第一章-3 期末試験と首席男子


 九月が終わりに近づくと、高校に入って初めてのテストが始まる。小中は三学期制だったのに、この高校は上期と下期の二期制で、試験は期末だけだ。理数系の教科が苦手な倫に頼まれて、放課後に図書室で勉強会をやることになった。

「教え方がすごくわかりやすい。おかげで少し解けるようになってきたよ。授業で当てられた時の様子を見てても、馨くんって頭が良いんだなって思ってたんだ。先生も正解が欲しい時に指名してるのわかるし。個人授業をお願いして本当に良かった」

 倫は話しながらノートにシャーペンを走らせて、問題を解いている。随分と褒めて貰ったが、この高校の基礎しかやらない理数系授業など、進学校の生徒なら、皆が簡単にこなすだろう。そう思ったが口には出さず、驚くほど小さな字で書かれるノート上の数式を眺めている。

「すごく小さい字。顔を近づけないと読めないかも」

「よく言われる。大きな字って書けないの」

 一度顔を上げた倫が笑みを浮かべる。既にイラストレーターとして活躍している倫のこの先の人生に、三角関数はきっと必要ないだろう。それでも今の私たちは同じ高校生として、落第しないために並んで勉強をしている。倫との距離の取り方がよくわからないと思いながらも、友達と勉強するという高校生らしい行動を楽しんでいる自分に気づく。中学時代は友達など必要ないと思っていたのに、全校生徒がアートを志す仲間であることが、私の心の壁を下げてくれたような気がする。他人と関わることを前向きに考えられたのは、この時が初めてだった。


 一般教科のペーパーテストは肩透かしをくらうほど楽勝だったが、その後に始まった選択クラスの実技テストは、想像以上にハードだった。課題が出され、指定時間内に作品を仕上げて提出する。企画と制作の両方を二時間でやるのはかなりシンドイ。すぐに思いつく時もあれば、時間内ずっと迷い続けた課題もあった。

 世の美大生は単位を取るために課題と戦い続けると、授業の雑談で講師が話していたが、テスト期間はそれと近い状況かもしれない。しかも採点方法が美術科講師全員による投票式だ。数人の作品に票が集中し、クラスの大半が一点も貰えないという事態が当然起こる。上位作品のみを『良し』として、残りは全て『価値がない』と切り捨てられてしまう。残酷なほどハッキリと、優劣の境界線が可視化された。

 現役のアートディレクターが非常勤講師を担当しているデザインのクラスでは特に差がつき、二十作品中、票が入ったのはたったの三作品。私はこの課題は一番自信があったのに、貰えたのは二票のみで、それでもなんとか三位に滑り込んだ形だ。ほぼ全ての票が、一位の生徒に集まっていた。

 皆がショックを受けて静まりかえっていると、講師はその様子を見渡して話し始める。

「この方式のテストを初めて経験して、一年生諸君は衝撃を受けたかもしれない。また、一票も入らなかった人は自信を無くしたと思う。でもこれがまさに、君たちが飛び込んだ美術の世界なんだと知ってほしい。美大受験の予備校に行っても、毎回順位を突きつけられるのは同じだよ。大学に進んでも、アートの仕事に就けたとしても、ずっと競争と勝ち負けの世界は続くんだ」

 慰めて前向きな気持ちにさせるのかと思ったら、講師自らが、しかばねになっている生徒たちに鞭を打ち込んでくる。それがなんだか痛快で、私は楽しい気分になっている。見る人の好みで評価が分かれたり、個性があればそこを評価しようなんて曖昧で甘い話ではない所がとても良い。『みんな違って、みんな良い』だと誤解する人も多いであろうデザインの世界だが、実態は数少ない椅子を奪い合って作品で殴り合う戦場だと改めて実感する。

(そうか。美大受験も、デザインを仕事にすることも、イコール戦争なんだな。そりゃあそうか。この試験がコンペだったら、仕事を貰えるのは一位の人だけで、残りの十九人は全員ボツなんだから)

 ぼんやりとは理解していたが、自分の中で明確化されていなかったルール。とてもシンプルで純粋な世界だ。私はこの殺伐とした戦場は、自分に合っていると思えた。


 実技のテストで点数が上位だった作品は、終わった後に教室に数日間展示された。二年や三年の先輩たちの作品を見る機会は滅多にないから、これはチャンスと放課後に見て回る。さすが上級生の優秀作品はレベルが高いし、今の自分との違いはどこなのかと、分析をメモしながら回っている。やがて、三作品にしか票が入らなかった例のクラスの展示がある場所に辿り着くと、三位だった私の作品の前に立っている人が居た。

(この人って、ぶっちぎりの一位だった……名前なんだっけ……岡崎だったか? あれ? 岡島か?)

