第四話:名前のない被害者
地下室の重い冷気は、国枝憲吾の肺の奥深くにまで侵入し、彼の呼吸を浅く、苦しいものに変えていた。 彼の手の中には、二十年分の埃を纏った小さな赤い靴がある。それは、法律という文字の羅列では決して表現できない「重さ」を持っていた。
国枝は、トランクの縁を掴み、よろめきながら立ち上がった。彼の仕立ての良いスーツの膝には、地下室の湿った泥がこびりついている。だが、今の彼にはそれを払い落とすだけの気力さえ残っていなかった。
「……宗像氏は、僕を救ったのではなかった」
国枝の声は、虚空を彷徨った。
「彼は僕に、死ぬまで終わらない『刑期』を与えたんだ。この屋敷そのものが、僕の独房だった」
一実:「気づくのが遅すぎましたね。でも、国枝さん。檻の中にいる間、あなたは結構楽しそうに見えましたよ? 誰からも後ろ指を指されず、正論を吐いて、高いワインを飲んで。……人はね、自由よりも『納得できる不自由』を好む生き物なんです。あなたは、自分の罪を宗像重蔵という怪物に預けることで、自分の良心を眠らせることに『納得』していた」
一実は、国枝から懐中電灯を取り上げ、その光で彼の顔を執拗に照らした。眩しさに目を細める国枝の顔には、隠しようのない老いと、そして剥き出しの恐怖が浮かんでいる。
一実:「ねえ、国枝さん。『幸せになりたいって思うのは、誰かを不幸にしたことを忘れた時だけだ』って。……あなたは二十年間、幸せでしたか? それとも、ただ忘れたふりが上手かっただけですか?」
国枝:「……忘れたことなど、一度もない」
国枝は、一実の手から懐中電灯を奪い返そうともせず、暗闇に向かって叫んだ。
国枝:「一度だって、あの夜の雨の音を忘れたことはない! 寝る前に目を閉じれば、必ずあのガードレールの破片が見える。……だから僕は、死に物狂いで働いた。宗像氏の指示通りに、どれほど汚い仕事でも引き受けた。それが、僕なりの贖罪だと思っていたんだ!」
一実:「贖罪? ふふ、笑わせないでください。それはただの『お買い物』ですよ。自分の平穏を買うために、お父様に魂を売っただけ。……本当の贖罪っていうのは、相手のいない場所では成立しないんです」
一実は、トランクから古い新聞の切り抜きを拾い上げ、国枝の胸ポケットにねじ込んだ。
一実:「この新聞、よく読んでください。女児行方不明。名前は『羽田美咲』。当時六歳。もし生きていれば、今の私と同じくらいの年齢ですね」
国枝の全身が、小刻みに震え始めた。 羽田美咲。 その名前を口にしたことは一度もない。だが、彼の深層心理という名の地層には、その四文字が化石のように刻まれていた。
国枝:「……彼女は、どうなったんだ。宗像氏は、彼女の家族には相応の補償をしたと言っていた。事故そのものは、不幸な自損事故として処理され、彼女は……」
一実:「彼女は、見つかっていないんですよ。今でも。この二十年間、彼女の両親がどんな夜を過ごしてきたか、想像したことがありますか? ……お父様はね、補償なんて一円もしていません。それどころか、父親を別の容疑で陥れて、この街から追い出したんです。あなたが安心して『立派な大人』でいられるようにね」
国枝は、背後の事故車を激しく叩いた。鈍い金属音が、地下室に絶叫のように響き渡る。
国枝:「なぜ、今になってこんなことを! 宗像氏が死んだ今、墓場まで持って行けば済む話だろう! 君だって、遺産が欲しいなら、僕を脅して判を押させればいいじゃないか!」
一実:「お金なんて、もう飽き飽きなんです。私が欲しいのは、あなたの『崩壊』ですよ、国枝さん。……あなたが、自分の手で結んだその立派なネクタイを、自分の手で引き千切って、泥水を啜りながら謝る姿が見たい。それが、私への一番の遺産なんです」
一実は、地下室の出口へと歩き出した。彼女の足音は、湿ったコンクリートに吸い込まれ、奇妙な余韻を残す。
一実:「さあ、国枝さん。今日の仕事は終わりです。明日の朝、この屋敷を出発しますよ。行き先は……この新聞に載っている、美咲さんの故郷です」
国枝:「行くわけがない。僕は、遺言執行人だ。ここを離れるわけにはいかない」
一実:「あら、拒否権があると思っているんですか? その赤い靴、警察に届けられたら困るのはあなたでしょう? ……大人になれよ、憲吾さん。自分の後始末くらい、自分でしなさい」
一実の影が、地下室の階段を登り、消えていった。 後に残されたのは、懐中電灯の細い光と、二十年前の幽霊のような事故車、そして、自分の罪の重さに耐えかねて立ち尽くす一人の男だけだった。
国枝は、ゆっくりと胸ポケットから新聞の切り抜きを取り出した。 湿気でボロボロになった紙面には、笑っている少女の写真があった。 その笑顔が、今の彼には、どんな刃物よりも鋭く、自分の心臓を突き刺してくるように感じられた。
彼は、地面に落ちた懐中電灯の光の中に、小さな赤い靴をそっと置いた。 光に照らされた靴は、まるでもう一度、持ち主がそれを履いて歩き出すのを待っているかのようだった。
「……美咲、さん」
二十年ぶりにその名前を呼んだ国枝の声は、誰にも届くことなく、冷たい地下の闇に溶けていった。
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