第3話「はじめまして」

「う、んぁ……?」


 眩しい。照明の白い光がまぶたの隙間をこじ開け侵入してくる。意識は朦朧もうろうとし、景色がぐるぐると回った。何度か瞬きを繰り返し、たっぷりと時間をかけて目を慣れさせる。

 白い天井、クリーム色の壁、間仕切りカーテンで区切られた一室。部屋の雰囲気から察するに、おそらくここは病室なのだろう。それならベッドの上に寝かされている状況も頷けるし、口元の閉鎖感が酸素マスクによるものだと考えることができる。目線を上げると、吊り下げられた透明の袋のようなものから伸びた細い管が、おれの左腕と繋がっているのが分かった。


 どれくらいの間眠っていたんだろう。なんだかずいぶんと長い夢を見ていた気がする。なにかとても大切なことを忘れているような……。

 血が沸騰しているんじゃないかってくらい体が火照っている。寝ている間に汗でもかいたのか、髪がおでこや頬、に張り付いて鬱陶しい。意識は覚醒しているのに、体はふわふわと宙に浮いているみたいで力が入れられない。

 仕方なく窓に目を向けると、下げられたブラインドが自然光を完全に遮断していた。正確な時刻は分からないけど、どうやら日は完全に沈んでいるらしい。


「……」


 時間が経つにつれ、体の感覚がはっきりとしてくる。最初に違和感を覚えたのは胸の痛みだ。先っぽをつまみ上げられているみたいな、突っ張った感じが脇の下まで続いていた。下腹部はやけに湿っていて気持ち悪かったけど、まさか漏らしてはいないだろう。たぶん。

 長い時間寝たきりで体が鈍ってしまったのか、全身がやけに窮屈に感じる。狭い箱に閉じ込められているような圧迫感。とにかく体を思いっきり伸ばしたかった。


 だけど、痛みや違和感を感じられるうちはまだマシなのだろう。あの時、確かに命が尽きる瞬間というものを体験した。男の血走った目、鈍く光る包丁の刃。思い出すだけで、言葉に表せない不安や恐怖で頭がいっぱいになった。忘れたくても忘れられない、きっと一生まとわりついて離れないであろう忌まわしき記憶だ。

 力不足が招いた結果、この体たらく。それでも命があるだけ儲けもの。振り返ってみれば美談で終わる話だ。でも、本当におれの行動は正しかったんだろうか。もしかしたら女の人が発端で、男も殺すつもりはなかったのかも知れない。第三者の介入が、本来起こるはずのない不慮の事故を引き起こした。おれが下手に飛び込んだせいで……いやいや違うだろ。男は明確な殺意を持って何度も刺してきたじゃないか。女の人も血を流していた。あれが不慮の事故だなんて言わせてたまるか。


 いけない。どうも精神が参っているのか、悪い方ばかりに考えてしまう。女の人は無事に逃げられたんだろうか。おれがここにいるってことは、あの後すぐに警察や救急車を呼んでくれたってことだよな。男はどうなった? 警察が間抜けじゃなければ、もうとっくに捕まっているはずだ。何でもいいから情報が欲しい。


 スマホは……あるわけないか。時計は、テレビはどうだ? 今日が何日か知りたい。

 眠気はとっくに覚めている。このまま横になっているのは退屈だし、体調も優れない。ここが病院なら誰かしらいるはずだ。腹筋に力を込めて、重い体を無理やり起こす。


「……っ」


 節々がギシギシと悲鳴を上げた。たったこれだけの動作がひどく億劫で、呼吸が乱れる。息がしづらい。邪魔だな、酸素マスクこれ。暑苦しいし。ああ、水が欲しい。喉がカラカラだ。

