第9話 肩書きのない杯

翌朝。


エリックとミレイアは二人で孤児院へと向かっていた。


街を歩く中で、

この時間は騎兵隊の訓練をしていたエリックは、

人々の生活を初めて見た。

 

畑を耕す者。

店を開く者。

笑い合う声。


「……皆、忙しそうだが」

「生きてる、って顔をしてるわね」

 ミレイアが、くすりと笑う。


孤児院での日々は、続いた。

馬術だけでなく、

剣の持ち方、文字の読み書き――

教えることが、増えていった。


そして、ある夜。

エリック、ミレイア、ブノワは酒場へ足を運ぶことになった。


卓には素朴な料理が並び、足元ではルーメンが焼き魚を齧っている。

ブノワは杯を傾けながら、上機嫌に笑った。


「いやぁ、エリックさんが来てくれて助かってますよ。子どもたちも大喜びだ」

「……いえ。私の方こそ」

エリックは言葉を濁し、酒をひと口含んだ。


「ねえ、ブノワさん」

ミレイアが、いたずらっぽく目を細める。

「この人、ただの“おじさん”じゃないのよ。

 昔は――革命軍の騎兵隊を率いてたの」

ブノワの手が止まった。

「……え?」

「隊長だったのよ。騎兵隊長」


それから、椅子がきしむほどの勢いでブノワが身を乗り出した。

「き、騎兵隊長……!? あの、エリック隊長ですか!?」

「……やめてください、ブノワさん」

エリックは苦く笑い、杯を置いた。


「隊長“だった”だけです。今は――ただの身です」

「そんな……! この国を変えた英雄じゃないですか!

 名前を知らない者なんて、いませんよ!」


「英雄、ですか」

エリックは視線を落とした。

「私は……負けました。剣で。

 それだけで、座も、妻も、居場所も――」

言いかけて、口をつぐむ。

代わりに酒をあおった。


ミレイアが、肩をすくめて言う。

「ほら、エリック。たまには武勇伝でも語りなさい。

 あなた、こういうところで吐き出さないから、余計にこじれるのよ」

「……武勇伝など、ありません」


ブノワはしばらく言葉を探してから、そっと声を落とした。

「……でも、今の生活は。

 どうです? 楽しいですかな」

「……ああ」

エリックは、少し考えてから答えた。

「……楽しいのかもしれません」


(もし――この日々が、失われるとしたら)

胸の奥に、かつてなかった重さが宿った。


その沈黙を、ミレイアは黙って見つめていた。


破壊の神としてではなく、

ただ一人の“人間”として。


彼女は杯を取り、ゆっくりと口をつける。

「……こうして笑っている顔、

 あなた、随分久しぶりじゃない?」


エリックは、はっとして顔を上げた。

「……そう、見えますか」

「ええ」

ミレイアは小さく微笑んだ。

「英雄でも、騎兵隊長でもない。

 今のあなたの顔よ」


ブノワは何も言わず、ただ頷いた。

足元で、ルーメンが満足そうに尻尾を揺らしている。

エリックは杯を見つめ、

しばらくしてから、静かに息を吐いた。


「……悪く、ありませんな」

その言葉は、

誰に向けたものでもなく、

しかし確かに――自分自身に向けたものだった。

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