第2話「わたしのはじまり」

「うぉおおお!」


 痺れを切らしたのか、男は雄叫びを上げると脇目も振らず女性に襲いかかった。同時に、耳をつんざく悲鳴が高く響き上がる。

 硬直が解ける。考えるより先に体が動いた。おれは茂みから飛び出すと、男に向かって突進した。


「なっんだ、このガキ!」


 男の血走った目がおれを射すくめる。関係あるか。無我夢中で相手の懐に飛び込み、タックルを食らわした。そのまま男の上に覆い被さるように勢いよく地面に叩き伏せる。ドンっと激しい衝撃が脳を揺らし、一瞬視界の端で火花が散ったが、構わず全身を使って男を押さえ込む。

 想定以上に上手く体が動いた。これで女性が逃げる時間は十分稼げるはずだ。頼むから腰を抜かしたままなんてのはやめてくれ。警察を呼ぶなり近くの家に駆け込んで助けを求めるなり、なるべく早く頼むぞ。

 それまで、こいつが逃げないようにおれが押さえておけば――――。


「……は、ぇ?」


 突然、電池が切れたかのようにおれの全身から力が抜けた。遅れて脇腹の辺りが燃えるような熱を発しているのに気付く。ゆっくりと視線を下に動かす。

 押し倒したところまではよかった。ただ予想外だったのは、男の持った包丁が脇腹に深く突き刺さっていたこと。刃元までずっぷりと体内に侵入しているソレを、男は勢いよく引き抜くと再び突き刺した。何度も何度も何度も。刺して抜いて刺して抜いてを繰り返す。


 ばか、刺しすぎだろ。


 そんな一連の動作を他人事のようにぼんやりと眺める。生温い水たまりの中にいるような感触。鮮紅色の血が噴水のように飛び散った。指先は痛いほど痺れ、視界はチカチカと明滅を繰り返す。息が上手く吸えない。二酸化炭素の代わりに血の泡がゴボリと溢れ出た。


 これ、全部おれの血か。

 不思議と痛みは感じない。もはや下半身の感覚がないと言った方が正しいか。血溜まりの中、ブクブクと間抜けな金魚のように泡を立てることしかできない。

 ああ、こんなところでおれの人生終わりかよ。慣れないことなんてやるもんじゃないな。漫画や映画の主人公には慣れなかった。ヒーローなんてもってのほか。これが現実。現実、か。

 あの人、無事に逃げられたかな。手紙の返事できそうにないなぁ。一透、気を付けて帰れよって言われたのにこのザマだ。笑えるよな。


 家族の顔、友達の顔、次々と流れては消えていく。これが走馬灯ってやつ? 今度は中学生、小学生、幼稚園児、赤ん坊の時のおれが鮮明に映し出される。短い映像が逆再生で繰り返され、そんな自分自身を俯瞰して見ていた。

 なんともまあ短い人生だったなと、乾いた笑みが溢れる。やがてシミのような黒い点がポツポツとちらつき、その数を増やし視界を完全に黒く塗り潰した。遠のく意識は煙のように揺らめき、心地よい眠気がやってくる。最後まで足掻いた心臓の鼓動も聞こえなくなり、命の火が消えていくのをただ静かに感じていた。


 こうして、短くも充実していた聖奈月星也の人生は実に呆気なくその幕を閉じる……はずだった。

 果たして、神様が気まぐれで与えたものは祝福または試練か。ここから始まるのは波乱に満ちた第二の人生。今、運命の歯車が新たに回り始めたのだった。


 ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂ ♀ ♂


 ――――あれ、どこだここ。

 気が付くと見渡す限り真っ白な空間におれはいた。先の見えない景色はあまりにも無味乾燥で、どこまで続いているのか見当もつかない。夢にしては妙にリアルな感覚。これが明晰夢ってやつだとしたら、もっと楽しい夢を見せてくれたっていいのに。


 気持ちを切り替え、今の状況を整理する。身に纏っているのは、入院患者が着るような白いガウン一枚だけという簡素な格好。それ以外の持ち物はない。

 素足から伝わってくる柔らかな感触はトランポリンの上に乗っているみたいで、その不安定な足場からはトクン、トクンと微かな鼓動のような振動が伝わってくる。まるで何か巨大な生き物の腹の中にでもいるみたいだ。そんな得体の知れない場所なのに妙に心が落ち着いているのは、この空間からどこか人肌に包まれているような温もりを感じるからだろうか?


