名前のない遺産

@princekyo

第一話:名前のない遺言、あるいはネクタイの結び目

海鳴りが、この屋敷の唯一の心音だった。 断崖に建つ宗像邸は、数千年の月日が積み上げた地層の上に、傲慢な王の冠のように鎮座している。その内部は、外界の時間を遮断した巨大な砂時計のようでもあった。


国枝憲吾は、書斎の重厚なデスクに向かい、一通の書類と対峙していた。 彼の背中は、完璧に誂えられたスリーピースのスーツに包まれ、彫刻のように動かない。数分間に一度、万年筆を持つ右手をわずかに動かす。その節くれだった大きな指先は、法律という名の剣を振るう騎士のようであり、同時に、自分の人生を細かく裁断していく死刑執行人のようでもあった。


国枝にとって、この一週間は、二十年間の平穏が崩壊していく前奏曲に過ぎなかった。 大富豪・宗像重蔵の死。それは単なる老人の退場ではなく、国枝という人間を繋ぎ止めていた唯一の鎖が千切れたことを意味していた。


「……十七、十八、十九」


国枝は、書架の整理番号を呟いた。声は低く、壁の防音材に吸い込まれて響かない。 この書斎には五千冊の蔵書がある。その一冊一冊の裏側に、宗像が隠してきた醜聞や、国枝がもみ消してきた罪の破片が隠されている。彼はそれを、一文字の狂いもなくカタログ化し、地獄の業火で焼く準備を整えなければならなかった。


その時、重い樫の木の扉が、音もなく開いた。 この屋敷の扉は、すべて完璧に調律されている。開閉の音すら、主人の機嫌を損ねないように設計されているのだ。だが、その無音の隙間から滑り込んできた空気は、国枝の首筋を氷のように冷やした。


「夜中の三時に一人で図書委員の真似事なんて。国枝さん、あなた本当に救いようのない大人ですね」


振り返らなくてもわかった。一実の声だ。 その声は、霧のように実体がない。柔らかく、心地よく、だが吸い込めば肺を湿らせて腐らせるような湿気を含んでいる。


国枝は万年筆を置き、ゆっくりと椅子を回転させた。 そこには、シルクのナイトガウンを纏った一実が、影の中に立っていた。彼女の肌は、月明かりを吸い込んだ陶器のように白く、その瞳は夜の海よりも深い色を湛えている。気品と、拭いきれない毒を併せ持った立ち姿だった。


一実:「そんなに眉間に皺を寄せて。数字や名前を数えたって、死んだ人は帰ってこないし、生きてる人は救われませんよ。あ、それとも、数字を数えてないと、自分がどこにいるか分からなくなっちゃうんですか?」


国枝:「一実さん。君がこの部屋に立ち入る権利はないはずだ。遺言執行人として、僕は君に三度目の警告をする。自分の部屋に戻れ」


一実:「権利、権利って。大人は本当にその言葉が好きですね。ハンコが押された紙切れ一枚あれば、世界が平和になると信じている。ねえ、国枝さん。そのネクタイ、苦しくないですか? さっきからずっと、左に二ミリずれてますよ。あなたの良心が、少しだけ窒息しかけているみたい」


一実は、ふわりとした足取りで国枝に近づいた。彼女の手には、琥珀色の液体が揺れるクリスタルグラスが二つ握られている。


一実:「これ、地下の奥で見つけたんです。お父様が『これは鏡の味がする』って言っていたウイスキー。一口いかがですか? 嘘をつきすぎて喉がカサカサになっている弁護士さんには、最高のお薬ですよ」


国枝:「仕事中だ。不純物は一切、体内に入れたくない」


一実:「不純物。ふふ、いいですね。じゃあ、あなたが今守ろうとしているその『宗像重蔵の遺産』は、純粋だとでも思っているんですか? あの人が一生をかけて集めたのは、金や宝石じゃない。誰かの悲鳴と、誰かの沈黙と、そして……あなたみたいな、自分を殺して生きている男の『従順さ』ですよ」


国枝は、一実の言葉を無視するように立ち上がった。身長差が一気に開き、書斎に圧倒的な威圧感が走る。壁に映る彼の影は、巨大な獣のように壁を這った。


国枝:「君が誰であろうと、僕のやるべきことは変わらない。この屋敷の資産を法に従って分類し、宗像氏の意志を完遂する。君が本当に彼の娘なら、その分け前を待っていればいい。だが、もし君が詐称者なら……」


一実:「詐称者なら、どうするんですか? 警察に突き出す? それとも、お父様がやったみたいに、海の底に沈めるんですか? ……あ、ごめんなさい。国枝さんは『綺麗な仕事』しかしないんでしたっけ」


一実は、グラスの一つを国枝のデスクに置いた。それも、彼が最も大切に扱っていた「宗像重蔵の秘密帳簿」の、まさにその上に。


国枝:「退けろ。汚れる」


一実:「いいじゃないですか。汚れた方が、中身がはっきり見えるかもしれませんよ。ねえ、国枝さん。気の利いたセリフなんて、期待しないでくださいね。私はね、本音しか喋りたくないんです。大人が一番怖がっている、あの剥き出しの本音」


一実は、自分のグラスを国枝のグラスにチリン、と当てた。 静寂の中に響いたその音は、まるで死刑台の階段を登る足音のようだった。


一実:「大人になれよ、国枝さん。自分の罪を『仕事』っていう名前の金庫に隠して、鍵を飲み込んだふりをするのは、もう終わりにしましょう。お父様は死んだんです。あなたを飼っていた飼い主は、もうどこにもいない」


