第7話 父の影

 お父様は、音もなくそこにいた。


 会議室の扉を開けたとき、すでに席に座っていた。

 黒檀の椅子に、背筋を伸ばして。



 林 鴉玄。


 黒いチャイナスーツ。

 無駄な刺繍も装飾もない。ただ、生地だけが異様に上質で、

 彼が動かなくても、周囲が静まる。


 白髪はない。

 けれど、黒髪には艶がなく、長い時間をくぐってきた色をしている。


 目が、私と同じだった。黒く、深く、底が見えない。



 目が、私と同じだった。黒く、深く、底が見えない。


「座れ」


 低い声。怒ってはいない。

それが一番、怖い。


 私は、向かいの椅子に座る。


 景明は、お父様の斜め後ろ。烈は、壁際に立っている。

 どちらも、余計な動きをしない。


「杜の件」


 お父様は、指を組んだまま言った。


「判断したのは、お前だな」


「……はい」


「理由は?」


 試されている。それが、はっきりわかった。


「情報が漏れていました」

 私は言う。


「組織を危険に晒した」


 お父様は、ゆっくり頷く。


「感情は?」


 一瞬、答えに詰まる。


「……ありました」


お父様の口元が、わずかに緩んだ。


「正直だ」


 それだけで、許された気がしてしまう自分が嫌だった。


 お父様は、立ち上がる。


 背は高くない。

 でも、近づかれると、空気が変わる。


 私の前で止まり、視線を落とす。


「守られていると思うか」


 唐突な質問。


「はい」


 即答だった。


 お父様は、私の顎に指を添える。

 白蘭とは違う。温度のある手。

「違う」


 その指が、ほんの少し力を込める。


「お前は、守らせている」


 息が、止まった。


「黒林はな」


 父は言う。


「お前を中心に回るように、もう組み直している」


 私は、何も言えなかった。


 知らなかった。いや――

 知ろうとしなかった。


「杜も、陳も、白蘭も」


 お父様は、淡々と続ける。


「お前を見るための駒だ」


 胸の奥が、ひやりと冷える。


「……私も?」


 問いかける声が、かすれた。


 父は、私を見る。


 その目に、初めて感情が宿った。


「お前は、駒じゃない」


 はっきりと。


「盤そのものだ」


 景明が、わずかに目を伏せる。

 烈が、楽しそうに息を吐く。


 私は、理解してしまった。


 今までのすべてが、

 偶然でも成り行きでもなかったこと。


 地下も。拷問室も。白蘭も。抗争も。裏切りも。


 お父様は、私を見ていた。最初から、最後まで。


「怖いか」


 お父様が聞く。私は、正直に答えた。


「……はい」


 お父様は、頷く。


「それでいい」


 お父様は、私の額に軽く手を置く。


 祝福みたいな仕草。


「怖さを失ったら、終わりだ」


 お父様は、席に戻る。


「次は、私が動く」


 その言葉で、空気が変わった。


「お前は、見るだけでいい」


 私は、思わず立ち上がる。


「それは――」


「命令だ」


 遮る声。父は、私を見ない。


「最後の“保護”だ」


 その背中が、ひどく遠く見えた。


 会議室を出ると、廊下がやけに明るく感じた。


 私は、壁に手をつく。


 守られているのではない。導かれているのでもない。


 ――育てられている。


 黒く、甘く、逃げ場のない場所へ。

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