第2話 あの日の記憶
楽しい一日になるはずだった。
お父さんが珍しく週末に休みを取れたから、三人で海を見に行こうと言った。
お母さんは朝早くからお弁当を作っていて、私はそれを手伝った。
電車に乗って、海の街に着いた。
潮の匂いがした。
カモメが飛んでいた。
お母さんが「写真撮ろう」と言って、三人で並んだ。
お父さんがスマホを構えて、腕を伸ばして、うまく撮れなくて、近くにいたおばさんに頼んで撮ってもらった。
海沿いの道を歩いた。
お土産屋さんを覗いた。
お母さんがガラス細工のイルカを見つけて、「かわいい」と言った。
お父さんが買ってあげようとして、お母さんが「いいよ、高いから」と断って、でも結局お父さんが買った。
お母さんは嬉しそうだった。
お昼ご飯はお弁当を食べた。
公園のベンチに座って、海を見ながら。
卵焼きは私の担当だ。
少し焦げたけど、お父さんは「凛が作ったのが一番うまい」と笑った。
お母さんは「上手になったね」と言ってくれた。
午後は水族館に行く予定だった。
行けなかった。
それは突然だった。
空が、割れた。
本当に、空に亀裂が走ったように見えた。
黒い稲妻のようなものが走って、そこから──出てきた。
魔物。
テレビで見たことはあった。
ニュースで、ネットで。
でも、画面越しに見るのと、目の前にいるのとでは、まるで違った。
巨大だった。
ビルくらいある。
黒くて、形がよくわからない。
目がたくさんあって、腕がたくさんあって、口がたくさんあった。
悲鳴が聞こえた。
自分の声だったのかもしれない。
お父さんが私の手を掴んだ。
走った。
お母さんも一緒に走った。
みんな走っていた。
逃げていた。
魔物が動いた。
腕が振り下ろされた。
建物が砕けた。
瓦礫が降ってきた。
「凛っ!」
お父さんの声がした。
突き飛ばされた。
地面に転がった。
振り返ったら、お父さんとお母さんが、私を庇うように立っていた。
その上に、瓦礫が落ちてきた。
音がした。
嫌な音だった。
何の音か、わかりたくなかった。
「──お父、さん?」
返事はなかった。
「お母さん?」
返事はなかった。
瓦礫の下から、手だけが見えた。
お父さんの手。
動かなかった。
どのくらいそこにいたのか、わからない。
気づいたら、走っていた。
どこに向かっているのかわからなかった。
ただ、あの場所にいられなかった。
あの手を見ていられなかった。
動かない手。
動かないお父さん。
動かないお母さん。
逃げた。
逃げて、逃げて、逃げて──
路地裏に迷い込んだ。
行き止まりだった。
振り返ると、魔物がいた。
さっきの巨大なやつじゃない。
もっと小さい。
人間くらいの大きさ。
でも、口があった。
牙があった。
目が光っていた。
追いかけてきたのだ。
私を。
どうして。
どうして逃げ切れると思ったのだろう。
脚が動かなかった。
腰が抜けていた。
座り込んで、後ずさって、背中が壁にぶつかった。
もう逃げられない。
魔物が近づいてくる。
死ぬんだ、と思った。
お父さんとお母さんみたいに。
──怖い。
その時、手に何かが触れた。
ぬいぐるみだった。
ウサギのような形をしていた。
胴が妙に長くて、ボタンの目がついていた。
薄汚れていて、古びていて、誰かが捨てたのだろう。
どうしてこんなものを掴んだのか、わからない。
ただ、何かに縋りたかった。
何でもいいから。
ぬいぐるみを胸に抱きしめた。
魔物が目の前まで来た。
牙が光った。
終わる。
──そう思った、その時。
『力が……欲しいか?』
声がした。
低くて、かすれていて、どこから聞こえたのかわからなかった。
でも、確かに聞こえた。
腕の中のぬいぐるみが、ほんの少しだけ、動いた気がした。
『力が、欲しいか?』
もう一度、声が聞こえた。
私は答えた。
涙で濡れた顔で、震える声で、それでもはっきりと。
「──欲しい」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
