第5話 ヘルプのアルバイト
ビルの一室、しっかりしたソファーの真ん中に陣取り全身を背もたれに預けている女。電球色の間接照明が優しく部屋を照らし、アンティークっぽい調度品で統一された事務所とは思えない空間だ。
空調がほのかに効いている快適な空間にも関わらず、その表情は曇りがちだ。天井をぼーっと見つめて、テキパキ動く昼間とは違い、全ての動作が停止している。
ああ、また呼ばれるがまま来てしまった。いや、声をかけられる事は有難いはずだ。それでもいつまで呼んでもらえるのだろうか、考え過ぎるのを止めようと、タバコに火を付けた。柔らかな紫煙が部屋に広がり、濃密な香りが彼女の傷も悩みも包んでくれる気がした。
そうして、扉はノック無く突然開かれた。
「おはよう、急に連絡してわるかったね」
「連絡してもらったお陰で、じゃんじゃん出ましたよ」
「そうか、じゃあ今回もバリバリ稼いでいってくれ」
「それはどうかな」
女は難しそうな表情で水滴の付いた窓の外を見つめる。昼間はあんなに綺麗に聞こえていたウミネコの声が、ここではしない。
「最近はどうなの?」
女の問いかけに、店長は大学ノートを二冊渡した。
「これが先週、こっちが先月、まあぼちぼちさ」
飄々(ひょうひょう)と言う店長に対し少し強い感じで、
「私を呼んだって事は、訳ありでしょう? ナンバーワンは何してるのさ?」
「今はお客と海外よ。どこ行ってるか知らないけど、このまま帰って来なかったらどうしようか、内心ドキドキよ」
「ふーん、それで?」
「このままだと来月には苦しくなりそうなんで、早めに呼ばせて頂きました」
店長と呼ばれる屈強そうな男は、丁寧に女に頭を下げた。
「いいって、頭上げてよ。今までそんな事言わなかったじゃないですか」
「おれも最近思うところあって、形だけでも謝りたくて」
それは数年前、女が店長と今とは別の店で働いていた頃に遡る。
「もう、また昔の話する気?」
ぱらぱらとノートをめくりながら話す女。
「……そうだな、やめよう」
何か言いたげな感じを受けたが、長くなりそうなのでこれ以上聞かない事にした。
「ノート、相変わらず丁寧に書いてありますね」
「文字の綺麗さでここまで来れたからな」
誇らしげな店長に、
「それで、今回の名前は?」
女が言った。
「えーっと、そうだな。確か前回は……」
別のノートを棚から取り出し、ぱらぱらとめくる。
「確か、みやびじゃなかった?」
「あー、それはもっと前だわ……、あった」
横から覗き込むと、前回の名前はなつみだった。
「そうだそうだ、夏だったからね」
「じゃあ今回はあきことか?」
と店長が言うと、
「単純だなー。でもちょっとスナックっぽくない?」
「いい店が最近出来たんだよ」
女は笑った。名前何てどうでもいい、そう言ってもよかったのだが、
「そうだ、写真は前の良かったから、あれ使うよ」
思わずぎくっと顔が引きつった。
「えー、またあれ使うの? ……流石に撮り直さない? 身体はちゃんと絞ってるからいつでもいいからさ」
「大丈夫だって、最新の技術で盛るからさ」
小さなため息を付いて、
「もう私もそろそろ三十が見えて来たのよ。だからもう一度撮りたいな……」
「そうか、それはよかった」
店長はなんだか嬉しそうだ。
「そしたら今度は姉系のお店を作ろう」
反論の余地など全くない程、店長の熱意を感じた。
「え、また店作るんですか?」
「そうとも。この店も軌道に乗って結構経つからな」
女は小さくため息をついて、短くなったタバコを綺麗な灰皿で消した。
「前から思ってたんですけど、どうして私にそこまでしてくれるんですか?」
それは数年前、女がナンバーワンだった頃まで遡る話だ。
「有難いなと思っていたけど、この際聞いておきたくて」
店長はうーんと少し考えてから、優しい口調で、
「それは新しい店が出来た時にでも教えよう」
甘い香りのするリトルシガーにマッチで火を付けて、それから何も言わなかった。
