第三話:助手席の不在
地下室の空気は、地上とは全く別の法則で支配されていた。 カビの匂い、埃の味、そして二十年間閉じ込められていた金属の腐食臭。懐中電灯の光に照らされた銀色のセダンは、まるで深海から引き揚げられた難破船のような、おぞましい静謐を湛えていた。
国枝憲吾は、膝をついたまま、目の前の鉄の塊を凝視していた。 彼の大きな手は、冷たいコンクリートの床を掴んでいる。指先から伝わる冷気が、スリーピースのスーツの下にある彼の筋肉を、不快に強張らせていた。
「……宗像氏は、狂っている」
国枝の声は、地下室の湿った壁にぶつかり、出口を失って彼自身の耳に戻ってきた。
「これを、二十年もここに置いていたのか。あの日、現場でスクラップ業者を呼ぶと言ったのは、彼自身だ。すべては適切に処理され、跡形もなくなったと……私はそう聞かされていた」
一実:「処理、ですか。大人は本当にその言葉が好きですね。ゴミ箱に捨てれば、この世から消えたことになると思っている。でもね、国枝さん。消えるのはあなたの視界からだけで、世界からは何も消えないんですよ。お父様は知っていたんです。あなたがいつか、自分の正義感に飽きて、この場所に戻ってくることを」
一実は、開いた助手席のドアの縁を、愛おしそうに指先でなぞった。 その指先が、シートに残された黒い染みのすぐ近くを通る。国枝は、思わず目を逸らした。
一実:「ねえ、国枝さん。昨日の夜、何を食べましたか?」
国枝:「……何の話だ」
一実:「聞いてるんです。昨日の夜、何を食べたかって」
国枝:「……コンビニの、味のしないサンドイッチだ。それがどうした」
一実:「レタスは入っていましたか? マヨネーズの味は? ……大抵の人は、三日前の夕飯の内容を忘れます。でもね、あの日、あなたがこのハンドルを握っていた時に、ラジオから流れていた曲は覚えているでしょう? 窓を叩いていた雨の粒の大きさや、対向車のライトが網膜に焼き付いたあの白さ。……そういうものは、一生、胃の中に残るんです」
一実は、助手席に腰を下ろした。 ギィ、という金属の悲鳴が、国枝の神経を逆撫でする。
国枝:「降りろ。そこは……君が座っていい場所じゃない」
一実:「あら、誰ならいいんですか? 二十年前、ここに座っていたはずの、あの『目撃者』ですか?」
国枝の肩が、目に見えて跳ねた。 彼は這うようにして立ち上がり、一実の腕を掴んで引きずり出そうとした。だが、一実はその力を柳のように受け流し、逆に国枝のシャツの襟元を掴んだ。
一実:「逃げないでくださいよ、国枝先生。あなたが弁護士として最初に勝ち取った勝訴は、自分の罪の隠蔽だった。……お父様は、その報酬としてあなたを雇った。違う?」
国枝:「……僕は、法を遵守してきた。宗像氏の顧問弁護士として、不当な要求を退け、正当な権利を守ってきた。それだけだ」
一実:「正当な権利。ふふ。じゃあ、この車のトランクに入っているものは、誰の権利なんですか?」
国枝の動きが、凍りついたように止まった。 トランク。 あの日、彼はフロントの損壊ばかりに目を奪われ、背後に何があるかを確認する余裕などなかった。いや、確認することを、本能が拒否していた。
一実は、懐中電灯を国枝に手渡した。
一実:「開けてみてください。あなたの二十年間の月給の、本当の明細が入っていますから。……大人になれよ、国枝さん。自分の給料が、何に対する対価なのか、知る権利があるでしょう?」
国枝は、懐中電灯の重みを、まるで爆弾でも持たされているかのように感じていた。 彼は、足を引きずるようにして、車の後部へと回った。 トランクのノブは、錆びて固着しているようにも見えたが、彼が力を込めると、意外なほどあっさりと、絶望的な音を立てて跳ね上がった。
懐中電灯の光が、その狭い空間を貫く。
そこにあったのは、書類でも、金塊でもなかった。 一足の、小さな子供用の赤い靴。 そして、二十年前の日付が入った、地方新聞の切り抜き。 見出しにはこうあった。 『豪雨の坂道でひき逃げか。女児、行方不明』
国枝の喉から、声にならない呻きが漏れた。 彼は、その赤い靴を見つめたまま、懐中電灯を床に落とした。 光が乱反射し、地下室の壁に、二人の歪んだ影が巨大な怪物のように映し出された。
一実:「……お父様はね、これを拾ったんです。あなたがガードレールを突き破って、呆然と空を見上げていたその横で。彼は、あなたを警察に突き出す代わりに、この靴をポケットに入れた。そして、あなたに最高のスーツと、最高の肩書きを与えたんです」
国枝:「……ひいたのか。僕は、人を」
一実:「知らなかった、なんて言わせませんよ。ハンドルに伝わったあの感触、あなたは今でも、夜中に自分の指先を洗うたびに思い出しているはずだ」
一実は、国枝の背後に立ち、彼の震える背中にそっと手を置いた。 その手の温もりが、国枝には、氷よりも冷たく感じられた。
一実:「ねえ、国枝さん。さっきの朝食の続きの話をしましょうか。目玉焼きの黄身をいつ潰すか。……あなたは、二十年前にそれを潰してしまった。でも、お皿の上を片付けることもせず、ただナプキンで隠して、綺麗な顔をしてレストランを出て行った。……そのナプキンを今、私が剥がしたんです」
国枝は、崩れ落ちたまま、動かなかった。 国枝の瞳からは、光が完全に消失していた。 彼は、自分が守ってきた「法」が、ただの砂の城であり、自分自身がその城の地下に埋められた死体であったことを、ようやく理解した。
一実:「大人になれよ、憲吾さん。本当の地獄は、ここから始まるんです。お父様があなたに遺したのは、財産じゃない。……この靴の持ち主に、会いに行くという『義務』ですよ」
一実は、トランクの中から赤い靴を一つ取り出し、それを国枝の手に握らせた。 小さな、乾いた革の感触。 それは、国枝が二十年間、一度も触れることのなかった「本物の人生」の重みだった。
地下室の入り口から、微かに地上の光が漏れていたが、今の国枝には、それが遠い天国の光のように、到底手の届かないものに見えていた。
一実の微笑みが、暗闇の中で、深く、深く、染み渡っていく。
「さあ、お出かけの準備をしましょうか。弁護士さん」
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