体が熱くなった。
頭の中で何かが弾けた。
力が、湧き上がってきた。
立ち上がっていた。
いつの間にか。
脚は震えていない。
腰も抜けていない。
ぬいぐるみを握っていた。
魔物が襲いかかってきた。
私は──殴った。
ぬいぐるみを振りかぶって、魔物の顔面に叩きつけた。
「ドゥー」
奇妙な音がした。
ぬいぐるみから発せられた音だった。
そして、魔物が吹き飛んだ。
壁にぶつかって、崩れ落ちて、動かなくなった。
私は立ち尽くしていた。
手の中のぬいぐるみを見た。
ボタンの目が、こちらを見ていた。
「──おまえ、何なの?」
問いかけた。
ぬいぐるみは答えなかった。
ただ、動かない魔物の方へ──ゆっくりと、体を傾けた。
そして、口を開いた。
口なんてなかったはずなのに。
魔物を、食べた。
その光景を見ても、私は怖いとは思わなかった。
もう、何も怖くなかった。
怖いと思えるほど、心が残っていなかった。
ぬいぐるみは魔物を食べ終わると、また元の姿に戻った。
胴の長いウサギ。
ボタンの目。
何事もなかったかのように。
私はそれを抱きしめた。
「……ドゥー太郎。
これからはそう呼ぶ」
名前をつけた。
叩いたら「ドゥー」と鳴いたから。
返事はなかった。
空からヘリコプターの音が聞こえる。
遠くで、光が瞬いた。
爆音が響く。
軍隊や魔法少女が戦っているのだろう。
遅い、と私は思った。
遅すぎる。
もう終わったのに。
何もかも、終わったのに。
路地裏から出た。
人がたくさん走っていた。
救急車が来ていた。
誰かが私に声をかけた。
怪我はないか、大丈夫か、親はどこだ。
私は何も答えなかった。
声が出なかった。
ドゥー太郎を抱きしめて、立っていた。
大人たちが私を保護した。
毛布をかけてくれた。
水を渡してくれた。
名前を聞いた。
私は答えなかった。
答えられなかった。
なにも考えられなくて、ぼんやりしていたら、いつの間にか知らない場所にいて、時間が経ってた。
親戚のおばさんが来て、あなたのお父さんとお母さんは死んだ、今日から私があなたを引き取る、って言った。
そっか、お父さんもお母さんも死んだんだ、って思った。
涙は出なかった。
***
神崎晋一郎は、手にしたファイルを閉じて深く息をつく。
──調査の結果、関係性が高いと思われる事件が見つかった。
六月十七日、■県■市の魔物災害、死傷者多数。
この犠牲者の中のとある家族の記録が目に付いたのだ。
===================
死亡者:桐生誠一、四十一歳。桐生美咲、三十八歳。
生存者:桐生凛、十五歳。両親と旅行中に被災。外傷軽微、精神的ショックにより一時的な失語状態。
===================
記録に書かれているのは、それだけだった。
だが、行間から滲み出るものがある。
両親と旅行中。
楽しい一日だったはずだ。
突然の魔物災害。
逃げ惑う人々。
そして──両親の死。
十五歳の少女が、その場で何を見たのか。
何を感じたのか。
記録には書かれていない。
だが、想像はできた。
窓の外を見た。
夕暮れの空が赤く染まっていた。
まだ、そうと決まったわけでは無い。
この少女の足取りの調査が残っている。
だがおそらくはこの少女が、今追っている未登録魔法少女だ。
桐生凛。
十五歳。
両親を喪い、一人で戦い続けている少女。
お父さんを返せ。
お母さんを返せ。
あの日を返せ。
──きっと、そう叫びながら戦っているのだろう。
「必ず、見つける」
神崎は呟いた。
デスクの上に、一枚の写真があった。
監視カメラから切り出した不鮮明な画像。
ぬいぐるみを抱えた少女の後ろ姿。
あの日から数ヶ月。
この子は、たった一人で何を背負ってきたのか。
神崎は写真を見つめ続けた。
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