夜の街には色々な店がある。客の接待をして客に遊興又は飲食させる営業に代表される接待飲食等営業、ナイトクラブなどの特定遊興飲食店営業、バーや酒場で深夜(午前零時から午前六時)においてなんたらは深夜酒類提供飲食店営業、など。
言葉だけでは頭が固くなりそうだが、夜の街を彩る店は概ね風営法に準じているのだ。そして彼女がアルバイトで来ているこの店は、店舗型性風俗特殊営業の一号営業に当たる。いわゆるソープランドだ。
表通りから一本入った所にあるこの店の特徴は、店構えがお洒落で風俗店に見えない所だろう。他の店とは違い派手な照明も際どい看板も何もない。
この店に通いたい場合は表に立っている白髪の似合う矍鑠(かくしゃく)とした老人を目印に来るといい。長年の経験から培った巧みな言葉使いで、一人二人とお客を引いている。無論それは警察の指導に遵守した形だが、特筆すべきは彼はただマニュアル通りに話している事だ。そのマニュアルを作った人物がとても優秀なのだが、それは企業秘密だ。
女は店に出る時毎回名前を変えていて、固定客がつかない様にしている。そして主に店のスタッフが足りない時に一見客を相手にしている稀なタイプだ。店側も彼女の扱いは特別で、店長が直々に客を選んでいる。
「この子はちょっと口下手なんで割引してます。もちろんサービスは上手ですよ」
案内も店長がしている。だから変な客はほとんど回ってこない。
彼女はいつ呼ばれてもいい様に待機しているし、部屋だって空いている所を使う。いくらこの人が気に入ったといえど、追いかけるのは至難の業だ。それは彼女の、そして店長の望みからなのだ。
指名が入り、さっと鏡で自身を確認し、控室を出る。
「ご指名ありがとうございます」
待合室でお客と対面。謝辞を述べ、笑みを浮かべる。
「私はあんまり上手に話せないんですけど、その分いっぱい気持ちよく出来ればと」
今回の客は若い、大学生だろうか。安い衣装だがざっくり空いた胸元から視線が外れない。これからの情事を連想させる為にお客の手を固く握る。
「こういうお店は初めてですか?」
大人三人は入れなそうなエレベーター内で、お客は恥ずかしそうに、二回目だと言った。
「なら、もう慣れっこじゃないですか」
少ない会話から相手の出方を伺う。今回は相手があまり話してくれないので、こちらから行くことにした。
「じゃあ、お洋服を脱がせてくださる?」
部屋に到着して、開口一番言った。若い男は精一杯照れ隠しをしながら、頷いた。別にこういう店だから、鼻の下が目いっぱい伸びていても構わないのだが、
「優しいんですね」
どんな人間にも最低限のプライドはある。視線を外されて部屋をじろじろ見られると、急ごしらえで掃除が微妙な点がばれてしまう。もちろん清掃は行われているのだが、女からするとまだ甘い。
「ここのチャックを降ろして、そうです」
小さなチャックは噛みやすい、それを知ってか男はゆっくり降ろしていく。同時に女の気持ちも、ゆっくりと切り替わって行く。
「……次は、こっちです」
安い衣装とは違い、下着は上等の物だ。そんな事より女の仕草が突然色っぽくなったことに客は戸惑っていた。
「……恥ずかしいな」
自然と言葉が出る、偽りか真実か、自分でもわからない。そうして胸が露わになると、
「じゃあ、今度は私が脱がせちゃいますね」
男と向き合うと、何もつけていない胸に視線が向けられる。
「もっと見て、いいんですからね……」
男の衣服を一枚ずつ脱がせていく度、自分の中でスイッチがオンになる気がした。
「今日はありがとうな、これ」
しっかりしたソファーに身体を預ける女に、店長が茶封筒を渡す。
「日払いにしておかないと、何かと危ない世の中なんで」
「こんな店に盗みに入る度胸がある奴は、そういないでしょ」
全身に気だるさを覚えながら、封筒を受け取った。そのままバッグに入れた女に対し、
「一応中を確認してくれ」
呆れた感じで言った。
「今日は二人だから、わかってるわ」
「それはそうだが、念のためな」
女は促されるまま、渋々封筒の中を確認した。
「……なんか多くない?」
すると店長は待ってましたと笑って、
「そうなんだよ、お給料アップですよ」
