遅効性
高校生の頃の広井は、雲のような存在だった。
今のように金髪ではなかった。
綺麗に伸びた黒髪がカーテンのように広井への仕切りを作っているように思えた。
授業は三分の一サボり、学校に来るのは午後からだったり、逆に早退で昼にはいないなんていうことも珍しくない。
噂ではギリギリのところで単位だけは確保して二年生に進級したと聞いていた。
当然の如く浮いた存在で、誰かと話しているところなど見たことがない。
いつも一人でいるがそれを気にしているふうでもなかった。
そんな広井と私が接点を持ったのは本当に偶然だった。
私たちの高校の体育の授業は先生の指導もかなり緩く、ほとんど自由時間のようなものだった。
そんな体育の授業があった五月の日、私は初めて授業をサボった。
特に理由などなく、目的もあったわけではなかった。
ただなんとなく、校内をフラフラと先生に見つからないような場所を探していた。
たまたまたどり着いた校舎裏手の非常階段三階の踊り場。
そこに広井はいた。
そこがまるで巣であるかのようにそこに座った広井は階段を上がってきた私に気付くと一瞬顔を上げたが、すぐに手元のスマホに目線を落とす。
「広井さん、ここで何してるの」
思わず聞いてしまった。
想像していなかった遭遇に少し混乱していたのかもしれない。
「別に何もしてない」
淡々とそんな答えが帰ってきた。
不思議と冷たいものは感じず、私は広井の声をちゃんと聞いたのは初めてだなと思った。
「私も授業終わるまでここにいてもいい?」
どうしてそんなことを聞いてしまったのか。
広井も不思議そうに私を少しの間、見ていたと思う。
少しの沈黙が流れたあと、広井は「別にいいけど」と言った。
それからは特に何を話すでもなく、隣に座って踊り場から見える切り取られた空を眺めていた。
チャイムが鳴って「じゃ」と挨拶すると広井も「じゃあ」と言った。
そんなことがあってから、体育の授業がある日や昼休みに私は非常階段の踊り場に足を向けた。
広井は結構な確率でそこにいて、一緒に時間を過ごすことに何も言わなかった。
話さないことがほとんどだが、たまに話すこともあった。
どうしてあまり授業に出ないのかと聞いたこともある。
輪の中にいるより、少し外れた場所にいるのが心地いいとよくわからないことを言っていた気がする。
たまにお菓子を持っていくと喜んだ。
野良猫に餌付けでもしているようだった。
クラスメイトから「最近どこに行っているの」と聞かれたこともあったが、なんとなく広井とのことは言わずに適当にごまかしていた。
そんな日々がなんとなく続いて、夏休みも通り過ぎ、十月になったある日のことだった。
その日は家庭科の調理実習でカップケーキを作った。
その授業は毎年二年生のその時期に行われるもので、女子の間でそこで作ったカップケーキを好きな相手に渡して食べてもらえると恋が成就するというある種の行事のようなものになっていて、楽しみにしているクラスメイトも多かった。
当然広井は参加していなかった。
少し浮かれた空気の中の授業で、カップケーキが思ったより綺麗に膨らんだことが嬉しかった。
最後に先生が、保存料などを使っていない素人の作成したものなのでその日のうちに食べてしまうようにと言った。
授業が終わって、クラスメイトが早速意中の相手に渡しに行くと盛り上がっていた。
その日の昼休み、非常階段に行くと広井の姿はなかった。
一人その場で昼食を取ったが、食べ終わっても広井が来ることはなかった。
休み時間の終わり際、下駄箱を見に行ったが当然のように広井の靴はなかった。
今日は来ないのか。
午後の授業を受けながらぼーっとそんなことを考えていた。
その日最後の現国の授業中、私は集中できずに机の中のカップケーキが入った紙袋の端っこを指でいじっていた。
先生がその日の日付と同じ出席番号の男子に教科書を読むように指示したとき、突然教室の後ろの扉が開いた。
スクールバッグを持った広井が悪びれもせず入ってくる。
呆れたように先生が「来るならもっと早く来い」と言った。
広井は気にするでもなく自分の席に座り、教科書も広げずに頬杖をついた。
十五分ほど経って、チャイムが授業の終わりを告げた。
先生が教室から出ていき、クラスメイトが各々帰り支度を始める中、私は立ち上がり、中身を崩さないように両手でしっかり抱えて、頬杖をついたままの席に向かった。
「広井」
その日、私は教室で初めて広井に声をかけた。
隣で布団に身体を横たえる広井の髪に触れる。
さっき風呂に入ったばかりの広井の髪はいつもより指通りがよく、するりと抜ける。
「どうした?」
手を取ると自然に広井の指が私の指と絡まる。
「いやー……」
首元の私が残した痕に目をやり、顔に視線を戻す。
「効くのに時間かかったなと思ってさ」
オレンジ色のぼんやりとした灯りの下、広井はよくわからないという顔で私を見ていた。
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