 横を見ると丸椅子が1脚置いてあった。電気が点いていたってことは、直前まで誰かいたのか? それなら、戻ってくるまで大人しくしていたほうが……。


「っあ!? ぐうぅっ」


 頭を動かしたのがよくなかったのだろうか、突然強いめまいと頭痛がおれを襲った。頭の中でぐわんぐわんと銅鑼の音が鳴り響く。視界が歪む、回る。体勢を保っていられない。気持ち悪い、吐きそうだ。


「はぁ、はぁ、だれかひゅっ!?」


 酸素マスクを無理やり引き剥がす。開放感も束の間、息を吸った瞬間、熱湯を直に流し込まれたような強烈な刺激が喉を伝った。

 熱い、熱い、燃えてるみたいだ。爪が食い込むのを承知で必死に喉を掻きむしる。酸素を上手く取り入れることができない。何かが倒れる音、左腕に鋭い痛みが一瞬走る。苦しさのあまりのたうち回り、平衡感覚を失ってベッドから落下した。その際、反射的に掴んだカーテンがレールから千切れ、鈍い音が病室に響いた。床に叩きつけられ、一瞬呼吸が止まる。


「う゛ぅ゛う、アっあ、ぁ」


 獣のようなうめき声が喉の奥から漏れた。それはほとんど女の甲高い声に近かった。バチッと目の前で閃光が走り、体が一際大きく跳ねるとピクリとも動かせなくなる。そして、廊下から聞こえる慌ただしい足音を最後にすべてが黒に染まった。


 ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂


「――――」


 水底からゆっくりと浮上していく感覚。意外にも穏やかな覚醒だった。ベッドから無様に転げ落ち、あまりの痛みから気を失っていたのがほんの数秒前のことのように感じる。

 喉から胸にかけてじんわりとした熱は残っていたが、焼けるような痛みは引いていた。


「――――ゃ」


 頭が割れるような強い頭痛も、胃の中のものすべてを逆流させるようなひどい吐き気もすっかり治まって、目覚める前と比べたら驚くほど気分はいい。ただ、指先一本動かすことすら躊躇ためらわれるほどに体はだるかったが。


「――――ぃや」


 強い光がまぶたに染み込む。目を開けるのに苦労していると、体が左右に小さく揺れた。誰かに肩を揺さぶられているらしい。


「星也!!」


 はっきりとおれの名前を呼ぶ声が聞こえたと同時に「っぐ!?」体に衝撃が走った。声の主がおれの上に覆い被さってきたのだ。揺蕩たゆたう視界が見慣れた影を映し出す。その影が鮮明になるにつれ、慣れ親しんだ匂いと感触がふわりとおれを包み込んだ。


「ごめんなさい。目を離してしまって。でも、意識が戻って本当に良かったわ」


 そう言って涙ぐむと、ゆっくりとおれを抱え起こす。見間違えるはずもない。そこにいたのは母、聖奈月夕奈みなづきゆうなだった。


「かあ、さん……?」


「私が誰か分かるのね? 本当に、あなたは星也なのね。私の息子……私の……」


 心底驚いた顔で何度も噛みしめるように言葉を絞り出し「大丈夫。しっかりしなさい夕奈」と、自らの頬をぱちんと叩いた。どうしたんだろう。まさか息子の顔を忘れてしまったのか。


「体調はどう? 気分は? どこか痛いところはない?」


 目にかかる前髪を払いのけ、母さんは矢継ぎ早に質問を投げかける。ベタベタと体のあちこちを触られるのはなんとなく気恥ずかしい。

 曖昧に頷きつつ、おれはあらためて自分の体を見た。思えば最初から違和感はあった。こんなにも視界にちらつくほど髪は長かったか。手足はここまで細く色白かったか。この胸の膨らみはなんだ。発せられた声はどうしてあんなに高かった。まるで、みたいじゃないか。


「ねえ……っ、おれ……ど、なって」


 まただ。声を出すと喉が焼けるように痛む。上手く言葉を続けることができない。震えて、泣いているような頼りない声音。おれの体に何が起こっている。


 おれは、刺されたあとどうなったんだ?


