第6話「きえないきず」

「はーい。ちょっとチクっとしますよ」


「っ……ん」


 注射の針が体内に深く侵入し、一瞬鋭い痛みを走らせる。体が強張り、吐息が漏れた。視界が滲む。


「はい、これで終わり。よく頑張ったわね。うふふ、えらいぞ」


 3日に1回、朝と夜に行われる血液採取が終わり、すっかり顔見知りになった看護師さんがおれの頭を優しく撫でる。幼い子どもをあやすようなゆったりとした手つき。勤務中なのを忘れているのではないかと疑いたくなるようなその顔は、だらしなく緩みきっていた。


「あの、主任……院長が呼んでいます。そろそろ戻られたほうが」


 後から入ってきた若い看護師が遠慮がちに尋ねるが、おれの頭を往来する手が止まることはない。看護師は聞く耳持たずな主任の態度に呆れた視線を向け、「もう行きますよ。また怒られたいんですか」とため息混じりに引き剥がす。


聖奈月みなづきさん、安静にね。何かあればすぐに押すのよ」


 主任はナースコールのボタンをおれの手に押し込めると、何度も念押しして名残惜しそうに病室から出ていった。


「……はぁい」


 静まり返る病室。何拍も遅れたおれの返事が虚しく宙に溶けていく。

 あの日目覚めてから既に1ヶ月が経とうとしていた。ここでの生活にも慣れ始め、拘束具のように繋がれていた点滴が外されたのはつい最近。ある程度自由に動けるようになったものの、この体にはまだ馴染めないでいる。それどころか、女になったという事実をいまだに受け止めきれていなかった。


「……」


 手元にあるボタンを投げ捨て、傍にあった杖を手に取る。ロフストランドクラッチとか言ってたっけ。握力が弱っていたり筋力が足りない人に適していると。この杖を使わなければ、一人では満足に歩けないほどおれの体は弱っていた。

 手術後の後遺症の1つとも言われている後天的な筋無力症には、息がしづらくなったり四肢の力が急に入らなくなる危険が常につきまとう。根本的な筋力の不足による身体機能の低下も深刻だ。歩く、物を掴むという当たり前の行為にも神経を注がなければならない。


「ぁ、ぁあ……あー、げほ」


 そして、心因性の発声障害。詳しい原因は分かっていないが、精神的なショックと極度のストレスが関係しているらしく、言葉が続かずとぎれとぎれの発音になってしまう。無理に発声しようものなら喉がつかえ、むせるような咳が込み上げてきて息苦しいことこの上ない。


 杖を使って姿見の前まで移動する。1人で出歩くことはまだ禁止されているけど構うもんか。鏡に映った少女を睨みつける。

 おい、睨んでるんだぞ。頼むからそんな頼りなさそうな顔しないでくれ。赤く腫れぼった目は誰かに殴られたわけでもないのに、見ているだけで気が滅入った。陰鬱な表情の崩し方が分からない。


「っ、う」


 あ、やばい。また泣きそうだ。思えばここまで醜態しか晒していないじゃないか。今まで1人でできていたことが、他人の手や道具に頼らないと難しくなった。自分の感情だってろくにコントロールできず、涙を止められない。


「くそ……ふざ、け、な」


 情けない。惨めだ。女性の看護師に体を拭かれ、着替えまでさせられて、排泄の勝手が分からず何度も漏らしてオムツの着用まで余儀なくされた。これ以上恥を重ねるくらいなら、このまま干からびるまで涙を出し尽くして死んでやろうか。


「1人で歩き回っては危険ですよ。それとも、ただ寝ているのは退屈ですか?」


 鏡の向こうに浅間さんの姿が映る。彼はいつから病室にいたのか、湯気の立ち昇るマグカップを片手におれの後ろに立つと涼しげに微笑んだ。


「どう、て、ここ、に?」


「君と少し話をしようと思ってね……タイミングは悪かったみたいだけど」


 浅間さんは砕けた口調になり、カップに口をつける。珈琲コーヒーのほろ苦い香りが室内に漂う。嫌いな匂いだ。これでもかと大人を主張するようなお上品さが気に食わない。鼻をすすると鼻腔に侵入する匂いが胃をむかつかせる。


