第5話命の香り ── メイの特製スープ

シアンが去った後の診療所には、静寂と、微かな「出汁」の香りが漂っていた。

​「……ん……」

長い闇の底から浮上するように、姫の睫毛が震えた。

ゆっくりと開かれた瞳が、天井の染みを見つめ、やがて傍らに座る侍の姿を捉える。

​「……あなたは……」

「気がついたか。もう大丈夫だ」

侍が、彼女の冷たい手を両手で包み込む。その熱が、彼女の輪郭を確かめるように伝わっていく。

​「私、また……助けてもらったのね」

姫の声は枯れていたが、その瞳には確かな理性の光が戻っていた。毒の霧は晴れたのだ。

​その時、診療所の奥の扉がガラリと開き、湯気を立てる盆を持った女性が現れた。

ふくよかで、見るからに温かそうな笑顔。シアンの妻、メイだ。

​「あらあら、お目覚めかい? うちの人が『手のかかる患者を置いてきた』って急いでご飯をかっこんでたから、気になって見に来たのよ」

メイは呆れたように笑いながら、ベッドの脇に盆を置いた。そこには、黄金色に透き通ったスープと、柔らかく煮込まれた野菜が盛られている。

​「あの人は口は悪いし無精髭だけど、腕だけは確かだからね。……さあ、食べな。これが一番の薬だよ」

​メイに促され、侍が匙でスープをすくい、姫の口元へと運ぶ。

一口、含んだ瞬間。

姫の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

​「……あたたかい……」

それは単なる温度の話ではなかった。

ずっと「金剛」の冷たい毒に管理され、無機質な栄養剤しか与えられてこなかった彼女の体に、野菜の命と、作った人の愛情が染み渡っていく。

​「美味しい……すごく、美味しい……」

「そうだろう、そうだろう。あたしの料理は、あの偏屈医者のエネルギー源だからね」

メイは誇らしげに胸を張った。

​侍はその光景を見つめながら、強く拳を握りしめた。

この温かさを、二度と奪わせはしない。

日常の「食事」がこれほどまでに尊いものだと、彼は千年の戦いを経て改めて知ったのだ。

​足元では、小さな白い犬が「僕の分はないの?」と言わんばかりに、尻尾をパタパタと振っていた。

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