第4話「ようこそわたし」
粘ついた唾液が口内に溜まる。逃げ場のない悪夢でも見ているようだ。ねっとりとした未知の恐怖が全身にまとわりついて離れない。鼻の奥が痺れる。呼吸が浅い。胸が苦しい。
「星也、大丈夫だから。ね? どんな姿になっても、あなたはあなたよ」
後ろから回される母さんの腕に、言いようのない不快感を覚える。どうして母さんは、これがおれだと受け入れられる。どう見ても赤の他人じゃないか。男のときの面影なんてどこにある。
母さんは怖くないの? 疑わないの? おれは怖くてたまらない。何度瞬きして身じろいでも、同じ速度、同じ感情で反応してくる。自覚はあるのに体は別物で、ただただ不気味だ。
「すぐには受け入れられないことは分かっていました。当然です。君の心中は察するに余りある」
「どう、し、て……こ、なすが、たに?」
こんな姿にならなければいけなかった理由はなんだ。おれの体に何が起こったんだ。
「体調に問題がなければ、このまま話を続けますが……よろしいですね」
おれはその言葉にゆっくりと頷き、母さんの手を借りてベッドに腰掛ける。本当は今すぐにでも横になって目を瞑りたかった。でも、先延ばしても余計に自分を苦しめるだけだ。
「さて、どこから話したものか」
浅間さんの表情は硬い。切り出す言葉を探しているようだ。張り詰めた空気が重くのしかかる。意識していないと呼吸が保てない。吸って吐いても
「……君は公園で男に刺されました。見ず知らずの女性を庇ったと聞いています。結果として、逆上した男に体中を滅多刺しにされた君は、腹部多臓器損傷による重度の多発外傷を伴った出血性ショック状態で搬送されてきました」
「……え?」
脇腹を刺されたところまでは覚えている。でも、まさか意識を失ったあとさらに体中を刺されたなんて。そこまで執拗にやられるほど恨みを買ってしまったとでも言うのか。
「左脇腹、脚大腿骨から踵骨、肘関節にかけて大小40を超える刺傷。アキレス腱の断裂や靭帯の損傷、腕頭動脈をはじめとした太い動脈からの出血。詳細な観察は困難を極め、考える間もなく手術は難しいと判断されました。その場で即死しなかったのは奇跡と言っていい」
浅間さんは硬い表情を崩すことなく淡々と言い連ねる。内容は理解できなくても、言葉を聞いているだけで気分が悪くなってくる。
「……言葉を選んでください。あまりにも不謹慎です」
母さんが声を低めて睨みつける。それに対し「言葉が過ぎました」と一言返すと、浅間さんはすぐに話を戻した。
「世界的な整形外科医の父をもってしても、通常の手術ではすでに手の施しようがなかった。君を救ったのは、ゲノム編集を応用した新時代の再生医療です」
再生。さっきも聞いた言葉だ。でも、どうして性別が変わる。ふざけるな。脳だけを別の体に移植したなんて荒唐無稽な話のほうがまだ信じられる。
「この物質は高い再生能力を有するプラナリアなどの微生物や、形質転換を持った細菌など数百種の組織によって構成された化合物です。君に投与したこの『再生酵素薬』とは、端的に言えば失った身体の
浅間さんが懐から取り出した小瓶の中には、鮮やかな緑色の液体が入っていた。それはまるで生きているかのように波打ち、どろりと不気味に蠢く。こんなものをおれに……?
「まず感染症からの壊疽を防ぐために、損傷の大きかった手足の切断から始め、再生の進行を妨げる骨格の矯正手術や不要部位の切除などを同時並行で進めていきました。脳へのダメージがほとんどなかったことも幸いし、重要な器官を修復する効果まで確認できたのはよかったのですが……」
浅間さんはそこで歯切れ悪く言葉を切ると、手に持った小瓶とおれを交互に見つめる。その意味深な視線に妙な居心地の悪さを覚え、おれは目を逸らした。
「想定外だったのは、強い浸食作用を持った細胞が君の血液を通じてDNAを書き換えてしまったこと。そして、性染色体異常によるホルモンバランスの変化が生殖機能に影響を与え、性分化された配列構造まで変えてしまったことです」
「あの、ちょっと待ってください。すみません、頭が混乱して。……リスクがあるとは聞いていましたけど、それは指の本数が増えたり、歪に変形して元の状態に生えきらない不完全な再生があるからだって」
その言葉にギョッとして、思わず指を確認する。……よかった。ちゃんと5本ずつある。見る限りおかしなところはなさそうだ。もっとも、この体に起きている異常に比べたら指の数なんて些細な問題なのかも知れないが。
「考えられる原因の1つとして、傷ついた内臓では過剰に投与した薬の成分を分解できず、強い再生力に従来の組織が耐えきれなかった。薬も過ぎれば毒となる……とでも言いましょうか」
「そう、ですか」
母さんが頭を抱える。そのまま髪が乱れるのも気にせず、ガシガシと乱暴に頭をかいた。とっくに本人の許容範囲を超えていたのだろう。当たり前だ。あまりにも現実味のないぶっ飛んだ内容の羅列。脳は理解を拒み、思考を鈍らせる。
「……」
しかし、それはおれ自身にも痛いほど当てはまるわけで。
戸惑い、不安、怒りや悲しみといった感情の波は腹の中でぐるぐると渦巻き、鉛のように心身を重く沈ませた。それでも表立って取り乱さないのは、この期に及んでどこか他人事のような感覚が拭えていなかったからだ。
「これから、この子はどうなるんですか」
母さんが掠れた声で呟く。やつれた顔に覇気はなく、黒ずんで腫れた目元が痛々しい。
おれが寝たきりの間、ずっと看病してくれていたのかな。それを思うと、途端に申し訳ない気持ちで頭がいっぱいになった。誰が悪いとかじゃなくて、単純に多くの人に迷惑をかけたのだという事実に、罪悪感や心苦しさが鎌首をもたげてチクチクと責め立てる。さらに追い打ちをかけるような無慈悲な言葉が浅間さんの口から放たれた。
「このまま女性として生きていくことになります……もちろん、本人の意思は尊重しますが」
それは、どういう意味だろう。男に戻りたいと言えば戻してくれるの? ならもう一度さっきの薬を打って……。
出かけた言葉を飲み込む。そんな漫画みたいなご都合主義がまかり通るのならとっくに言っているはずだ。たとえ、おれがここで駄々をこねても、何も解決することはないのだと彼の態度は物語っていた。
「あ……の」
だめだ、続く言葉が見つからない。視界に映る母さんと浅間さんの顔がゆらゆらとぼやけだし、頭の片隅でズキズキとした不愉快な痛みが再び鳴り始める。
「ここまでにしておきましょう。二人とも今にも倒れそうだ」
状態の悪化を察した浅間さんの声が、はるか頭上から降りかかってくる。その後すぐ、
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