第10話 甘さが残る手

 朝は、唐突に来た。


 抗争の翌日だというのに、中華街はいつも通りの顔をしている。

 湯気、油の匂い、笑い声。


 血は、夜のうちに拭われた。


 私は、執務室に立っていた。お父様の席だった場所。


 黒檀の机。重く、冷たい。


 景明が、少し後ろに立つ。


「準備は整っています」


 私は、頷く。


 今日は、発表の日。

 林 鴉玄が退く。正式に、私が“継ぐ”。


 お父様は、もうここにいない。


 殺してはいない。追い出してもいない。


 彼は、自分で盤を降りた。


 ――試しに、負けた。


 扉が開く。


 構成員たちが、静かに並ぶ。

 陳 烈。白蘭。魏 昊。そして、空いた席。


 劉 皓の場所。


 私は、そこを一度だけ見てから、視線を戻す。


「今日から」


 声は、思ったより落ち着いていた。


「黒林は、私が預かる」


 “継ぐ”ではなく、“預かる”。


 それを選んだ。


 ざわめきは、起きない。誰もが、私を見ている。


「規則は変えない」


 最初に、そう言った。安心が、広がる。


「でも」


 一拍置く。


「理由は、問う」


 空気が、少し張りつめる。


「使う命と、捨てる命を、私は区別する」


 陳の口元が、わずかに歪む。

 白蘭は、目を細めた。


「甘いと思うなら、今ここで出て行っていい」


 誰も、動かない。


 それで十分だった。


「命は在庫じゃない」


 白蘭の言葉を、否定する。


「でも、無限でもない」


 私は、机に手を置く。血を落とした、この手で。


「だから私は、無駄に煮詰めない」


 黒い林檎ジャムの話を、誰もが知っている。

 煮詰めすぎれば、戻らない。


「必要な時は、切る」


 静かに。


「でも、楽しみではやらない」


 沈黙。


 それから、周が一歩前に出る。


「……承知しました、ボス」


 その呼び方に、胸が少しだけ痛んだ。


 でも、否定しなかった。烈が、楽しそうに息を吐く。


「面白いですね」


 彼は言う。


「壊さないボス、か」


「壊すわ」


 私は、彼を見る。


「必要なら」


 視線を逸らさない。


「あなたも含めて」


 烈の笑みが、深くなる。


「……最高だ」


 白蘭が、ふっと笑う。


「甘いのに、黒い」


 その評価を、受け取る。


 会議が終わり、一人になった執務室。


 私は、椅子に座る。


 お父様が座っていた場所。不思議と、怖くなかった。


 窓の外では、林檎飴を売る声が聞こえる。甘い匂い。


 私は、手を見る。


 血は、もうついていない。


 でも。完全に黒くは、ならない。

 それでいい。


 甘さを残したまま、黒林は続く。


 ――それが、

 私の選んだ、黒い林檎ジャムだ。

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黒い林檎ジャム 野兎 @no_gi_5421245

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