「そうよね、あなたは何も悪くないのに。なんで、こんなっ」


 欲しかった言葉ではなかった。でも、顔を両手で覆い隠し肩を震わせる母さんの姿がとても頼りなく見えて、おれは思わず手を伸ばした。が、その手はどこにも届くことなく宙を彷徨うだけだった。だって、母さんが子供の前で声を出して泣くのなんて初めてだったから。その光景に胸が痛んだ。きっとおれと同じで混乱しているだけ。これ以上、母さんを悲しませるわけにはいかない。


「だいじょ、ぶ。へ、きだか、ら」


 伝わったか分からないけど、精一杯取り繕って答えた。


「ううっ」


 母さんはおいおいと泣いた。あれ、逆効果?


「大事なお子さんが無事だと分かって安心したのでしょう。君も、よく目覚めてくれた」


 かける言葉を探していると、突如第三者の声が割り込んでくる。開いた扉の前に立っていたのは、眼鏡をかけた壮年の男性。見るからにインテリな雰囲気を漂わせている。

 白衣を着ているってことは医者なんだろうか。おれの手術をしてくれた人なのかも知れない。

 男性はどこからかパイプ椅子を持ってくると、母の隣に腰を下ろした。


「私は浅間森人あさまもりひと。静桜大学医学部附属病院の院長を務める父、浅間邦茂くにしげの息子です」


浅間さんせんせいの、息子さん……?」


「はい。父は現在手が離せない状況でして。ここからは私が主治医として対応させていただくことになりました。以後、お見知りおきください」


 浅間さんはそう言って軽く頭を下げた。母さんは何か知っている様子だったけど、気持ちの整理がつかないのかしきりに鼻をすすっている。


「聖奈月星也くん。目が覚めたばかりで気がかりなことも多いと思いますが、改めて手術が無事に成功したことを伝えさせてください。本当に良かった。あの状態からよくぞここまで再生……いえ、回復したものです」


 浅間さんはこちらを見据えてそう告げた。よっぽど重症だったのか、その言葉には深い安堵の念が込められている気がした。「あの状態」「再生」など気になる単語もあったけど、こうして面と向かって本職の人に言われたことで、おれもひとまずは胸を撫で下ろすことができそうだ。


「たす、け……れて、あ、がとう、ざぃ、ます」


 喉の痛みに耐えながらなんとか言葉を紡ぐと、頭を深く下げる。命を救ってもらったんだ。感謝しても仕切れない。


「……君にそう言われると幾分か救われます。成功したとはいえ、手放しで喜べる結果ではなかったのだから」


 なんて言ったんだろう。後半は顔を伏せられてしまったので、よく聞き取ることができなかった。

 浅間さんは次に生年月日や血液型、年齢、立てた指の数が何本かなどの簡単な問答をしたあと「素晴らしい。記憶の齟齬はほとんどないとみてよさそうだ」と何やら不穏な発言を漏らした。

 まあいい、それよりも聞きたいことはたくさんある。


「あ、あの……っ」


 焼け付くような喉の痛み。つかえた感じがして言葉が上手く話せないこと。異様な声の高さ。自身の体に起こっている違和感などをかいつまんで伝える。


「喉の痛み……星也くん、口を開けてもらえますか?」


 浅間さんは胸ポケットから小型のペンライトを取り出すと、おれの口内に光を当てた。


「これはひどい。炎症を起こしていますね。おそらくは極度の渇き、乾燥が原因でしょう。焼けるような痛みは胃酸の逆流……やはり、まだ体内の免疫力は安定していないのか。この先どんな症状が出るか分からないな。その都度対処するのにも限界がある。早急に抗体を……」


