第8話 黒い林檎ジャム
街が、静かすぎた。
抗争の前は、いつもこうなる。人が減り、音が薄くなり、
息を潜めたみたいな空気だけが残る。
車の後部座席。私は、膝の上で手を組んでいた。
今日は、前に出ない。
お父様の命令。
それでも、ここにいる。
「お嬢」
前の席から、声がした。皓が、振り返る。若い。構成員の中で一番。
黒いパーカーに、安物のジャケット。他の連中みたいに“馴染んで”いない。
まだ、外の世界の匂いが残っている。
「大丈夫ですか」
気遣いが、ぎこちない。
「大丈夫」
そう答えると、彼は少し安心したように笑った。
その笑顔が、胸に引っかかった。
現場は、中華街の外れ。古い工場跡。
お父様が動く。それだけで、抗争は“粛清”になる。
銃声。叫び声。火花。
私は、車の中から見ていた。
見るだけ。それが、こんなに苦しいとは思わなかった。
劉が、車から降りる。
「俺、行ってきます」
返事をする前に、もう走り出していた。
止める理由が、見つからなかった。
若手は、使われる。それが、黒林だ。
数分後。
爆発音。
空気が、震えた。
「……っ!」
私は、思わず立ち上がる。
周が、肩に手を置いた。
「見るだけです」
優しい声。でも、止める力。
煙の向こうから、人影が出てくる。
劉だった。
足を引きずっている。
腹部を押さえ、赤いものが指の隙間から溢れていた。
「お嬢……」
声が、かすれている。
私は、車を降りた。
命令違反だと、わかっている。でも、足が止まらなかった。
「白蘭を!」
叫ぶ。
景明が、即座に通信を入れる。
劉は、地面に座り込む。
顔が、白い。
まだ、生きている。
「すみません」
彼は、笑おうとした。
「失敗、しました」
私は、膝をつく。血の匂いが、濃い。
「違う」
言葉が、震える。
「十分……」
十分だと言いたかった。でも、それは嘘だ。
黒林では、“十分”でも、死ぬ。
白蘭が、到着する。
白衣。冷たい目。
一目で、状況を理解した。
「……厳しいわね」
淡々と。私は、白蘭を見る。
「助けて」
声が、縋る音になる。
白蘭は、私を見る。
あの灰色の目。
「代償は?」
息が詰まる。
命は、在庫。
増やすのも、減らすのも、同じ。
「……私が払う」
白蘭は、少しだけ笑った。
「いい」
劉の腹部を押さえ、首を振る。
「もう煮えすぎ」
その言葉で、理解した。
林檎ジャムは、煮詰めすぎると、戻らない。
劉が、私を見る。
焦点が、少しずれている。
「お嬢」
小さな声。
「……守れて、よかった」
その一言で、何かが切れた。
私は、何も言えなかった。
白蘭が、静かに告げる。
「時間よ」
景明が、目を伏せる。
烈は、何も言わない。
劉の手から、力が抜ける。
体温が、急速に失われていく。
私は、その手を握ったまま動けなかった。
甘くて、黒くて、戻れない。
――黒い林檎ジャム。
それが、この組織の味だ。
車に戻るとき、私は、自分の手を見た。
血で、べったりだった。
拭っても、落ちたのは色だけ。
重さは、残ったままだった。
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