第8話|最大の危機
静寂に包まれていた離宮が、突如として獣の咆哮のような怒号に切り裂かれた。
「――火事だ! 裏門から火が出ているぞ!」
衛兵たちの叫び声。煙の焦げ付くような臭いが、花の香りに満ちていた室内を容赦なく侵食していく。リナが窓の外を見ようとした瞬間、部屋の扉が乱暴に蹴破られた。
「リナ殿、こちらへ!」
入ってきたのは、かつて親しく話した騎士のカイル……ではなかった。彼の瞳は虚ろで、口元には不自然な歪んだ笑みが張り付いている。背後には、黒い外套を纏った見知らぬ男たちが数人、抜き放った剣を提げて立っていた。
「……カイルさん? その格好は……」
「殿下はもう終わりですよ。あなたという『弱点』を、政敵たちは逃さなかった。……さあ、大人しく来てもらおうか」
リナが悲鳴を上げる暇もなく、口元に鼻を突くような薬剤を染み込ませた布が押し当てられた。意識が遠のく中、最後に視界に映ったのは、アルフレートが大切に育てさせていた薬草の鉢植えが、無残に踏み砕かれる光景だった。
意識を取り戻したとき、リナは冷たく湿った石造りの地下室にいた。 手首を縛る縄が食い込み、焼けるような痛みが走る。目の前には、暗闇の中で瞳を爛々と輝かせた、アルフレートの弟・エドワード王子が立っていた。
「目覚めたかな、兄上の愛しい『薬』よ」
「エドワード……様。なぜ、こんなことを……」
「兄上のあの狂ったような執着ぶりを見て、確信したのだ。お前さえいなくなれば、あの完璧な氷の王子は自ら崩壊すると。今頃彼は、血眼になって城内を焼き払わんばかりに暴れているだろう。王としての資質を疑わせるには、十分すぎる醜態だ」
エドワードは冷笑を浮かべ、リナの喉元に鋭い短剣の先を押し当てた。冷たい金属の感触に、リナの全身が総毛立つ。
「今から兄上をここへ呼ぶ。彼が私の前に跪き、王位継承権を放棄すれば、お前だけは助けてやってもいい。……どうだ、楽しみだろう?」
リナの胸を、激しい悔しさと悲しみが突き上げた。 自分の存在が、アルフレートを追い詰める刃になっている。彼が心血を注いで守ろうとしてきたものが、私のせいで壊されてしまう。
「……いいえ、来ないで」
リナは絞り出すような声で呟いた。
「なんだと?」
「アルフレート……来ないで! あなたは、王にならなきゃいけない人なの! 私なんかのために、あなたの高貴な魂を汚さないで……! あなたの幸せは、私を助けることじゃない、立派な王様になることなのよ!」
絶叫だった。自分の命がどうなってもいい。ただ、あの孤独な王子が、自分を愛したせいで全てを失うことだけは耐えられなかった。
「ふん、健気なことだ。だが無駄だよ。あいつの足音が聞こえてきた」
その瞬間。 地響きのような爆発音が地下室を震わせた。重厚な石の扉が粉々に砕け散り、硝煙と塵の中に、ひとつの影が浮かび上がる。
「……離せ」
その声は、もはや人間のそれではない。地獄の底から響くような、呪いに満ちた低音。 現れたアルフレートは、返り血を全身に浴び、軍服は裂け、手には折れた剣を握り締めていた。彼の瞳は、かつての知性ある青ではなく、獣のような狂気に染まった赫い光を放っている。
「兄上、動くな! 一歩でも近づけば、この女の喉を――」
「殺せ。……その代わり、この部屋にいる全員の四肢を一つずつ引きちぎり、生きたまま肉を削いでやる」
アルフレートの放つ圧倒的な殺気に、エドワードの手がわずかに震えた。 「狂っている……。たかが平民の女一人のために、正気か!」
「正気だと? そんなものは、リナを連れ去られた瞬間に捨てた。私にとって、この国も、王座も、神さえも、彼女の髪一房の価値もない!」
アルフレートは一歩、また一歩と距離を詰める。エドワードが怯んで剣を振り上げた瞬間、アルフレートは自らの左手でその刃を掴み、力任せに奪い取った。
「あ……が……っ!」
掌から鮮血が溢れ出し、石の床に滴る。だが、アルフレートは痛みなど感じていないかのように、そのままエドワードの胸倉を掴み、壁へと叩きつけた。
「二度とお前の汚らわしい手で、私の光に触れるな」
鈍い音が響き、エドワードが崩れ落ちる。アルフレートは振り返ることもせず、震えるリナのもとへ駆け寄った。
「リナ……リナ……!」
彼は血まみれの左手を構わず使い、リナを縛る縄を引きちぎった。そして、折れそうなほど強く彼女を抱き寄せる。
「ごめんなさい、アルフレート……私のせいで、あなたは……」
リナは、彼の胸元に広がる血の温かさと、鉄錆のような臭いに、涙が止まらなかった。けれど、アルフレートは彼女の涙を、自分の血で汚れた指先で愛おしそうに拭った。
「馬鹿を言うな。……お前が叫んだ声が聞こえた。自分の命よりも私の幸せを願う、その愚かなほど優しい声が」
彼はリナの額に、自分の額を押し当てた。荒い呼吸が混じり合う。
「リナ、お前がいなければ、私に幸せなどないのだ。王座など、お前のいない世界を統べるための退屈な椅子に過ぎない。……私の幸せは、ただここにある。お前が息をし、私を見つめている、この腕の中だけだ」
「……アルフレート」
「二度と離さない。今度は檻ではなく、私の魂に繋いでやる。……血で汚れてしまって済まない。だが、これでお前を傷つけるものは、もうこの世に一人もいなくなった」
彼はリナの唇を、血の味のする、激しくも切実な口づけで塞いだ。 それは救出劇というにはあまりに凄惨で、愛の誓いというにはあまりに狂気じみていた。
けれど、リナはその熱に溺れながら、確信していた。 理性のすべてを投げ打ち、血を流して自分を求めてくれるこの男こそが、自分の世界のすべてなのだと。
暗く冷たい地下室。二人の周囲だけが、燃え上がるような情熱で熱を帯びていた。 王子の背後で、敗北した者たちの呻き声が聞こえる。 アルフレートはリナを横抱きにすると、崩れ落ちた出口へと向かって、毅然とした足取りで歩き出した。
「帰ろう、リナ。私たちの……誰にも邪魔されない場所へ」
朝日が差し込む地上へと。 地獄から生還した二人の影が、長く、深く重なり合っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます