第6話|王子の宣戦布告

建国記念の夜会。王宮の大広間は、数千のキャンドルが放つ光と、貴族たちの欲望が混ざり合った熱気に包まれていた。 磨き上げられた床に映るドレスの色彩は毒々しいほど鮮やかで、オーケストラの奏でる旋律が、リナの心臓を不規則に打ち鳴らす。


「……殿下、やはり私は……」


入場を待つ扉の前で、リナは震える指先を自分の胸元に当てた。 纏っているのは、真夜中の空を切り取ったような深い紺碧のドレス。アルフレートが「お前の瞳の色を映す宝石を選んだ」と語った通り、胸元には巨大なサファイアが冷たい重みを湛えて鎮座している。 どんなに美しく着飾っても、鏡に映る自分は、借り物の翼をつけた小鳥のように見えて仕方がなかった。


「リナ。前を見ろ」


低く、有無を言わさぬ声。 隣に立つアルフレートは、純白の軍服に金糸の飾緒を垂らし、一国の主としての圧倒的な覇気を放っていた。彼は震えるリナの手を取り、手袋越しではない、素肌の熱を伝えるように強く握りしめた。


「怖がることはない。お前の背後には、常に私がいる。お前を傷つける刃は、すべて私が素手で受けてやる」


「……はい」


重厚な扉が開かれた。 「アルフレート・フォン・ベルシュタイン第一王子殿下、ならびに――」 儀典官の声が響き渡る。リナの名前は呼ばれない。ただの「同伴者」としての沈黙。


二人が大階段の最上段に姿を現した瞬間、会場の喧騒が、潮が引くように静まり返った。 何百という視線が、一斉にリナを射抜く。それは純粋な好奇心と、隠しきれない蔑み、そして激しい嫉妬が凝縮された毒の矢だった。


「……見て、あの女。本当に連れてきたのね」 「殿下の正気を疑うわ。薬草の匂いがここまで漂ってきそう」


扇子の陰で囁かれる毒液のような言葉が、リナの耳を刺す。リナは足がすくみそうになったが、腰を抱くアルフレートの腕が、強引なまでに彼女を支えていた。


会場の中央まで歩みを進めると、そこには国王と王妃、そして勝ち誇ったような笑みを浮かべるイザベラ公爵令嬢が待ち構えていた。


「アルフレート。狂ったか」 国王の地を這うような声が、広間に冷たく響く。 「その娘を今すぐ下がらせろ。ここは貴き血が流れる者の集う場だ。どこの馬の骨とも知れぬ平民が足を踏み入れていい場所ではない」


イザベラが一歩前に出て、リナを嘲笑うように見つめた。 「殿下、目を覚ましてくださいませ。その方は殿下を惑わす毒草に過ぎません。私こそが、あなたを支える真の妃に――」


その時だった。 アルフレートがふっと、氷点下の微笑を浮かべた。 彼はリナを抱き寄せていた手を一度離すと、会場のすべての人間を見渡すように腕を広げた。


「毒草か。……面白いことを言う」


その声は、広間の隅々にまで透き通るように響き渡った。冷徹な青い瞳が、獲物を仕留める時の鋭さを帯びる。


「父上、そしてここに集う諸君。勘違いしているようだが、私は今日、お前たちに承認を求めに来たわけではない。……通知しに来たのだ」


アルフレートは再びリナの手を取り、その手の甲ではなく、皆が見守る前で、彼女の「唇」に深く、刻印を刻むような口づけを落とした。


会場に、悲鳴に近い溜息が漏れる。


「……っ、アルフレート様……!」 リナの顔が火が出るほどに赤くなる。だが、彼は離さなかった。


「この女性、リナこそが、私の魂を救い、この命を繋ぎ止めた唯一の存在だ。彼女がいなければ、私はあの森で無残な死体となっていた。お前たちが崇める『王子の血』など、彼女の慈悲がなければ既に腐り果てていたのだ!」


アルフレートの咆哮に近い宣言に、国王の顔が怒りで赤黒く染まる。 「貴様、それが何を意味するか分かっているのか! 国民も、諸侯も、平民の妃など認めんぞ!」


「認めないなら、結構だ。私はこの国を、力でねじ伏せるだけだ」


アルフレートはリナの腰を抱き寄せ、彼女の耳元で囁いた後、再び冷徹な視線を周囲に放った。


「聞け! 私は今日、ここに宣戦布告する。リナを侮辱する者は、私を侮辱する者と見なす。彼女を傷つける言葉を吐く者は、反逆罪としてこの場で処刑しても構わん。……彼女は、私の唯一の女性だ。私の未来も、私の玉座も、すべては彼女と共に歩むためにある!」


沈黙。 誰もが息をすることさえ忘れていた。 一人の女のために、これほどまでの狂気と情熱を公然と晒す王子を、彼らは知らなかった。 イザベラは顔を青ざめさせ、震える唇で「そんな……」と崩れ落ちた。


「リナ。……行くぞ」


アルフレートは呆然とするリナを連れ、国王に背を向けて歩き出した。 「待て、アルフレート! どこへ行く!」 王の怒声が背後に響くが、王子は一度も振り返らなかった。


会場を出て、静寂に包まれた夜の回廊へ出た瞬間、リナの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。


「どうして……どうして、あんなことを……。あなたはもう、後戻りできなくなってしまう」


アルフレートは立ち止まり、泣きじゃくるリナを優しく、けれど逃げられないほど強く抱きしめた。


「後戻りなど、最初からするつもりはない。……怖かったか?」


「怖かったです。……でも、それ以上に、あなたが私を『唯一』だと言ってくれたことが……。私、生きていてよかったって、思ってしまった」


リナが彼の胸に顔を埋めると、アルフレートは満足げに、そして酷く独占的な溜息を吐いた。


「お前は私の薬だと言っただろう。……世界を敵に回すくらい、安い代償だ」


彼の指先が、リナの濡れた頬をなぞる。 夜の風が、二人の香りを混ざり合わせる。 それは、甘美な勝利の夜であり、同時に、世界を相手取った長く激しい愛の戦争の始まりでもあった。


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