「大丈夫かい? 杖があるとはいえ、ずっと立っているのはつらいだろう」


 面と向かって話す気になれなくて、その言葉を無視していると「もしかして珈琲の匂い苦手だった?」そんなことを捨てられた子犬のような顔で聞いてくるもんだから、少し毒気を抜かれてしまった。

 おれが小さく頷くと、浅間さんは僅かに眉尻を下げて苦笑し、まだ湯気の立つカップを一気に飲み干した。律儀にも咳き込むのだけは我慢しようとしているのか、顔をしかめてしきりに喉をさすっている。


 意外だった。物静かで聡明な人だと思っていただけに、こういう隙を見せられるとどうにも肩透かしを食らった気分になってしまう。


「はな、しって……な、です、か?」


 そんなつもりはなかったのに、気が付けば自主的にベッドに戻っていた。


「君の受けた再生医療は、まだ発展途上な分野なだけに十全な安全性や有効性、再現性の確保ができているとは言えない。でも、実際に多くの人が命を救われているよ。『再生酵素薬』を使用した手術を日本で行ったのは君が初めてだけど、海外では近年研究が進んで一般的にも普及しつつあるんだ」


 超高額でリスクがあるにも関わらず、再生酵素薬療養を目的に海外へ渡航する日本人も少なからずいるという。

 切断された四肢の再生。傷ついた臓器に細胞の修復。失われた視力や聴力の回復など、実際に多くの実績を『再生酵素薬』はもたらしているからだ。


「ここだけの話、君のような前例が全くいなかったわけじゃない。重篤者への過剰投与が人体に与える影響は、時に僕たち医者の想定を嘲笑うかのような変化を引き起こす。まるでSF映画の世界だよ。それでも、本来諦めるしかなかった命が救えると医学会は大いに沸き立った。その過程で起こった予期せぬ事故には目を瞑ってね」


 浅間さんが浮かべた表情には、どこか即物的な含みを持たせたような陰がちらついて見えた。


「その、ひ、と、たちは……ど、なり、ま、した?」


「……彼らの心情を推し量るのはあまりにも難しい。本人にしか分からない苦悩や心境の変化もあるだろう。でも、僕の知る限りでは誰一人自分の人生を諦めたりしていない。大きなチャンスだと捉え、新しい人生を逞しく生きている人だっているよ」


 どんな姿になっても、生きてさえいればいつか笑い話になる。ワイドショーなどで大々的に取り上げられる日がくるかも。そう言われている気がするのは、いくらなんでも穿ち過ぎだろうか。


 『瀕死の重傷から奇跡の生還。少年から少女に』


 冗談じゃない。

 頭に浮かんだバカらしい見出しを片隅に追いやる。自虐にもほどがあった。


「なにが、いい、た い、ですか。はげ、ま……っ、そと、でも、して、る……げほっつも、り、ですか」


 喋りすぎた。軽く咳き込む。それだけでひどく不安そうな顔をされるのだから、過剰な心配がどれほどストレスなことか。


「無理しなくていいよ。自分のペースでゆっくり喋ってごらん」


「う、るさぃ」


 その諭すような物言いに、口を衝いて出たのはずっと抑えていた強い言葉。心の中だけにとどめておくには我慢の限界だった。暇がある立場ではないはずなのに、居座る気満々の姿勢にも苛立ちが募る。


「も、いです。ね、ます」


 鼻先に残留する不快な匂いをかき消すように首を振って、おれは浅間さんに背を向けて寝転んだ。


「君の精神状態を考慮して、この部屋にはテレビやラジオも置いていないからね。誰かと話すことで少しでも気を紛らわせればよかったんだけど……力不足だったかな」


 そう思うのなら、もっとマシな話の1つや2つ用意しておくべきだ。外からの情報を遮断され、点滴漬けで一日の大半が寝たきりだった日々。限られた面会時間には母さんしか来ることを許されておらず、どこか他人行儀でぎこちない会話しかできていない。


