第5話『母の日記』

第5話『母の日記』


出航して九日が経った。


海は、ますます荒れてきた。


波が高く、風が強い。


「……死海が、近いのかもしれません」


サラが地図を見ながら言った。


「死海?」


「ええ。伝説によれば、死海は音が消える海。沈黙の海とも呼ばれています」


「音が消える……」


不気味だ。


「でも、心臓は、その死海の奥にあります」


「……そっか」


私は羅針盤を見た。


針は、北を指していた。


でも、針が揺れている。


「……羅針盤が、不安定になってきた」


「死海が近い証拠です」


「……もうすぐだ」


その日の午後、私は船室で休んでいた。


右手を見る。


熱は完全に引いた。


でも、まだ少し違和感がある。


「……力を使うと、体に負担がかかるんだ」


サラの言う通り、私の体はまだ力に慣れていない。


「……でも、心臓を手に入れたら、もっと強い力を使うことになる」


その時、ふと、船室の壁に目が留まった。


「……ん?」


壁に、小さな隙間がある。


「……これ、何?」


私は壁に近づいた。


隙間を指で押すと、壁が動いた。


「……隠し部屋?」


壁の奥に、小さな空間があった。


中には、一冊の日記が置かれていた。


青い革表紙。


「……日記?」


私は日記を手に取った。


表紙に、文字が刻まれている。


『セレーナ』


母さんの名前。


「……母さんの日記」


私は震える手で、日記を開いた。


最初のページには、日付と場所が書かれていた。


『18年前、北の海にて』


18年前。


私が生まれる年だ。


『ダリウスと、北の海へ来た』


『心臓を探すために』


私は息を呑んだ。


『心臓は、死海の奥にある』


『三つの試練を越えれば、手に入る』


『でも、心臓には代償がある』


『使うほどに、人間性を失う』


『記憶を失う』


『感情が薄れる』


『そして、最後には、海の一部となり、消える』


私は手が震えた。


『私は、怖い』


『でも、海を守りたい』


『海の民として、心臓を手に入れなければ』


ページをめくる。


『三つの試練を越えた』


『水の試練。火の試練。風の試練』


『それぞれの試練で、私は自分と向き合った』


『水の試練では、勇気を試された』


『火の試練では、知恵を試された』


『風の試練では、心を試された』


『そして、心臓の在処を知った』


次のページ。


『心臓を、手に入れた』


『その瞬間、すごい力が私の中に流れ込んできた』


『海が、私の意志で動く』


『嵐を起こし、波を操る』


『すごい力だった』


『でも、代償が現れた』


『私の右手に、青白い印が浮かんだ』


印。


母さんも、印が出たんだ。


『そして、恐ろしいことが起きた』


『ダリウスの顔が、分からなくなった』


『彼の名前は覚えているのに、顔が思い出せない』


『それが、代償だった』


『私は、恐怖した』


『このまま心臓を使い続けたら、私は全てを忘れてしまう』


『ダリウスも、愛も、自分自身も』


『だから、私は心臓を手放した』


『「ダリウス、私、あなたを忘れたくない」と泣きながら言った』


『ダリウスは、私を抱きしめてくれた』


『「もう大丈夫だ」と言ってくれた』


『心臓は、氷の海の底に戻っていった』


『私の印は、少し薄くなった』


『でも、完全には消えなかった』


『私の体は、日に日に弱っていった』


『代償は、心臓を手放しても残る』


私は涙が溢れた。


母さん。


『でも、後悔はしていない』


『ダリウスと出会えた』


『幸せだった』


『そして、娘が生まれた』


『エメラルディア』


私の名前。


『娘には、この力を継がせたくない』


『でも、もし娘が力を求めるなら』


『この日記を、読んでほしい』


『心臓の真実を、知ってほしい』


『そして、選んでほしい』


『力を求めるか、仲間を選ぶか』


次のページ。


『娘よ、一人で抱え込まないで』


『仲間と、分かち合って』


『それが、代償を乗り越える唯一の方法』


『私は、それができなかった』


『だから、逃げた』


『でも、あなたは違う』


『あなたには、仲間がいる』


『(ここでページが破られている)』


「……え?」


破られている。