 一位の作品を作ったのは一般教科は別のクラスに所属している男子で、髪が肩まであるロングヘアのひょろっとした長身だ。外見が奇抜な生徒には事欠かない学校なので特に異質でもないが、特徴的なので後ろ姿でもすぐにわかる。そして、父親は有名なアートディレクターだと噂に聞いた。その話が出た時に父親をネット検索してみたが、作品の記憶は残っていても、人には興味がないので名前は忘れてしまった。面倒なので他から先に見ようと思った瞬間、その男子生徒が振り返った。

「あ。木暮さんだ。今ちょうど、あなたの作品を見てたところ」

 逃げ損なって話し掛けられてしまった。しかもなぜか名前を把握されているし、やけに親しげな口調ではないか。まぁ、それなら同じ様に返事をすべきだろう。

「私も一位作品をしっかり見ようと思って来たら、その作者が居たところ」

 名前に自信がないので、呼び掛けないで会話を作る。男子生徒はへらっと表情を崩して笑った。

「俺たち気が合ってるじゃん。そう言えば話すの初めてだっけ? 岡倉おかくらです、よろしく」

 名乗ってくれて助かったと思いつつ、自己紹介を返す。そこで会話を終わらせたかったが、岡倉は私の作品を指さした。

「ねぇ、なんでこの色にしたの?」

 このテストの課題は『ある高校に、男性トイレ女性トイレ、そのどちらにも違和感を感じて入りづらい生徒が居ます。そこでジェンダーフリーのトイレを設置することになりました。告知ポスターとマークをデザインしてください』だった。私はこのトイレのカラーを若草色で作っていた。

「岡倉くんのも、同系色のグリーンでは」

「そうだけど。俺のはもっと深い緑で違う色だよ。木暮さんが若草色を選んだ理由が知りたいんだ」

 デザインについて意見交換をしたいのだろうか。個人的な交流に興味はないが、圧勝した岡倉の、デザインに対する考え方は知りたい。私はこの会話を続けることにした。

「まず、男が青で女が赤なのが一般的なトイレの色だという前提で、次の色をどこから引っ張るか考えた時に、光の三原色の赤青緑が最初に思い浮かんで、緑系統にしようと思った。これは後付けの理由だけど、光の三原色の組み合わせって、調べたら約1700万通りの色が表現できるって書いてあった。ジェンダーも『男』『女』『その他LGBTQ+』の三つしかないわけじゃなくて、もっと分解していくと、数えきれないほど幅広い認知のグラデーションがあるんじゃないかと思ったので、それで行こうと思った」

 自作品を見ながら説明を終え、岡倉へと視線を向ける。人を見上げて話すのは、身長が高い私には珍しいことだ。岡倉は作品ではなく、私を見ていた。

「急に、めっちゃ話すじゃん」

「説明しろと言われたから、したんだが?」

「そりゃそうだよね」

 またも岡倉はへらっと笑う。そして展示されている私の作品へと顔を向けた。

「その緑色を明るい若草色にしたのは? 光の三原色……RGBのGの再現?」

「それもあるけど、別の意味づけも必要だと考えて、若葉と同じ色がいいかなと思った。これからこのジェンダーフリートイレがもっと育って、未来には当たり前の存在になりますようにって期待感をプラスした」

「なるほどね。解説ありがとう」

 岡倉はまだ作品を眺めたままだ。説明を聞くだけ聞いて、これで会話は終わりなのだろうか。終わりなら去ろうかと考えていると、まだ彼の話は続いた。

「自分以外に投票するとしたら、俺は木暮さんのに入れたと思って見てたんだよね。その理由をさっき考えてたんだけど、今の説明を聞いて納得した。うちの親父はアートディレクターやっててさ、いつも『まず戦略を立てろ』と『ただなんとなく、カッコいいって理由だけでそこに置くな』の二つを、口を酸っぱくして言うんだよね。なぜその位置に、なぜその大きさで、なぜその色でレイアウトするのか考え尽くせ。そしてその理由を人に説明して説得できるようになれって。スラスラと理由が出てくるってことは、あなたは相当考え抜いてデザインしてるんだね。だから俺は気になったんだって良くわかったよ」

