第3話|冷徹王子の、彼女だけの顔

王宮での生活が始まって一週間。リナが身を置くことになったのは、王子の寝室に隣接する、あまりにも豪奢な「薬草調合室」だった。


窓の外には王宮自慢の庭園が広がっているが、リナにはそれを眺める余裕さえない。なぜなら、主であるアルフレートが、公務の合間を縫っては当然のような顔でここへ居座るからだ。


「……殿下、近すぎます」


リナは、乳鉢ですり潰していた薬草の粉をこぼしそうになり、背後を振り返った。 すぐ後ろに、アルフレートが立っていた。椅子に座るリナの肩を抱くようにして身を乗り出し、彼女の作業をじっと見つめている。


「なぜだ? 私は専属の主として、薬の製造工程を監視しているだけだ」


「監視なら、あちらのソファに座っていてもできます。……そんなに耳元で息を吐かれたら、手元が狂います」


リナの頬は、自分でもわかるほど熱い。彼の纏う、冷ややかなのにどこか情熱的な白檀の香りが、狭い室内で濃密に立ち込め、リナの思考をかき乱していた。


「ふむ。お前が困っている顔は、実に愛らしいな」


アルフレートは悪びれる様子もなく、リナの亜麻色の髪を一房掬い上げると、その先端に唇を寄せた。


「っ……!」


リナの肩が小さく跳ねる。 城内での彼は「氷の王子」そのものだ。冷徹な瞳で政敵を射抜き、無能な家臣には言葉の刃で容赦なく切り捨てる。リナも、廊下ですれ違う彼が部下を冷たく突き放す場面を何度も見てきた。その時の彼は、触れれば指が凍りつきそうなほど、遠く、高い場所にいる人だった。


けれど、この部屋の扉を閉めた瞬間、彼は豹変する。


「リナ。今日は朝からお前の顔を見ていなかった。……死ぬほど長く感じたぞ」


「……まだお昼ですよ、殿下」


「私にとっては三年に等しい。……こちらを向け」


逆らえない力で椅子を回転させられ、リナは彼の逞しい胸板の中に閉じ込められた。アルフレートはリナの膝の間に自分の脚を割り込ませ、逃げ場を完全に奪う。


彼は手袋を脱ぎ捨てた素手で、リナの小さな手を包み込んだ。


「……あ、殿下、手が汚れてしまいます。さっきまで根を扱っていたので」


「構わん。お前の汚れなら、私にとってはどんな宝石よりも価値がある」


彼はリナの指先を一つ一つ、丹念に自分の唇でなぞっていく。節くれだった薬師の指を、まるで極上の甘味でも味わうかのように。


「……っ、ん……。やめてください、恥ずかしい……」


「恥ずかしがることはない。お前は私のものだと言っただろう。私のものを、私がどう愛でようと私の自由だ」


その瞳は、廊下で見せる冷酷な青ではない。熱を帯び、ドロリと溶けたような、深い執着の色。リナはその視線に射すくめられ、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。


「お前は、この城を窮屈だと思っているか?」


不意に、アルフレートのトーンが落ちた。彼はリナの腰に腕を回し、ぐいと自分の方へ引き寄せた。リナの鼻先が、彼の軍服の冷たいボタンに触れる。


「……正直に言えば、少しだけ。村ではもっと自由に歩けましたから」


「そうか。……だが、許さないぞ」


彼の腕に、力がこもる。痛いほどではないが、決して離さないという強固な意志が伝わってきた。


「お前を外に出せば、またあの森の時のように、誰かがお前を傷つけるかもしれない。あるいは、誰かがお前のその瞳に見惚れて、私から奪おうとするかもしれない。……それを想像するだけで、私は自分の理性が壊れる音がする」


「殿下……」


「リナ、お前はここで、私の体温だけを感じていればいい。他は何もいらない。……そうだ、明日の晩餐も、私の隣で食べろ」


「それは無理です! 私はただの薬師で、貴族の方々に何と言われるか……」


「黙らせる。お前に不敬を働く舌があるなら、すべて根元から抜いてやる」


冗談には聞こえない。彼の声には、本物の狂気が混じっていた。 リナは恐ろしさを感じると同時に、どうしようもなく胸が熱くなるのを感じていた。世界中を敵に回しても自分を守るという、独善的で、あまりにも重すぎる愛。


「……殿下は、どうして私なんかに、そこまで……」


リナが消え入りそうな声で問うと、アルフレートはふっと、年相応の少年のように優しく微笑んだ。


「お前だけだったからだ。私を『王子』としてではなく、死にかけた『ひとりの男』として見つめ、泥にまみれて助けてくれたのは。……お前の前でだけ、私は凍らずにいられる」


彼はリナの額に、慈しむように自分の額を押し当てた。 混じり合う吐息。重なる鼓動。 リナは気づいてしまった。彼が他人に対して氷のように冷たいのは、その内側に秘めた、リナ以外には決して分かち合えないほどの「灼熱の孤独」を隠すためなのだと。


「……わかりました。明日の晩餐、お供します。ですから、あまり物騒なことは言わないでくださいね」


リナが困ったように笑って彼の胸にそっと手を添えると、アルフレートは満足げに喉を鳴らした。


「ああ。お前が側にいるなら、私はいくらでも『慈悲深い王子』を演じてやろう。……ただし、夜になったら、その分たっぷり褒美をもらうがな」


「……っ、もう! 作業に戻ります!」


リナは真っ赤になって彼を突き放そうとしたが、アルフレートはその手を離さず、再び深い口づけを落とした。


窓の外では、王子の冷徹さを噂する家臣たちの声が風に乗って流れていく。 けれど、この閉ざされた調合室の中だけは、狂おしいほどの甘い香りと、一人の男の異常なまでの溺愛に満たされていた。


リナは、自分がもう、この金色の檻から逃げ出すことなどできないのだと、幸福な諦めとともに悟り始めていた。


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