第1話|運命の出会いは、森の中で

静まり返った森の奥深くに、湿った土と、雨上がりの草木が放つ濃厚な青い香りが立ち込めていた。


「……ひどい傷。でも、まだ息はある」


薬草師の娘、リナは、木々の隙間から差し込むわずかな木漏れ日を頼りに、その男を覗き込んだ。


銀糸を織り込んだような豪奢な上着は、どす黒い血に汚れ、引き裂かれている。その下に隠された体は、刃物による深い傷がいくつも刻まれていた。リナは膝をつき、震える手で男の胸元に耳を寄せた。


ドクン、ドクン。


弱々しいが、確かに刻まれる鼓動。そのリズムに、リナの心臓も跳ねた。


「死なせない。……絶対に」


リナは無我夢中で作業を始めた。籠から取り出した薬草を石で叩き、新鮮な苦い香りを引き出す。止血の効果がある「月の雫草」だ。それを男の傷口に塗り、自分のスカートの裾を裂いて包帯代わりにした。


指先に触れる彼の肌は、驚くほど熱く、同時に冷たかった。男の荒い吐息が、リナの頬をかすめる。意識を失っているはずなのに、彼は苦痛に顔を歪め、リナの手首を無意識に掴んだ。


「っ……痛い」


万力のような力。けれど、その震える指先からは、深い孤独と、生への執着が伝わってきて、リナの胸は締め付けられた。


「大丈夫ですよ。私はここにいます」


リナは優しく囁き、空いた方の手で、男の額に張り付いた濡れた黒髪をそっと払った。 その瞬間、彼女は息を呑んだ。 現れたのは、神が丹精込めて作り上げたかのような、あまりに端正な顔立ち。氷のように整っていながら、どこか寂しげなその美しさに、心臓が大きく波打った。


それから数時間。リナが甲斐甲斐しく手当てを続け、男の熱が少しだけ引いた頃。 男の睫毛が震え、その瞳がゆっくりと開かれた。


そこにあったのは、深い深い、夜の海のような青。


「……お前、は……」


掠れた声。けれど、その響きには抗いがたい威厳が宿っていた。


「気がつきましたか? よかった。少し水を飲めますか?」


リナが木製の水筒を口元へ運ぶと、男は警戒するように瞳を細めた。しかし、自分を見つめるリナの瞳に、打算も、恐怖も、下卑た野心もないことに気づいたのだろう。彼は大人しく、差し出された水を飲み込んだ。


「……私を、助けたのか」


「はい。ひどい怪我でしたから。ここは魔物こそ出ませんが、夜になれば冷え込みます。動けそうにないなら、村から人を呼んで――」


「待て」


男の手が、再びリナの腕を捕らえた。今度は、逃がさないという確かな意志を持って。


「……名を。お前の名前を教えろ」


「リナ、です。ただの薬草師ですよ。あなたは?」


男は一瞬、自嘲気味に口角を上げた。


「……アルフレート。それだけ覚えればいい」


彼はリナをじっと見つめ返した。その視線の鋭さに、リナの背筋にゾクりと熱いものが走る。彼はリナの指先にある、薬草の緑色に染まった汚れや、手当てで傷ついた小さな傷跡を、ひとつひとつ検分するように見つめていた。


「なぜ、私を助けた。私の着ているものを見れば、相応の報酬を要求できたはずだ。それとも、私の正体に気づいて、恩を売るつもりか?」


その言葉に、リナは少しだけ眉を下げて笑った。


「正体なんて知りません。ただ、あなたがとても苦しそうだったから。……報酬なら、もういただきましたよ」


「……何?」


「あなたの目が開いて、こうしてお話しできている。それが、薬師にとって一番の報酬です」


アルフレートは絶句した。 王宮という伏魔殿で、常に毒を盛られ、背中を刺される恐怖の中で生きてきた彼にとって、見返りを求めない善意など、御伽噺の中の概念でしかなかった。


(この女は……何を言っている)


リナの瞳は、森の奥の泉のように澄み渡り、ただ純粋に彼の無事を喜んでいた。 その温もりが、アルフレートの凍てついた心臓の最深部に、チリチリとした熱を灯す。


「……初めてだ」


「え?」


「私を、ひとりの人間として、ただ生かそうとした者は」


アルフレートの瞳の色が変わった。冷徹な青の奥に、どろりとした、暗く濃密な熱が宿る。彼はリナの手を引き寄せ、その手の甲に、自身の唇を落とした。


「ひゃっ……!? な、何を」


「誓う。リナ、お前を二度と放さない」


「えっ……? あ、あの、アルフレート様?」


「お前は、私を見つけた。ならば、最後まで責任を取れ。お前の人生ごと、私が買い取ってやる」


その言葉は、求婚というにはあまりに傲慢で、呪縛というにはあまりに甘美だった。 リナは顔を真っ赤に染め、ただ呆然と彼を見つめることしかできなかった。


森のざわめきが、遠くなる。 リナはまだ知らなかった。この瞬間から、彼女の穏やかだった平穏が終わり、一生をかけて愛され、縛られる「溺愛」の日々が始まったことを。


遠くから、馬の蹄の音が聞こえてくる。アルフレートを捜索する騎士団だろう。 彼はリナの手を握ったまま、満足げに微笑んだ。その微笑みは、獲物を決して逃がさない捕食者のそれだったが、同時に、運命の宝物を見つけた子供のような純真さも孕んでいた。


「もうすぐ迎えが来る。……逃げようなどと思うなよ、リナ」


リナの胸は、恐怖ではない、説明のつかない高鳴りで溢れていた。


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