「環境についてはもう少しだけ我慢してほしい。ちょっとごたついていて、本当は個室にするのも苦労したんだ。いや、君に言うことではないね。ごめん」


 布団を被り暗に帰れと態度で示すも、まるで意に介さない声音は続く。


「予定しているリハビリ期間は3ヶ月。明日から本格的に始めるつもりだよ。最初に言っておくけど、リハビリは君が思っているより過酷なものになる。それで改善できる部分はあっても、どうにもならないことがあることも覚悟しておいてほしい。でもね、日に日に状態は良くなっている。それは保証するよ」


 嘘だ。なら、この陰鬱な気分はいつ晴れる? ただひたすらに息が詰まるような閉鎖感からはいつ解放される?


「僕たちは君が以前の生活を一刻も早く取り戻せるように最善を尽くす。何もかも今まで通りというわけにはいかないけど、約束するよ。だから、君もその体と向き合っていってほしいんだ」


 向き合う? 奥歯が軋む。人を助けた代償は、一生残る消えない傷。を背負って生きていけというのか。


「今はまだ詭弁に聞こえるかも知れない。でも、君はまだ若い。これから先の長い人生を考えれば、まだいくらでも生き方を変えられるんだ。それは決して、悪いことばかりじゃ」


「ど、こがっ!」


 飛び起き、言葉を遮り、躊躇なく服を捲った。

 真っ白な肌には不釣り合いな、赤黒く走った亀裂のような痕が数箇所。それは女性を庇った際に刺された確かな証拠として、おれの脇腹にしっかりと刻まれていた。


「かん、た、にっ! いう、な!」


 この傷痕が視界に映るたび、あの時の痛みや恐怖が蘇る。それはいつまでも褪せることなく、悪夢となって心身を蝕んだ。


「『再生酵素薬』を使用した手術では手術痕が残りにくいという利点があるし、場合によっては傷口の縫合すら必要としない。重度の傷だったとしても、大抵は時間の経過とともに目立たなくなっていくよ……ただ、こんなことを言うのは医者としてどうかと思うけど」


 傷痕を見ても、浅間さんは表情を変えず言葉尻を濁すだけ。


「その傷だけは、自らが強い意志をもってそこに存在しているように見えるんだ。現に君の体が女体へと変化を遂げる過程で、古傷を含む大小あった刺し傷はほとんど完治している。ひと月経って、もはや傷があったことすら言われないと分からないほどに。なら、それはどうだろう。僕には精神的ストレスやトラウマなどが強く影響しているように思えるよ」


「は……?」


 おれのせい? 勝手なこと言うなよ。誰が好き好んでこんなもの残したいなんて思うんだ。


「望むのなら目立たなくさせることはできる。でも、消えない過去に蓋をして目を背けているだけじゃ、根本的な解決にはならない。酷なことを言うけど、今の精神状態でリハビリに臨んでも良い結果は得られらないだろうね」


「――――っ!」


 醜い暴言を吐いた。ここ最近記憶にないほど声を張り上げたあとに残ったのは、掻きむしりたくなるような喉の痛みと痒み、声質そのものへの不快感。


「そうだ。怒りや不快な感情はそうやって開放するんだ。これまで溜め込んできた鬱憤を吐き出すいい機会だろう。僕でよければいくらでも相手になる。だから遠慮なくぶつけてほしい」


 うざいうざいうざいうるさいだまれ。


「はや、く、で……てけ」


 顔が熱い。まさかここまで感情が昂るなんて。

 窓ガラスには、肩で息をしながらも怒りに震える少女の姿が反射して映っている。今までの陰気漂う不健康さの塊みたいな顔から、麻酔が解かれたように表情筋が活気を見せていた。

 なんだよ、ずっと生気のなかった抜け殻のような体にもちゃんと血は通っているのか。

 浅間さんがいなくなったあとも、しばらく激しい動機は止まなかった。だけど、曇天つづきの心にほんの少しだけ光が差したように感じた。

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