第3話

家に帰れば安らぎがある。

 それは幻想だった。少なくとも、今の俺、天堂湊にとっては。


 学校から帰宅し、夕食を終えた後の午後9時。

 父と母は早々に寝室へと引き上げ(あるいは、若い二人に気を使ったのかもしれない)、リビングには俺と深月の二人だけが残されていた。


 テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているが、俺の耳には全く入ってこない。

 なぜなら。


「……ふぅ。さっぱりしたぁ」


 脱衣所のドアが開き、風呂上がりの深月が入ってきたからだ。

 その姿を見た瞬間、俺は持っていた麦茶のグラスを落としそうになった。


「み、深月……お前、その格好」

「ん? どうしたの、湊くん?」


 深月は首を傾げる。

 濡れた髪から水滴が滴り、鎖骨を伝って胸元へと吸い込まれていく。

 問題なのは、彼女の服装だ。

 昨日までの彼女は、家では中学時代の学校ジャージ(緑色)を愛用していた。「楽だから」という理由で、色気もへったくれもない格好でゴロゴロしていたはずだ。


 だが、今は違う。

 淡いピンク色のキャミソールに、極短のショートパンツ。

 白く滑らかな太ももが惜しげもなく晒され、キャミソールの生地は薄く、体のラインを隠そうともしていない。


「な、なんだその服は! ジャージはどうした!」

「捨てた」

「はあ!?」

「だって、湊くんのお嫁さんになるのに、いつまでもジャージじゃダメでしょ? 今日、帰りに買ってきたの。……どう? 可愛い?」


 深月がクルリと回ってみせる。

 甘いシャンプーの香りと、風呂上がりの熱気がふわりと漂ってくる。

 可愛いか、と聞かれれば、悔しいが即答で「超可愛い」だ。

 学校の男子が見たら鼻血を出して倒れるレベルの破壊力がある。


「か、可愛いけど……露出が高すぎる! 風邪引くぞ!」

「大丈夫だよ。湊くんが温めてくれるもん」


 深月は悪びれもせず、トテトテと歩み寄ってくると、俺が座っているソファーの隣――いや、ほとんど俺の膝の上に近い位置にドスンと座り込んだ。


「ち、近い!」

「遠いよ。もっとくっつきたい」


 深月が俺の腕に自分の腕を絡め、頭を肩に乗せてくる。

 お風呂上がりの少し火照った肌が、俺の腕に触れる。

 柔らかい。そして熱い。

 今まで「妹」というフィルター越しに見ていたものが、フィルターが外れた途端、高解像度の「女性の肉体」として脳に認識されてしまう。


(落ち着け、俺。素数を数えるんだ。2、3、5、7……)


 俺が必死に理性を保とうとしていると、深月が俺の手を掴み、自分の頭に乗せた。


「湊くん、髪乾かして」

「……自分でやれ」

「やだ。湊くんにやってほしいの。……昔はよくやってくれたじゃん」


 確かに、小学生の頃まではやっていた。

 だが、それは「兄妹」だったからだ。

 こんな無防備な格好をした、年頃の美少女(婚約者予定)にするスキンシップではない。


「ほら、早くぅ。風邪引いちゃうよ?」

「くっ……」


 上目遣いでねだられ、俺は降参した。

 ドライヤーを持ってきて、コンセントに差す。


 ブォォォォォ……。

 温風を当てながら、俺は深月の長い黒髪を指で梳く。

 サラサラとした手触り。指に絡みつく感触。

 深月は気持ちよさそうに目を細め、猫のように喉を鳴らしている。


「ん……気持ちいい。湊くん、上手」

「お世辞を言うな」

「本当だよ。……ねえ、湊くん」

「なんだ」


 深月が、背中を向けたまま呟いた。


「私ね、ずっと夢だったんだ」

「夢?」

「うん。こうやって、好きな人に髪を乾かしてもらって、そのあと『いい匂いだね』って抱きしめられるの」


 深月が振り返る。

 至近距離で視線が絡み合う。


「……叶えてくれる?」


 ドライヤーの音が、やけに遠くに聞こえる。

 俺の手が止まる。

 深月の瞳は潤んでいて、拒絶されることなんて微塵も考えていない、全幅の信頼と愛情に満ちていた。

 抱きしめたい。

 本能がそう叫んでいる。

 血は繋がっていない。法的にも問題ない。両親も(呆れつつも)認めている。

 なら、ブレーキをかける理由はどこにある?