 岡倉が作品から視線を外してこちらを見る。私には、センスとかアイデアとか才能とか、そんな説明がつかないものに頼るという発想はなくて、いつも通りロジックでデザインを組み立てたのだから、まさにその通りだ。このやり方は邪道なのかと思っていたが、プロの岡倉の父もロジックを重視しているのは意外で面白い。

「今度は、そっちがやたらと語るじゃん」

「あはは。まぁね」

 さっきまでは他人だったのに、デザイン談義をした今となっては、うっすらと友情のようなものが芽生えた雰囲気だ。この高校ならば友達を作っても良いかと思い始めていた私は、抜きん出た結果を残した岡倉作品の解説こそ聞きたくなっている。申し出ると、『いいよ』と快諾が返って来て、私たちは彼の作品に向かって歩き出した。


 全てのテストが終了すると、倫が勉強会のお礼がしたいと中華街の飲茶カフェに誘ってくれた。いつもは割り勘だが、今日は遠慮なくご馳走してもらう。高校生の食欲で、二人揃って飲茶の食べ放題を制限時間一杯に詰め込んで、今はもうジャスミンティーですら入れてくれるなと、胃袋が訴えている。

「そう言えば、馨くん。下期の選択授業の申し込み、もう出した? 私、ちょっと教えてほしいことがあってね」

 話しながら、倫はカバンから選択授業のカリキュラムリストを引っ張り出してテーブルに広げた。

「下期は色彩構成のクラスを取りたいんだけど、上期に取ってたよね? この、佐々木先生と小坂先生って、クラスの特徴ある?」

「佐々木先生は完全に美大のグラフィック系学科の受験対策クラスだったよ。小坂先生は受験半分、もう半分は作品そのもののレベルアップを目指すって感じだったかな」

「わかった、ありがとう。それなら私は小坂先生クラスに申し込もうっと」

 倫は赤いボールペンを出して、カリキュラムリストに丸をつけている。下期の選択授業については、私もまだプランが固まっていなかった。

「私さ、上期はデッサンのクラス、ひとつも取らなかったんだよね。さすがに下期から本腰入れて取り掛からないと受験に間に合わないかな。憂鬱だな」

 今も私は、目の前にある題材を描き写すことが苦手なままだ。美大受験に石膏デッサンは絶必ぜつひつであり、実技の一次試験でデッサン力を見る大学がほとんどだ。いつまでも逃げていないで、腹を括って本気でやり始めなくてはいけない。倫は意外そうな表情を浮かべていた。

「それはね、食わず嫌いじゃないかな。デッサンって数学に近いから、やってみたら絶対に好きになると思うよ」

「え、数学?」

 なぜ目の前の物を描くことが数学なのか、理解できないでいると、倫はクロッキー帳をテーブルに広げる。そして図解しながら説明してくれた。

 光源の位置を定めて、そこから影がどうできるのか。一点から三点まで発展する透視図法やアイレベルなどの多様なパース。空気遠近法や色彩遠近法。幾何学模様に例えられる安定的構図のバリエーション。数学とまでは言えないまでも、それらのテクニックは、確かに全てがロジックだ。あれだけ毛嫌いして避けていたデッサンが、急に面白そうなものに変化した。

「……ありがとう、すごく参考になった。確かに倫の言う通り、知らないくせに嫌がってたんだと良くわかった。挑戦してみるよ」

 理解したことを伝えると、倫はクロッキー帳と筆記用具を片付ける。そしてもう一度選択授業のカリキュラムリストを広げた。

「この、山口先生の『デッサン理論』ってクラスを受けると、すごく丁寧に教えてくれるよ。私も上期に受けて、改めて勉強し直すことができたんで、おすすめ」

「はい。必ず申し込みます」

 今まで使ったことがない丁寧な言葉遣いになってしまった。それをふざけていると感じたのか、倫は笑っている。だが、私はこの会話を通して、やっぱり倫はだてに中学生の時からプロだったわけではないと再認識している。簡単そうに描いているイラストも、さっきの説明を聞いた後に思い出してみると、どれもが計算されていた。

 誰も気づかせてくれなかった真実を、倫が今、教えてくれた。倫との距離をどう測れば良いのかわからない反面、彼女がアーティストとして私の遥か彼方に存在していることは間違いない事実だ。何気ない相談の時間だった筈が、今の会話は一気に私の世界を広げてくれた。

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