第5話|身分差という壁
王宮の空気は、日を追うごとに鋭い針のようにリナの肌を刺すようになっていた。 豪華な装飾が施された廊下を歩くたび、すれ違う侍女たちのひそひそ話が耳に届く。
「……あの方が、殿下の理性を狂わせているという平民の娘?」 「薬草師だなんて、泥にまみれた指先で殿下に触れているのかしら。汚らわしい」
リナは深く俯き、手の中の小さな薬瓶を強く握りしめた。 アルフレートから与えられた絹のドレスは驚くほど軽くて柔らかいのに、今のリナには、鉛のように重く感じられた。
その日の午後、リナは王妃主催のティーパーティへと呼び出された。 「呼び出し」という名の、逃げ場のない処刑場だ。
「あら、いらっしゃい。あなたがアルフレート様を……『介抱』したという娘ね」
声をかけてきたのは、燃えるような紅い髪を高く結い上げた、公爵令嬢イザベラだった。彼女の瞳には、隠そうともしない蔑みの色が浮かんでいる。
「……リナと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
リナが震える声で礼を言うと、周囲の令嬢たちから、扇子で口元を隠した冷ややかな笑いが漏れた。
「あら、挨拶だけは立派なのね。でも、リナさん。あなたが着ているそのドレス、アルフレート様が特注された『星屑の絹』でしょう? 一国の王女でも手に入らない貴重な布地を、ただの薬草師が纏うなんて……滑稽だわ。まるで、カラスが孔雀の羽を刺しているよう」
イザベラの言葉と共に、背後から冷たい衝撃が走った。 「あ……っ!」 隣にいた令嬢がわざとらしくよろけ、リナの背中に熱い紅茶をぶちまけたのだ。
熱い。けれど、それ以上に屈辱で胸が焼けそうだった。 白いドレスに広がる赤茶色のシミ。それは、リナとこの場所の決定的な不調和を象徴しているようだった。
「ごめんなさい、手が滑ってしまったわ。でも、薬草師なら汚れには慣れているでしょう? むしろ、そちらの方がお似合いよ」
令嬢たちの嘲笑が、リナの鼓膜を不快に揺らす。 リナは唇を噛み締め、溢れそうになる涙を必死に堪えた。ここで泣けば、アルフレートの顔に泥を塗ることになる。
「……失礼いたします。着替えて参ります」
逃げるように会場を後にしたリナは、人気のない中庭の噴水際で立ち止まった。 冷たい水が跳ねる音だけが、今の彼女の味方だった。
(私は、何を望んでいたんだろう……)
森でアルフレートを助けたあの時、リナが求めたのは、ただ彼が生き延びることだけだった。 けれど、今の自分はどうだ。彼の寵愛に甘え、身分不相応な夢を見ようとしていたのではないか。 彼が自分に注ぐ愛が深ければ深いほど、彼が本来あるべき「王としての地位」を危うくしているのではないか。
「……私は、あなたの隣にいてはいけない人」
独り言は、風にさらわれて消えた。 その時、背後から力強い足音が近づき、間髪入れずにリナの肩が抱き寄せられた。
「リナ! なぜこんなところに一人でいる。ドレスが……これはどうした」
聞き慣れた、低く心地よい声。アルフレートだった。 彼はリナの汚れた背中を見て、一瞬で瞳を凍りつかせた。
「誰だ。誰がやった」
「殿下、いいんです。私が不注意で……」
「嘘をつくな。お前はそんなに鈍臭くない。……あいつらか。イザベラたちの仕業だな」
アルフレートの全身から、凄まじい殺気が立ち昇る。彼はリナの肩を掴み、無理やり自分の方を向かせた。
「リナ、なぜ言い返さない。なぜ私を呼ばなかった! 私の宝物が汚されているというのに、お前はなぜそんなに悲しい顔をして黙っている!」
「……だって、本当のことだからです!」
リナは叫んだ。溜まっていた感情が、涙と共に溢れ出す。
「私はただの平民です。薬草の土にまみれて生きてきた女です。令嬢たちが言う通り、このドレスも、あなたの隣も、私には相応しくない……。私がいれば、あなたは『狂った王子』だと蔑まれてしまう」
「リナ……」
「お願いです、アルフレート様。私を森へ帰してください。あなたの婚約者は、あんなに綺麗で高貴な方々が相応しい。私は……私は、あなたの邪魔になりたくないの!」
リナの胸を叩く拳を、アルフレートは力強く捕まえ、そのまま彼女を強く、壊れるほど抱きしめた。
「馬鹿なことを言うな。……森へ帰す? 冗談ではない。お前を失うくらいなら、私はこの国ごと捨ててやる」
「殿下……っ、何を……」
「身分だと? 高貴さだと? そんなものは、私を殺そうと毒を盛る奴らも持っている。だが、お前が持っている『命を慈しむ心』を持っている者は、この城には一人もいない」
アルフレートはリナの耳元で、低く、呪いのような愛の言葉を囁いた。
「いいか、リナ。私を蔑む者がいるなら、そのすべてを跪かせてやる。お前を否定する世界なら、そんなものは私が作り替えてやる。お前が私の隣に立つのがふさわしくないと言うのなら、私が王座を降りて、お前の泥にまみれた生活へ堕ちていくだけだ」
「そんな……そんなこと、許されません……」
「許すのは私だ。私はこの国の法だ。……お前を離さない。絶対にな。お前が泣くのは、私の腕の中だけでいい」
アルフレートはリナの涙を親指で乱暴に拭い、そのまま奪うように深い口づけをした。 紅茶の香りと、涙の塩分、そしてアルフレートの熱い吐息が混ざり合う。
リナは、逃げられないのだと悟った。 身分差という絶壁を前にして、彼は道を探すのではなく、絶壁そのものを破壊して突き進もうとしている。 その傲慢で、危ういほどの愛に、リナの心は恐怖を感じながらも、抗いがたい安らぎに浸されていく。
「……お前のドレスは、私が新しく用意する。今度は、誰の言葉も届かないほど、最高に豪華なものをな」
アルフレートの青い瞳は、既に次なる「戦い」を見据えていた。 リナを守るためなら、彼は世界中を敵に回すことさえ厭わない。
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