 とは言っても、右も左も上も下も同じ景色なので気を抜くとゲシュタルト崩壊を起こしてしまいそうだ。人間は色や物が何もない空間では数日で精神状態がおかしくなってしまうという研究結果も出ているらしいし、刺激のない状態では僅か数時間でギブアップしてしまうとも。

 感覚遮断実験だったっけな。まさか夢の世界でそんなことを気にする必要はないのかも知れないけど、シチュエーションとしてはしっくりくる。


 キョロキョロと辺りを見渡しながらあてもなく歩く。


 直前の記憶はない。覚えているのは、親友と別れたあの帰り道。あそこから家までどうやって帰ったっけ。ここに至るまでの過程がごっそりと抜け落ちている。それだけじゃなく、これまでの人生全てが遠い過去の記憶のようで、形容し難い物寂しさがおれを襲った。

 何かどうしようもなく取り返しのつかない事態に陥ってしまったからここにいるのではないか。そんな不安が生まれてしまい、かき消すように首を振る。

 謎に弾力性のある地面に足を取られながらも、息の続く限りどこまでも歩いた。


「はぁ、はぁ。いくらなんでも広すぎだろ」


 どれくらいの距離を歩いただろう。疲れからというよりは、募り募った徒労感に押し潰される形で膝をつく。頭がおかしくなりそうだ。

 リングワンダリング現象。この真っ白な空間で方向感覚を失い、無意識に同じところをぐるぐると回っているのかも知れない。このまま当てもなく彷徨いあるのかもわからない出口を探すべきか、夢から覚めるのを待つべきか。


 2択を決めあぐねていると、気の抜けた大きなあくびが出た。微かな眠気がよぎり、それは段々と無視できない大きさになっていく。そのうち、おれは糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。鉛のように重くなる体。背中に人でも乗せているみたいだ。自分の身に何が起こったのか分からないまま、かろうじて動かせる首から上を使って、周囲の様子を探る。さっきまで何もなかった場所に、先の短くなったクレヨンが数本転がっていた。驚きに目を見開く。おれの他に誰かいる?


 恐る恐る首を反対側に向けたおれは「うおっ」と間抜けな声を上げた。すぐ目の前に人がいたからだ。

 おれと同じ服装をした小さな女の子。髪や肌は真っ白で、完全に景色と同化している。少女はこちらに目を向けることもなく、真っ白な地面に何かを描き続けていた。あのクレヨンはこの子が?


「きみは……」


 酷くしゃがれた声だった。しかし、少女からの反応はない。何度か声をかけるも、単に聞こえていないのか目の前の作業に夢中なのか返答はなく、おれは諦めて少女が描いているものに目を向けた。それぞれが対になっている同じ長さの棒のような記号が階段状に並んでいる。ローマ数字の2を連想させるそれは、端の一組だけ長さが違っていた。子供の落書きにしてはある種の幾何学的な規則性を感じさせる。他にも、波線が何本も絡まったような螺旋模様に、様々な形をしたアメーバ状の楕円など実に摩訶不思議な世界が形成されていた。

 小さい子供特有の感受性の豊かさというやつだろうか。そのどれもに見覚えがあったり懐かしいと思わせるのは、この子とおれの感性が似ているから? 話せたら案外仲良くなれるかも知れない。


 少女は一度も顔を上げることなく忙しなく手を動かしている。この時間がいつまで続くのか、少女の持つクレヨンが短くなっていく様を無気力に眺める。

 まずいぞ。まぶたが重くなってきた。そろそろ限界が近い。今、目を瞑ればものの数秒で眠ってしまうだろう。それで夢から醒めてくれればいいが、せめて最後に何か……。


『……!』


 ポキッと小気味良い音が響く。少女の持つクレヨンが折れ、先端がおれの近くまで転がった。そこで初めて少女は顔を上げると、ようやくこちらに気付いたのか不思議そうに首を傾げる。鼻元まで伸びた前髪は完全に表情を覆い隠していて、顔色は窺えない。

 それ、前見えないだろ。白い衣装と相まって、日本で最も有名なホラー映画に出てくる某幽霊みたいだ。不気味さよりかわいらしさが勝るのはせめてもの救いか。


 少女はしばらくの間、静止画のように動かなかったが、おもむろに腕を伸ばすと地面を静かに叩いた。その場所を指先でトン、トンと執拗に強調アピールするように。

 その行為が何を意味するのかは不明だ。顔が見えないので、表情から意図を読み取ることもできない。ただ、ここを見ろと言っているのは確かだ。

 必死に睡魔と戦いながら、おれはそこに視線を移した。どうやら階段状になっている記号の一番端、長さの違う一組を指しているらしい。どんな反応を期待しているのか、少女は困惑するおれをよそに指の動きを速める。


 トン、トン、トットットット。


 なんなんだよ。伝えたいことがあるなら口で言えばいいじゃないか。

 焦燥に駆られたおれは訳も分からず首を横に振った。馬鹿正直に「はい」と答える気にはなれなかったからだ。

 おれの選択をどう解釈したのか、少女はあろうことか指先で長い方の線を擦り、他と同じ長さにしてしまった。そうして、一仕事終えたと言わんばかりの態度で満足気に何度か頷くと、その場から立ち去っていく。


「……え? お、おいまって」


 遠くなる背中に当然おれの声は届かず、ズンとさっきより強い睡魔に圧しかかられ、意識が遠くなる。息をするのもままならない。体から空気が抜けていくようだ。

 朧に見えた少女の姿が完全に掻き消える寸前、振り向き様に一瞬露わになったその顔は確かに笑っていた。イタズラが成功したような、好奇心いっぱいの眼差し。


「な、んだ……よ、くそ」

 

 結局、おれは最後まで少女の行為が意味することを推し量ることができなかった。所詮、夢とはそういうものなのだと無理に結論付け、自分という存在が地の底に溶け込んでいく感覚に身を任せるがまま、どこまでも深く落ちていった。

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