、怯えた少年の眼差しが浮かんでいた。
一実:「大人になれよ、憲吾さん。自分の弱さを認めて、初めて人は大人になるんです。……さあ、着きましたよ。美咲さんが最後に笑った場所、コインパーキング・羽田へ」
国枝はブレーキを踏んだ。 そこは、何の変哲もない、アスファルトで固められた無機質な空間だった。 だが、国枝には、そのアスファルトの下から、無数の子供たちの声が、地鳴りのように聞こえてくる気がした。
一実の微笑みが、窓から差し込む逆光の中で、冷たく、そしてどこまでも深く、彼を射抜いていた。
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