国枝:「……私が飼われていたと、そう言いたいのか」


一実:「ええ。最高級の首輪をつけられた、血筋のいい番犬。でもね、番犬は飼い主が死ぬと、どうなるか知っていますか? 自由になるんじゃないんです。自分が、誰を噛めばいいのか分からなくなって、自分自身の喉を食い破るんですよ」


国枝は、デスクに置かれたグラスをひったくるように掴んだ。 彼はそれを一気に煽った。喉を焼くような、暴力的なまでのアルコールの刺激。 それは、彼が二十年間封印してきた、自分自身の「体温」を思い出させる味だった。


一実:「あら……。飲んじゃった。毒薬、効いてきました?」


国枝は空になったグラスを、叩きつけるようにデスクに戻した。


国枝:「……いいだろう、一実。君がこの屋敷に何を探しに来たのか、力ずくで聞き出してやる。僕が番犬だと言うなら、噛み付く相手を君に決めてもいい」


一実:「ふふ。いい目。やっと、人間らしい顔をしましたね。……ねえ、国枝さん。芝居を始めましょう。タイトルは『名前のない遺言』。主演は、過去を捨てた男と、過去を奪いに来た女。……第一場の幕開けです」


一実は、国枝の胸元に手を伸ばし、彼の完璧なネクタイの結び目を、ゆっくりと、だが力強く引き解いた。


解かれたネクタイが、国枝の首元で死んだ蛇のようにだらしなく垂れ下がっている。 国枝憲吾は、そのわずかな解放感に耐えられず、椅子に深く背中を預けた。彼の瞳は、怒りよりも深い困惑に揺れている。彼は、自分の喉仏が上下に動くのを自覚し、それを隠すように空のグラスを弄んだ。


一実:「そんなに嫌な顔しないでください。ネクタイを解くっていうのはね、自分に『降伏』を認める儀式なんですよ。あなたは二十年間、ずっと自分に勝ち続けてきた。勝って、勝って、そのたびに心の一番柔らかい部分をすり潰してきた。違いますか?」


国枝:「……降伏などしていない。僕はただ、君という予測不能な不純物に、一時的な対処をしているだけだ」


一実:「不純物。さっきからそればっかり。ねえ、国枝さん。大人が一番恐れている不純物って、何だか知っていますか?」


国枝は答えず、ただじっと彼女を見据えた。


一実:「『恥』ですよ。自分が間違っているかもしれない、自分が滑稽かもしれない。そう思ってしまう瞬間を、あなたたちは死ぬほど怖がっている。だから鎧を着る。だからネクタイを締める。でもね、お父様は死の間際、こう言いました。『国枝は、自分のネクタイに首を絞められて死ぬだろう。それが彼にとって一番幸せな死に方だ』って」


国枝:「宗像氏がそんなことを……。いや、嘘だ。彼はそんな感傷的な男じゃない」


一実:「感傷? いいえ、呪いですよ。お父様は、あなたのことが大好きだった。自分のために魂を捨て、泥を啜り、それでもシャツを真っ白に保ち続けるあなたのその『不自然さ』を愛していたんです。彼はね、壊れゆくものよりも、壊れているのに気づかないふりをして直立不動でいるものが好きだった」


一実は、デスクの端に置いてあった古いペーパーナイフを手に取り、指先でその刃をなぞった。


一実:「ねえ、国枝さん。このネクタイ、切っちゃいましょうか? 呪いの鎖を断ち切るみたいに」


国枝:「やめろ。……一実さん、君の目的は何だ。金か? それとも、宗像家という名前への復讐か?」


一実:「目的、なんていうハッキリしたものは、大人のポケットにしか入っていませんよ。私はただ、この屋敷に充満している『嘘の匂い』が好きなだけ。あなたの嘘、お父様の嘘、そして私が今ついているかもしれない、この嘘。……嘘は恋のスパイスだけど、真実は愛の毒薬だ、なんていう言葉がありますけど、私にはそんな気取った言い方はできません。私はただ、あなたが苦しむ顔が見たいだけ」


一実の語り口は、どこか楽しげですらあった。彼女はナイフを置き、国枝の顔に自分の顔を近づけた。彼女の吐息には、かすかにジャスミンの香りと、冷たい夜の冷気が混じっている。


一実:「大人になれよ、憲吾さん。嘘をつくなら、もっと美しく。真実を隠すなら、もっと残酷に。あなたが抱えているその『二十年前の雨の夜』の記憶……それを私に預けてくれたら、私はあなたのネクタイをもっと綺麗に結び直してあげますよ」


国枝:「……知っているのか。あの夜のことを」


一実:「知っていますよ。ガードレールの破片、雨に混じるガソリンの匂い、そして、あなたが握りしめていたはずの、誰かの手の冷たさ。……お父様はすべてを買い取ったんです。あなたのその『地獄』を」


国枝は、椅子から立ち上がろうとして、力が抜け、再び座り込んだ。 書斎の壁にかかった大きな振り子時計が、一秒ごとに、重い金属音を響かせている。 それは国枝の心臓の鼓動を刻む音であり、同時に、彼が築き上げてきた「偽りの大人」としての時間が、砂のように崩れていく音でもあった。


一実:「さあ、夜が明ける前に、もう一杯飲みましょう。今度は、私の秘密を半分だけ、あなたに差し上げますから」


一実は、自分のグラスを国枝の口元へ運んだ。 拒絶することも、受け入れることもできず、国枝はただ、彼女の深い瞳の中に、自分がかつて捨て去ったはずの「幼い自分」の影を見ていた。


海鳴りは、いつの間にか止んでいた。 代わりに聞こえてくるのは、屋敷のどこかで、誰かがむせび泣いているような、風の音だけだった。

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