第4章
街の灯りが切れる場所から先は、海の匂いがする。塩と、湿った鉄と、古い油の残り香が、同じ層に沈んでいた。波の音は一定で、鼓動の代用品みたいに規則正しい。
湊はその規則を、安心の材料にはしなかった。音は音だ。入力は入力。意味は後から勝手に付く。
陽は隣を歩いている。歩いている、というより、歩かされている。手首を掴む力は強くない。だが離れない。離れられない。湊の指は、握るためではなく固定するためにそこにある。
陽が一度だけ、口を開いた。何か言おうとして、閉じた。言葉は呼気よりも重い。それを吐き出せば、たぶん壊れる。壊れたものは、元に戻らない――この世界では、そういう感覚だけが逆に確かになっていた。
歩幅を合わせる必要はない。合わせることが目的ではない。目的は到達だ。
湊は自分の歩幅を一定にした。一定は誤差を減らす。誤差が減れば、次の工程が短くなる。短くなった工程は、消耗を抑える。消耗が抑えられれば、成功率が上がる。
その連鎖に、倫理の居場所はなかった。倫理は結論ではなく、迷いを増やす枝だ。枝は剪定される。
道路脇の防波堤を越えると、空が急に低くなった気がした。風が横から押してくる。陽の髪が乱れ、彼女は直そうともしない。
湊は懐中時計の重さを確認する。ポケットの中で、金属は冷たく、しかも重い。重さは「残量」のように思えた。残量が減っているのに、重さだけが増えていく。理屈としては矛盾している。だが矛盾は現象だ。現象は観測する。
廃工場は、海沿いの暗がりに沈んでいた。錆びた鉄骨が骨のように折れ、割れた窓が黒い穴になっている。床には水たまりがあり、波の音が反響して、どこから鳴っているのか分からなくなる。
湊は立ち止まり、視線を動かした。遮蔽物、死角、分岐、退路。ここは「見えにくい」。見えにくいことは、敵にとって情報が欠けることだ。情報が欠ければ、未来は薄くなる。薄くなった未来は、物理で押し潰せる。
陽は何も言わない。泣く気配もない。泣く余裕が尽きた人間の沈黙は、叫びよりも長く残る。
湊はその沈黙を、良いとも悪いとも判断しなかった。入力が減る。ノイズが減る。
ただ、胸の奥のどこかで、消えたはずの感覚が遅れて引っかかった。刃の先で布が裂けるときの、あの一瞬の抵抗に似た、微かなざらつき。
湊はそれを記録しない。記録する価値がない。価値がないものは、処理から外す。
鉄扉の前まで来た。取っ手は折れ、蝶番は錆で固まっている。ここで待つ必要はない。待つという行動は、未来に余白を与える。余白は、敵の仕事になる。
湊は扉の影に陽を置いた。置く、という言葉が正しい。陽は「隣」ではなく、位置情報になっていた。
海鳴りが一段大きくなった、そのとき。
外から、鉄を踏み潰すような音がした。
次の瞬間、扉が蹴られた。
*
鉄は、蹴れば音を返す。音は未来より正直だ。
貴島は扉を蹴った。鈍い衝撃が足首から膝へ上がる。普通なら痛みが来る。だが痛みは、もう順番を守らない。遅れて来るか、来ないか。来ないほうが助かるはずなのに、来ないことが不安になる。
レインコートの裾が揺れた拍子に、砂が落ちた。青黒い砂。湿り気を帯びていて、床に触れると小さな塊になり、すぐ崩れる。
砂は身体の外側のものではない。内側が、形をやめている。
それでも貴島は歩いた。歩かなければならない。歩く理由は、善悪では説明できない。正当化という言葉ですら生ぬるい。ただ、そうしなければ「終わる」と知っている。
扉の向こうに空間がある。鉄の匂い。海の反響。人の気配が二つ。
未来は、視える。視えるが、いつもより粗い。粒が荒れている。像が崩れて、端が欠ける。
欠けた未来を埋めるには、もう一度見るしかない。
もう一度。もう一度。
その繰り返しが禁忌だと、貴島は知っている。禁忌は宗教ではなく、構造だ。連続予知は、脳の血管を削り、時間を削り、身体を砂にする。
それでも、やる。
娘の顔が浮かぶ。笑ったときに片側だけ少し上がる口元。髪の先が光る昼の公園。名前を呼ぶ声。
幻影は優しくない。幻影は、目的の燃料だ。燃料は燃えるほど減る。減ったぶんだけ、急がなければならない。
貴島はフードの奥で息を吐いた。吐いた息が、砂をまた一粒増やす気がした。
視界の端に、ひび割れた自分の指が映る。指の形をしているだけで、指ではない。
それでも瞳は燃えている。燃えるしかない。燃えないと、すべてが無駄になる。
廃工場の奥に、男がいる。相沢湊。
湊の姿を見た瞬間、貴島の中の何かが硬くなる。敵意ではない。警戒でもない。もっと薄い。もっと嫌なもの。
同類の匂いだ。人を、人として見なくなった者の匂い。
