第2話
古びた二階建てのアパート。
律子はコートに身を包んだまま、ヤカンを火にかけている。
ドアの隙間からは寒気が流れ込み、小さな電気ストーブでは部屋はちっとも暖まらない。
壁の薄いアパートはいつまでも冷え切ったままだ。
「余計なことしちゃったなー。でも、さっきの店員さん、ほっとけない感じだったんだよね。」
律子はそう呟きながら味噌汁にお湯を注ぎ、おにぎりのフィルムを外した。
「そうだ。敬語の整理しとかなきゃ。AIさん、頼むわね。」
律子はそう言うとスマホを手に取り、敬語表現について、AIにデータの収集と整理を依頼した。
派遣スタッフのほかに僅かな食い扶持として、アパートに住む外国人に日本語を教えているのだ。
-ピロリン♪
その時、スマホの通知音が鳴った。
「ん、会社からだ。こんな時間に? 夜中の12時だよ。」
スマホのメール画面を開く律子。
「あれ、何回もメール来てたんだ。やば」
律子がスマホを覗き込む。
「ん?」
「ゲッ、ゲゲ? ゲーゲル!?」
会社からの連絡は、IT大手ゲーゲル(Gaegel)の受付に入るようにというものだった。
突如欠員が出て律子にお鉢が回ってきたらしい。
「ゲーゲルだよ。世界を支配せんとするゲーゲルさんよ。私なんか雇っていーの?ま、派遣のバイトではあるんだけど」
「こんな大企業の受付なんて、わたしは使い捨てのイベント要員ちゃうの?」
「それでいつから。25日からね」
「え?25日っていつよ?明日じゃん。いや、もう今日じゃん。」
午後12時は午前0時。日付も変わっている。
「あーっ、いつものペラッペラのスーツじゃまずいよね。」
「大企業の受付のお姉さんって、どんな感じだったっけ?」
「制服あるのかな。それともITだからなんかこうもっと自由な感じ?」
メール画面をスクロールする律子。
「あ、書いてあった。制服じゃないけど会社がそれっぽい服を用意してくれる」
「さすが太っ腹。さすがゲーゲル様」
「もらえたりすんのかしら。…さすがにそれはないか」
「場所は?ゲーゲルって渋谷だっけ。六本木?」
急いで画面を確認する律子。
「渋谷オフィスに朝6時半集合ね。え?早っ!」
「5時半に出る。じゃ遅いか。ギリか」
スマホ相手に早口で独言する律子。
派遣バイトとはいえ、今をときめく華やかな職場のイメージにテンションが上がっている。
「あー、でも、敬語のおさらいもしとかなきゃ。夜、教室あるよ」
「夜はゲーゲル、受付ないよね。午後は3時までね。終わるの早いんだ。朝早いしね。オーケー、間に合う。」
律子はついさっきAIがまとめた敬語表現のレポートの画面を開いた。
日本語のさまざまな敬語表現が分類され、一覧になっている。
尊敬語。謙譲語。丁寧語。教科書的な説明が並ぶ。
「んー。こうじゃないんだよねー」
「尊敬と受身って、おんなじ『られる』が付くじゃない? みんな、それでこんがらがっちゃうんだよね。」
「何かをする人とさ、それを言ってる人が違ってれば『られる』でさ、尊敬も受身も関係ないから、そう説明できると分かりやすいと思うんだけどなー。」
「AIさん、もう一回その視点で調べてねっ と。」
「ついでに人に説明できる感じにまとめてちょーだい。」
AIは律子の新しい指示でリサーチを始めると、あっという間に次のレポートをまとめ上げてきた。こんどはなにやら論文調である。
「速いねー。AI。優秀だわ。どれどれ。」
「ん?共振言語論?」
「なに、この論文。AI書いた?凄いねー。でも、んんん、外国人労働者や子供向けにこれはねー、いや、ちょっと違うよねー」
「わたしが書かせたのか? いや、AIさん考えすぎだろ」
文句を言いながらも、その論文を読み始める。
「えー、なになに。んー『サマリー』? サマリーってなに? ま、いーや」
『三者配置トポロジーによる意味生成と自己言及バグの回避。
現代の大規模言語モデル(LLM)は、統計的な確率による意味生成の限界、および自己生成データの再学習による自己言及的な意味崩壊(無限ループ)のリスクを抱えている』
「うわ、なにこれ、AI優秀すぎんでしょ。なに言ってるかぜんっぜん分かんないわよ。」
「敬語のことも書いてあるよね?」
律子のAIへの独り言が続く。
「えーっと。日本語の『らる』表現と英語の受動態が同じ仕組みで説明できちゃう?」
「なにそれ。ふんふん、中国語もアラビア語もいける? じゃあ、もう全言語いけちゃうんじゃない?」
「それで?モデル崩壊問題を回避できる可能性がある?」
「モデル崩壊って何よ。私の体形が崩れてるってこと? はあ?」
「見えてないでしょ。あんた。勝手なこと言わないでよね。あ、カメラついてんのか。え?こわ‼︎」
律子がAIと問答を繰り返す。
時間がどんどん過ぎていく。
AIは確かに速い。
速いが回答がやたらと長く饒舌だ。
読んでいるうちに時間が食われてしまう。
律。
もうすぐ夜が明けるぞ。
集合時間は6時30分だ。
--忘れてないよな?
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