(……ダメだ。ここで流されたら、俺は一生深月の尻に敷かれる!)


 俺は最後の理性を振り絞り、ドライヤーのスイッチを切った。


「……はい、終わり。乾いたぞ」

「むぅ。……湊くんの意気地なし」


 深月は不満そうに唇を尖らせたが、すぐに気を取り直したようにニカッと笑った。


「まあいいや。これからは毎日チャンスがあるしね。……覚悟しておいてね? 私は絶対に、湊くんを陥落させるから」


 深月は俺の頬にちゅっ、と軽いキスを落とすと、身軽な動作で立ち上がった。


「おやすみ、私の旦那様(予定)」


 パタパタと自室へ戻っていく深月。

 残された俺は、ソファーに深く沈み込み、両手で顔を覆った。


「……心臓が持たん」


 これが毎日続くのか?

 朝起きたら「おはようのキス」をねだられ、学校では周囲の視線に晒され、夜は風呂上がりの誘惑に耐える。

 苦行だ。あまりにも甘く、幸せな苦行。

 俺の理性の堤防が決壊するのは、時間の問題かもしれない。


          ◇


 翌日。

 寝不足の目を擦りながらリビングに行くと、エプロン姿の深月が朝食を作っていた。


「あ、湊くん! おはよう!」


 深月が振り返る。

 制服の上にエプロン。

 ベタだが破壊力抜群のスタイルだ。


「おはよう、深月。……今日は早いな」

「うん! 今日から『花嫁修業』の一環として、朝ごはんとお弁当は私が作ることにしたの!」

「お弁当?」

「そう。湊くんのお弁当。……あ、もちろん『あーん』付きだよ?」


 深月がウインクする。

 俺は朝から頭を抱えた。

 昨日の学食での騒ぎをもう忘れたのか。いや、確信犯だ。彼女は既成事実を積み重ねて、俺を逃げられないように包囲しているのだ。


「深月……頼むから、学校では自重してくれ。俺の命に関わる」

「大丈夫だよ。私の愛の力で守ってあげるから」


 全く会話が噛み合わない。

 俺たちが朝食(ハート型の目玉焼きだった)を食べていると、玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


「ん? こんな朝早くに誰だ?」

「宅急便かな?」


 俺が玄関のドアを開けると、そこには一人の少女が立っていた。

 栗色のショートカットに、大きな瞳。

 俺たちの幼馴染であり、深月の親友でもある、小日向(こひなた)ヒナだ。


「……おっはよー、湊。迎えに来たよ」


 ヒナは笑顔で手を振ったが、その目は笑っていなかった。

 彼女の視線は、俺の後ろから顔を出した深月に釘付けになっている。


「あら、ヒナちゃん。珍しいわね、朝から来るなんて」

「うん。ちょっと気になる噂を聞いたからさ。……ねえ深月、湊」


 ヒナが一歩、踏み込んでくる。

 その鋭い視線が、俺たち二人を交互に射抜いた。


「掲示板で見たんだけど……あんたたち、なんか隠してない?」


 ドキリとした。

 女の勘か。それとも情報網か。

 俺たちの「秘密」に、早くもメスを入れようとする闖入者が現れたのだ。


「隠し事? 何のことかなー?」


 深月はとぼけているが、俺の腕にしがみつく力が強くなっている。

 これは、マズい。

 ヒナは昔から勘が鋭い上に、実は俺に対して――いや、自意識過剰はやめよう。

 とにかく、俺たちの「従兄妹バレ」生活に、新たな波乱の予感が漂い始めていた。


 ――次回、掲示板もざわつく「幼馴染の乱入」。

 修羅場の予感がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る