第二話:朝食の不協和音

嵐の後の朝は、皮肉なほどに澄み渡っていた。 宗像邸の広大なダイニングルームには、東向きの巨大な窓から、暴力的なまでの光が差し込んでいる。埃の一粒一粒さえも黄金色に浮かび上がらせるような、重苦しいほどに濃密な光だ。壁に掛けられたルノワールの複製画は、その光を浴びて、描かれた貴婦人の微笑みがどこか歪んで見えた。


国枝憲吾は、十メートルはあろうかという長いマホガニーのテーブルの端に座り、昨夜とは別の、完璧にプレスされた予備のシャツを着ていた。ネクタイも再び、寸分の狂いなく締め直されている。鏡の前で三度結び直したその結び目は、彼の喉元を昨日よりもわずかに強く圧迫していたが、彼はその苦しさを「秩序を取り戻した証」として受け入れていた。


だが、彼の手元にある朝食——完璧な半熟に仕上げられた目玉焼き、一切れの厚切りトースト、そしてブラックのコーヒー——には、一切の手が付けられていない。


国枝の視線は、皿の上の目玉焼きの、その震える黄色い膜に固定されていた。フォークを握る彼の指先は、法律という名の鎧で固められているはずだったが、その内側では、昨夜一実が放った「二十年前の雨の夜」という言葉が、鋭い氷の礫(つぶて)となって彼の平穏を削り取っていた。


「……目玉焼きの黄身って、いつ潰すのが正解だと思いますか?」


静寂を切り裂いたのは、昨夜と同じ、形のない霧のような声だった。 一実が、音もなくダイニングに入ってきていた。彼女はクラシックな黒いレースをあしらったブラウスを纏い、まるで喪が明けるのを拒む未亡人のような、あるいは誰かの葬儀を待ちわびる参列者のような、不穏な華やかさを漂わせている。


彼女は、国枝の向かいではなく、わざと一つ隣の席に滑り込むように座った。


一実:「私はね、一番最後に潰すんです。お皿の上がぐちゃぐちゃになるのが、物語の結末みたいで。でも、あなたはきっと、最初に潰して、あらかじめ絶望を済ませておくタイプでしょう?」


国枝:「……なぜここにいる。君の食事は、自室に運ばせるよう手配したはずだ」


国枝の声は、昨夜よりも一段と低く、掠れていた。彼は視線を皿から上げず、ただ言葉だけを彼女に投げつける。


一実:「大人はすぐに『なぜ』って理由を欲しがりますね。寂しいからに決まっているじゃないですか。こんなに広い家で、死んだお父様の幽霊と、首を絞められそうな顔をした弁護士さんと、私。……ねえ、国枝さん。そのコーヒー、冷めると後悔の味になりますよ」


一実は、国枝が一口もつけていないトーストを、自分の細い指先で千切った。そして、それを国枝の皿の目玉焼きの黄身に、躊躇なく突き立てた。


溢れ出した黄色い液体が、白い皿の上を無慈悲に汚していく。


国枝:「……何をする」


一実:「ほら、結末が来ちゃいました。もう逃げられませんよ。……ねえ、知っていますか? お父様がよく言っていたんです。『国枝は、自分のネクタイに首を絞められて死ぬだろう。それが彼にとって、唯一の救済になる』って」


国枝:「宗像氏がそんなことを言うはずがない。彼は徹底した合理主義者だ。呪いや救済なんて言葉は、彼の辞書にはなかった」


一実:「合理主義者、ですか。ふふ。そうかもしれませんね。お父様にとって、あなたの『罪』を買い取って、二十年間飼い殺しにすることは、とても合理的な投資だったんでしょうから。……ねえ、国枝さん。ある人が言っていました。『秘密は、共有した瞬間に腐り始める』って。あなたの秘密、もう結構いい匂いがしていますよ?」


一実は、黄身に濡れたパンを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。その動作は残酷なほどに優雅だった。


国枝:「……君が何を求めているのかは知らないが、僕は法に従ってこの遺産を整理するだけだ。君が実の娘であろうとなかろうと、目録にないものは存在しない。それが僕の仕事だ」


一実:「目録、ですか。じゃあ、目録に載っていない『地下室の住人』については、どう説明するんですか?」


国枝の手が、わずかに震えた。彼はコーヒーカップを掴もうとしたが、指が滑り、銀のソーサーがカチリと硬い音を立てた。


国枝:「……地下室に住人などいない。あそこにあるのは、ボイラーと古びた備品だけだ」


一実:「いいえ、いますよ。あなたが二十年前に捨ててきた、あなた自身の死体が。……さあ、行きましょう。朝食の続きは、暗闇の中で」


一実は立ち上がり、国枝の手首を掴んだ。その指先は、驚くほど冷たかった。


二人は、迷宮のような廊下を抜け、冷たい湿気が立ち込める地下へと降りていった。 電球の切れかかった階段を下りるたび、国枝の耳の奥では、あの夜のブレーキ音と、砕けるガラスの音がリフレインしていた。


一実が立ち止まったのは、錆びついた鉄扉の前だった。彼女はブラウスの隠しポケットから、古びた真鍮の鍵を取り出した。


一実:「この扉、お父様が亡くなってから一度も開けられていないんです。鍵を回す勇気、ありますか? それとも、ここで逃げ出して、また綺麗なネクタイを結び直しますか?」


国枝は、無言で一実から鍵を奪い取った。 彼の手ははっきりと震えていたが、その瞳には、自分の地獄を確認せずにはいられない、逃れられない業の火が宿っていた。


鍵が回る、重く鈍い音。 扉が開いた先、暗闇の中に一実が懐中電灯の光を向けると、そこには信じがたい「遺産」が鎮座していた。


国枝:「……嘘だ……。なぜ……これが……」


そこにあったのは、一台の車だった。 二十年前、雨の坂道で、国枝が運転し、ガードレールを突き破ったはずの、あの銀色のセダン。 フロントは大破し、フロントガラスは蜘蛛の巣状に割れ、室内には雨漏りによるカビと、そして——助手席のシートに、こびりついたままの「黒いシミ」が、光を浴びて浮かび上がった。


一実:「お父様はね、この車をスクラップにさせなかった。わざわざクレーンで吊り上げて、この屋敷の地下に埋めたんです。あなたの罪を、永遠に腐らない剥製にするために」


国枝は、車体に触れようとして、膝から崩れ落ちた。 ひんやりとした地下のコンクリートが、彼の高価なスラックスを汚していく。だが、今の彼にはそれを気にする余裕はなかった。


一実:「大人になれよ、憲吾さん。過去を消したつもりで、自分だけ清潔な部屋で、清潔な言葉を吐いて生きてきた。でも、あなたの魂は、二十年間ずっとこの運転席に座ったままだったんですよ。……ほら、ハンドルを握ってみて。まだ、あの人の手の温もりが残っているかもしれませんよ?」


一実は、歪んだ助手席のドアを乱暴に開けた。 軋む金属音が、狭い地下室に絶叫のように響き渡った。


国枝は、暗闇の中で、自分の吐息が白く濁るのを見た。 そこにあるのは鉄の塊ではない。彼が二十年間、見ないふりをしてきた、剥き出しの「真実」という名の怪物だった。


一実の微笑みが、懐中電灯の逆光の中で、冷たく、そして美しく輝いていた。

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