なんで自分事の様に喜んでいるのだろうか。
「別に、お金には困ってないんだけど」
「羨ましいな。俺も一度でいいからそんなセリフ言ってみたいわ」
そういう意味じゃなくて、女は言葉を一度秘めた。
「まあいいから、取っておけって」
次の行動も店長にはお見通しの様だ。
「それで、次はいつにする?」
ご自慢のノートをめくりながら言った。
「そうだな、来週の土曜とか?」
言いながらタバコに火を付ける。
「あー、そこは間に合ってるな」
ふーっと煙を吐いて、
「でも三連休でしょ」
「わかってる。でもあいつが来るからな」
あいつに覚えはなかったが、これ以上は言わない事にした。
「じゃあ、その人に合わない様にするわ」
「そうしてくれると、助かる」
こういうお客を取り合う業種は、何かと揉め事が多い。自分は何とも思っていなくても、向こうは敵視している事だってざらにある。
「そうだな、そこらへんなら月曜日でどうかな」
タバコから栄養を摂取して、煙を少しだけ吐いて、はっとした。
「ごめん、手帳置いてきちゃった」
「わかった。じゃあまた連絡するわ」
マッチを擦る音がして、ふーっと煙がまた一つ増えた。
「にしても、こんないい女がどうしてアルバイトなんだか」
リトルシガーの甘い香りが広がる。
「まあ、色々ね」
店長はしばし煙を味わってから、
「この間も一人、自殺しちまったよ」
いつものトーンで言った。
「耐えられなかったみたいでさ」
耐えられなかった、それが全てだ。
「まあしょうがないんじゃない」
女は極めていつも通りに言った。
「また駄目だったよ」
店長はやけにカラッと言った。
「俺はこの仕事にプライド持ってる。世の中色々仕事はあるけど、最後の砦だと思ってやってるんだ」
店長は強く煙を吸った。そしてむせた。咳き込みながら、小さな水滴が目尻からこぼれた。
「私だけじゃなくて、店長はみんなに優しいから」
同じ話を何度も聞いている女には、店長の意思がよくわかる。自分一人で生計を立てなければならない者、複雑な事情を抱えお金が必要な者、どこにも馴染めず流れ着いた者、この店には様々な人間がいる。
その様な人間一人一人としっかり向き合っている、それが私の尊敬する店長だ。経営者としての態度をほとんど見せず、誰にも等しく接してくれる人格者。
だから私は、この人と未だに縁を切れずに働いているのだ。私みたいな人間を未だに気にかけてくれて、仕事を与えてくれる。それでいて他の子達とのバランスもちゃんと考えてくれている。
「店長がもう少し若かったら、惚れてたかな」
店長は何も言わない。
「強く生きよう、一人で生きようって決めた人には、店長の優しさが辛いんだよ」
いつもはあまり言わない事を言ってしまった。
「でも、その優しさに救われている人もいる」
女は窓の外を見ながら煙を吐いた。閉め切られた窓に当たり、ふわふわと煙は消える。
「……たまにはこういう事も言ってみるもんだね」
タバコをもみ消して、けろっと笑って見せた。
「……彼氏でも出来たか」
「さっきまで一緒だったけど、もうお別れしたよ」
店長はふっと笑って、
「お前さんは彼氏と一晩も続かないからな」
「そうなんですよ、こんないい女なのに」
「じゃあまた来ますんで」
そう言って店長の元を後にする。
「おい、これ」
去り際に新品のタバコを投げ渡された。
「気を付けてな」
「店長こそ、涙吹いてくださいね」
いつまでも話していられる気がしたが、意を決して部屋を出た。
外に出た頃には、日付が変わっていた。微かな潮の香りを頼りに目いっぱい息を吸う、腹が減った。そうなれば行く場所はひとつだ。
「いらっしゃい、あれ珍しい」
行きつけのラーメン屋に顔を出すと、相変わらず大将は背筋をまっすぐ伸ばして、カウンターに立っていた。
「ごめんね、珍しくて」
「あんまり来ないから、死んだかと思ってたよ」
軽く笑い飛ばして、カウンターに座るなりタバコを取り出す。
「いつものでいいか?」
白髪の似合う店長だったが、いつの間にかそれも無くなり、明るくなっていた。
