第8話 主任のいない日々
私はあれから実家に戻って暮らしている。大学は何とか卒業できたが、一年多くかかってしまった。結局事件なのか失踪なのか、よくわからないらしい。金庫にはやはりお金が入っていて、全て照会出来たらしい。なんでも主任はもう一つ仕事をしていて、そこで得たお金だった。いかにも主任らしいというか、私には真似できないと思った。
それにしても主任はどこに行ってしまったのだろうか。失踪するならお金くらい持って行けばよかったのに。それになんであんな大金を家に置いていたのだろう。あれだけの元手があれば、主任ならきっと株の運用とかで上手くやれたと思う。
でも私は一つ思う所がある。主任は働く事が好きだったんじゃないかと。そしてその対価、自分の頑張りを目に見える形として、金庫に置いていたのではないか、と。まるで何か大切なコレクションをガラスケースに飾る様に、主任にとってお金は価値のある紙切れだったのではないかと。
だって思うもの、私だったらどうしようかと。あんなにこつこつ貯められたとしても、きっとあっという間に使ってしまうと思う。たかだか二千万なんて、下手したら車を買ったらそれで終わってしまう事もあるのだから。
朝、眠たい足取りでなんとか外へ出て、冷たい風で目が覚ます。建物の向こう、海の方から太陽が一日一日と早く顔を出す事を実感している。行動するにはまだ早いけれど、近所のみなさんを起こさない様にそっと散歩に出かけるのだ。
最近私は、仕事以外で外に出る事が増えて来た。父から借りているギア付きの原付は未だに私が乗り回している。この間なんか私が点検に持って行った程だ。自分でも意外だが、不思議と身体に合っている、そんな気さえ覚えている。
はじめてバイクの事を意識したのは父からの話だった。若い頃高速を飛ばして何時間短縮したとか、一回で何百キロ走ったとか、頭のネジが飛んでる話ばかりだった。だから私が抱いていた印象は、公道をシートベルトなしで走れる危ない乗り物、そういった印象だった。しかし今では、自転車より早くて車より小回りの利く経済的な乗り物だと思っている。勿論それはこの原付だから言える事だが。
そして最近は早く家を出ている。これも不思議な事なのだが、早くバイクに乗りたいと思っている自分がいるのだ。そしてもっと大きいバイクに乗りたいとさえ思っている。休学中に教習所に通っていた時は罪悪感から苦い感情に襲われる事があったが、今ではそれでよかったと思える。
私のバイク熱に油を注いでいる人間がいる、店長だ。私はあの後少し仕事を休んだが、店長のお陰で何とか働く事が出来た。というか、あの職場が無かったら私はまだ立ち直れていなかったと思う。
これも不思議な事で、大学には全く行く気が湧かなかったが、働いていると嫌な気持ちがどんどん無くなり、帰る頃にはすっきりしている私がいる事に気が付いたのだ。
「おはよう」
店長が少し離れた所から、軽い感じで言った。大分慣れて来た自分が不思議だが、
「おはようございます」
ちゃんと挨拶が出来る自分がいる。
「今日は調子どう?」
「やっぱりまだ寒いですね。少し南に行ってみたんですけど、氷点下だったんで引き返してきました」
「相変わらず無茶してるな。もう一か月くらい待ちなよ」
「いやいや、父がそろそろ返せって言ってるので、今のうちに堪能しておかないと」
店長は呆れ顔だ。私の父以上に私を心配してくれている。
「すごいな、原付でそんなに楽しめるのは、ある種才能じゃないか?」
少し笑って店長は言った。
「店長はどうなんですか?」
「昨日連絡あって、来月にまた取材に来たいって言われたよ」
「おお、すごいじゃないですか」
「しかも今回は、バイク雑誌の〇〇」
そう言って、店長はまだ発売日前の今月号を渡してくれた。
「夏になったら行きたいスポット、一位になりました!」
嬉しそうな声を上げて飛び上がる屋敷、店長も負けじと跳ね上がったら建物が揺れた。
「これは夏の集客アップが見込めますね」
「さらにだ、これよ」
ノートパソコンには英語で書かれている何かが映し出されている。
「今度はイギリスのテレビ局が、取材に来るって」
「これは、私のお給料もアップですね!」
店長は上手ではない口笛を吹きながら行ってしまった。
あれからこの土産物屋は少しのお休みを経て、現在は元気に営業している。田中さんは最後の奉公だと言って、連日遅くまで働いている。主任がしていた仕事のほとんどは店長がやる事になったが、本人も嫌ではなさそうだ。何と言うか、みんな主任の面影をどこか追いかけている気がする。もちろん直接聞いた事はないけれど。
私はというと、眠導入剤を処方されている。全く眠らない日が増え、出勤時間前から職場に足が向かっていたらしい。自分では全く思い出せないのだが、これも薬の効果らしい。お医者さんが言うには、昨日まで一緒に働いていた人が急にいなくなってしまった、この事実に心が耐えられなかった、と言う事らしい。
それから私には絵心がほんの少しあった様で、有名なディスカウントストアを真似てあれこれ作っているうちに、店長をデフォルメしてポップを描いたら思いのほか可愛いと評判になった。
主任、いつ帰って来てもいいんですよ。どこほっつき歩いているんですか。もっとお話を聞かせてくださいよ、一緒に遊びに行きましょうよ……。
今でもお客さんの人並みのなかから、主任が現れるんじゃないかって思うんですよ。喫煙所にいたらあなたが来るんじゃないかって、思うんです。
店長を一番うまく扱えるのは主任しかいないんですよ。手際の良さなら主任の右に出る者はいないんですよ。
あの日と同じ青空なのに、煙は綺麗に見えなかった。
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