重要なページが。


「……なんで」


私は日記を読み続けた。


次のページには、こう書かれていた。


『娘よ、もし心臓を手に入れたなら』


『仲間と力を分かち合う方法がある』


『でも、その方法は、破られたページに書いてあった』


『もし、それが必要なら』


『死海の奥で、水の番人に会いなさい』


『番人が、教えてくれるはずだ』


『愛してる、エメラルディア』


日記が終わった。


私は、泣いていた。


「……母さん」


母さんは、私のことを想って、この日記を残してくれた。


でも、重要なページは破られている。


仲間と力を分かち合う方法。


「……なんで、破ったの?」


でも、母さんは教えてくれた。


水の番人に会えば、分かる。


「……水の番人」


私は日記を胸に抱いた。


「母さん、ありがとう」


その時、扉が開いた。


「リディア、大丈夫か?」


マルコが入ってきた。


「マルコ……」


「泣いてるのか?」


「……母さんの日記、見つけた」


私は日記を見せた。


マルコは日記を読み、顔をしかめた。


「……セレーナさんが」


「でも、重要なページが破られてる」


「破られてる?」


「うん。仲間と力を分かち合う方法が、書かれてたはずなのに」


マルコは溜息をついた。


「……セレーナさんは、お前に全てを知らせたくなかったのかもしれない」


「でも、なんで」


「分からん。でも、この日記には、大事なことが書かれてる」


「大事なこと?」


「『仲間と分かち合え』って。それに、『水の番人に会え』って」


マルコは私を見た。


「お前、一人で抱え込むなよ」


「……うん」


「俺たちがいる。サラも、トムも、リラも、ケイトも、ベンも」


「……ありがとう、マルコ」


私は涙を拭いた。


「……行こう。死海へ。水の番人に会いに」


「ああ」


その夜、嵐が来た。


激しい嵐。


「みんな、つかまって!」


マルコが叫んだ。


船が激しく揺れる。


「うわっ!」


トムが転んだ。


「トム!」


ベンがトムを引き上げた。


「……ありがとう」


「……ああ」


雨が降り注ぐ。


視界が悪い。


「マルコ!見えない!」


「我慢しろ!」


その時、リラが叫んだ。


「リディアさん!海が、言ってます!」


「何を!」


「嵐を抜ければ、死海です!」


「本当!」


「はい!」


「なら、進むぞ!」


マルコが舵を握りしめた。


船が、嵐の中を進む。


激しい雨。


高い波。


でも、私たちは進んだ。


仲間と共に。


そして、嵐を抜けた。


「……あ」


リラが声を上げた。


目の前に、静かな海が広がっていた。


波がない。


風もない。


音が、ない。


「……これが」


サラが呟いた。


「死海……」


静寂の海。


不気味なほど、静かだ。


「……本当に、音が消えてる」


トムが自分の声を確認するように言った。


「ああ。でも、声は聞こえる」


マルコが答えた。


私は羅針盤を見た。


針が、激しく揺れている。


「……羅針盤が」


「どうした?」


「針が、揺れてる」


「……心臓が、近いのかもしれない」


サラが言った。


「心臓……」


私は母の日記を握りしめた。


「母さん、私、水の番人に会いに行くよ」


風が吹いた。


いや、風はないはずだ。


でも、私には感じる。


母さんの声。


「……頑張って」


私は前を見た。


死海の奥に、何かが見える。


「……あれは?」


「……門だ」


マルコが言った。


巨大な門。


氷でできた門。


「……あれを、越えるのか」


「ああ。多分、あの奥に、心臓がある」


私は母の日記を握りしめた。


「……母さん、私、行くよ」


船が、門に近づく。


私は、覚悟を決めた。


心臓へ。


代償を背負っても。


仲間と共に。


そして、母さんの真実を知るために。


「……行こう。みんな、ついてきて」


「ああ」


みんなが頷いた。


船が、門をくぐった。


そして、私たちは、死海の中心へと進んだ。


母さんが歩いた道を。


私も歩く。


でも、今度は一人じゃない。


仲間と共に。

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