「いつも何食べてたっけ」
「すっとぼけないでくれよ。チャーハンと半ラーメンでしょうに」
「ああ、それそれ」
ちょっと意地悪を言いたくなるくらい、嬉しかった。タバコを吸って一息ついて、店内にお客がいる事に初めて気が付いた。
「あちゃ、まずかった?」
それは喫煙を意味していたが、テーブル席のお客達は話に夢中な様だ。
「うちはまだ大丈夫だから」
近くにあった金属の小さな灰皿を手繰り寄せ、とんとんと灰を落とす。大将はカウンターに立ってるだけで、何やら別の人間が中華鍋を振るっている。
「あれ、新しい人なんて珍しいね」
大将は少し恥ずかしそうに、
「私も寄る年波には勝てないもんで。後継者を募集したのよ」
頭にタオルを巻いて鍋を振るっている男、後ろ姿からはそれしかわからない。
「そうなんだ。大将も大分長くやってるもんね」
「実はこの間手術したのよ。結構長く入院してたからもう駄目かと思ったんだけど、あんたの顔見るまでは死ねないと思ってね」
女は少し考えてから、
「ツケでも溜まってたっけ?」
大将は大笑いした。
「なんでよ、可笑しいの?」
女が聞いても、大将は笑い続けていた。
「もう、ひどいんだから」
大将にわからない様に、そっとタバコを消した。
「いや、悪いね。あんた程の傑物が、そんなちっちゃい事言うとは」
大将はまだ笑っている。
「昔の事は忘れたよ」
はっと思い出した様に、大将は小麦粉の付いた麺をさっと分けて、湯に入れた。
「いけね、タイマーどこだっけ」
鍋を振るっている男がそこと言って、事なきを得た。
「入院してからもうこんな感じよ」
今度は苦笑いだった。
「あれは駄目だわ。一度世話になると自分で動くのが面倒になって行くんだわ」
「へえ、そんなもんかね」
「でも人の目があるから快適って訳じゃなくてな。あれが看護婦さんだからいいけど、一歩間違えれば刑務所みたいなもんよ」
流石に服役経験はないので、
「自由って守らないといけないんだな」
「まあな。だから身体が動くうちに味を引き継いでおきたいと思ってさ。彼、すごく筋がいいんだわ」
そうこうしているうちに、チャーハンが出て来た。一人前にしては少し量が多いのがこの店の特徴だ。
一瞬だけ表情が見えたタオルの男は、とても立派な顎ひげを蓄えていた。
「はいはい、半ラーメンも、お待ちね」
「うわー、久々だわ」
割り箸を口で割って、我慢できないという具合にラーメンから手を付けた。これは特に味は変わっていないはずだが、とても美味いと感じた。問題はチャーハンだ。こればかりは人が変われば味も変わる。ポジティブに考えてむしろ味が変わったことを楽しもう。そう思い、一口。
「あれ、全然変わらない」
驚いた。今別人が作っているのを見ていたのに、大将の味と変わらなかった。タオルの男はこちらには見向きもせず、何やら仕込みをしている。ならばこちらもと、無言で箸を進めた。
ラーメンの汁まで飲み干したのは、いつ以来だろうか。ふうと息を吐き、しょっぱい口の中を水で潤す。
「なんだよ、全部飲んだのかよ」
「久々に来たら、何だかもったいない気がして」
大将は不思議そうに、
「あんた、今日はどうしたんだい?」
「どうして」
「タバコは吸わねえ、味の感想を言う、スープは飲み干す。ちょっと見ない間に随分人が変わっちまったんじゃねえか」
口が寂しかったので爪楊枝を咥えて、
「そういう日もあるのよ」
歯の隙間に挟まったネギがなかなか取れない。
「というか、私ってどんな人間に思われてるの」
大将ははっと何かに打たれた様な顔をした、ほんの一瞬だが。
「いや、よかったよ」
「よかった?」
「あんたがまた来てくれて、よかったよ。あんたの為に店を再開したようなもんだからな」
今度は女がはっとした。
「なにさ、それ。私が来る前からお店やってたんでしょうよ」
「まあ、色々あったんだわ」
帰ったらお昼にパチンコ屋で聞いた話、外国人向けに何かポップでも作ろう、そう思った。
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