 考え事をする際眼鏡を触る癖でもあるのか、フレームの縁に指を乗せ、声のトーンを落とす浅間さん。言葉の途中で度々顔を伏せてしまうため、おれは大人しく続きを待った。

 彼はしばらく渋い顔で逡巡したのち、


「発声についてはまだ何とも言えませんが、痛みに関しては然程問題はないでしょう。しっかり水分をとって喉を潤せば大分改善するはずです。あとは症状の変化次第で抗炎症剤を処方しますので、ご安心ください」


 それを聞いて少しだけ気が楽になった。確かに喉は渇いているし、唾を飲み込むとイガイガする。痛みもひどいけど、これくらいなら我慢できそうだ。あとで水を貰おう。


「あの、先生。そろそろこの子にあのことをお伝えいただけますでしょうか。っ、すみません。分かっているんですが、私の口からではとても……」


 今まで事の成り行きを見守りながら、怯えた顔ですすり泣いていた母さんが声を上げた。涙で化粧崩れした顔が妙に痛々しい。


「分かりました。ここからは口頭で説明するより実際に見てもらったほうが早いでしょう。聖奈月星也くん、ご自身の状態についてずっと気になっていたと思います。立てますか」


 確かに気にはなっていたけど、そこまで神妙な顔をされると不安になってしまう。そんなにひどい見た目なのか。状況をよく飲み込めていないおれは、母さんの手を取ってベッドから降りた。


 「っあ!?」


 はずだったが、足が地に着いた瞬間カクンと膝が折れた。


「星也!」


 母さんがとっさに抱きかかえてくれたおかげで再度床に激突する事態は免れたものの、なぜかとてつもなくいやな予感に襲われて床から視線を外せない。落ちた横髪が視界の端を覆う。風船の空気が抜けていくような脱力感に、冷や汗が全身を伝い落ちていった。


「長いこと寝たきりだったので、全身が委縮して筋力が落ちているんです。手を貸しますので、焦らないで一歩ずついきましょう」


 母さんと浅間さんに支えられて、重い体を半ば引きずられるように動かす。だるい、苦しい、力が入らない。たったの数歩でもう息が切れそうだ。

 

「星也……顔を上げて」


 肩に置かれた母さんの手は、布越しでも分かるくらいに大きく震えている。でも、その眼差しはさっきまでの怯えたようなものではなく、ある種の覚悟を決めた真剣なものだった。

 母さんの剣幕に気圧されるように、見上げた先の姿見を見たとき、おれはようやく自分に起きた異変を知った。


「――――え?」


 誰だよ、これ。女の子……?


 そこに映っていたのは、母さんに力なく寄りかかっている一人の少女。胸下まで伸びた白髪はボサボサで、白く透き通った肌は悪く言えば正気のない不健康な青白さ。上目遣いにおどおどとこちらを窺う憂いを帯びた瞳には、ぞくっとするほどの艶かしさがあった。風が吹けば消えてしまいそうな儚さを孕んだ、現実離れした美貌が目の前にある。


「……っ」


 おれはどこだ。どうしてそこに、おれはいない。誰なんだ、この子は。


「君の手術はとても難度の高いものでした。国内では例のない『再生酵素薬』を使用した再生医療。32時間にも及ぶ手術のあと、君は2週間も目を覚まさなかった」


 鏡の前で絶句して立ち尽くすおれに、浅間さんが淡々と答える。

 2週間? 冗談だろ。これは悪い夢じゃないのか。だって、そうじゃないと今まで感じてきた違和感が嘘じゃなくなってしまう。そんなのだめだ。

 鏡に手を伸ばす。少女もまったく同じ動作を寸分違わずに行う。信じられないものを見るかのような、理解のできない現象に直面した顔。やめろ、おれと同じ表情かおをするな。


「その子は君だ」


 うそだ。ありえない。やめろ、やめてくれ。おれを返せ。これ以上なにも言うな。


「星也くん。君は女の子になったんだ」


 そんな容赦のない一言が、重くおれの胸を抉ったのだった。

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