貴島はそれを認めたくない。自分は違う、と言い切りたい。だが言い切れない。言い切れないから、余計に殺意が澄む。濁らない。理由が濁らない。
男の影のそばに、少女がいる。陽。
未来の像が一瞬、鋭く固まった。あの少女が倒れる未来。泣く未来。静かになる未来。
その未来だけは、まだ解像度が高い。
高すぎる解像度は、祈りに似ている。祈りは、手順を短くする。
貴島は扉の向こうへ足を踏み入れた。
床に落ちた砂が、水たまりに溶ける。溶けた砂が、ひどく現実的だった。
そして、燃える瞳だけをまっすぐに向けたまま、結論へ近づく。
*
その言葉は、刃より先に刺さった。
雨に濡れた鉄扉が鳴り、次の瞬間、蹴り破られた。
闇から転げ込むように現れた貴島は、もはや人の形をした限界だった。レインコートの隙間から覗く肌はひび割れ、亀裂の奥から青黒い砂が粒のまま零れ落ちる。床に散り、湿った鉄の匂いと混じって、消えていく。呼吸のたびに血が混じり、吐息が霧になる。
――それでも、瞳だけが燃えていた。時間に喰われているのに、火だけが濃くなる。
「……一ノ瀬陽を殺せば、娘が死なない未来に近づく」
掠れた声だった。けれど言い切る強さだけが、刃の鋭さを持っていた。善悪の議論ではない。貴島の口から出てくるのは、交換の式だった。誰か一人を落として、もう一人を引き上げる。その計算を、父の執念が支えている。
「もう一度……紬を抱きしめられるなら、俺はどうなってもいい……!」
喉が鳴った。名を吐き出した瞬間だけ、声がほんの少し震えた。次の瞬間にはまた、合理の形に戻る。泣き言に見えないように、論理に縫い直していく。
陽は凍りついた。自分が「理由」になって誰かが救われると言われても、理解が追いつかない。ただ、世界が一段冷えたのだけは分かった。自分の命が、誰かの命の代用にされる。その宣言を、目の前の男は愛の名で言っている。
湊は貴島を見た。見るというより、入力を受け取っているだけの目だった。怒りも、嫌悪も、哀しみも、発生しない。熱の方向が違う。湊の中では、感情は最初から演算の邪魔でしかない。
「非効率だ」
声は淡々としていた。
評価項目は、命の重さではなく、工程の無駄だ。
「その身体では長く持たない。連続予知に踏み込めば、崩壊が早まる。目的に対してコストが釣り合っていない」
貴島の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。侮辱ではない。救いでもない。湊の言葉は、相手の信仰に触れずに、ただ数字を並べる。だから余計に腹の奥が焼ける。貴島の熱は、論理の形で燃えているのに、湊の零度は、燃えるための酸素すら与えない。
「黙れ……。お前には分からない。分からなくていい。俺は見た。見てしまったんだ」
貴島は一歩踏み出した。足取りは壊れているのに、意志だけが前へ進む。砂が靴の中で軋み、血が喉で泡立つ。それでも止まらない。止まれば、未来が閉じる。
そして貴島は、禁忌へ踏み込んだ。
瞬きが増える。今と数秒先が重なっては剥がれ、剥がれては重なる。未来を掴みに行くたびに、現在が薄くなる。空気がきしむように歪み、鉄骨の影が妙に長く伸びた。
陽は、湊の背後で無意識に一歩退いた。怖いのは貴島の殺意だけじゃない。――湊がこの叫びを、何も感じないことが怖い。
*
湊の名前を呼ぶだけで、喉が痛かった。
声を出した瞬間に、壊れていくものがあると分かる。だから今まで、陽は言葉を溜めてきた。泣きそうな声も、怒りも、願いも、湊の前では全部ノイズになる。湊の目が、そう教える。
それでも呼ぶしかない。呼ばなければ、もう二度と届かない気がした。
「……湊」
湊は振り向いた。動いたのは首だけだった。瞳は、動かない。そこに陽がいても、いなくても同じ焦点で、同じ距離を見ている。まるで、視線だけが先に壊れてしまったみたいに。
陽は一歩近づき、湊の背に縋ろうとした。触れれば戻る、そんな単純な因果を最後まで信じたかった。指先が湊のコートの布に触れ、そこで止まった。
冷たい。
雨の冷たさではない。人の体温が抜け落ちた、物の冷たさだった。
「ねえ……お願い。昔みたいに、呼ばせて」
陽は、二人だけの言い方で湊を呼んだ。外では使わない、笑いながらしか言えない、温度のある呼び方。合言葉のように、それを口に乗せる。口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。返ってくるはずの反応が、最初から存在しないと知ってしまう痛みだった。
湊は見下ろしてくる。視線は陽を捉えているのに、陽に触れていない。そこにあるのは判断だけだ。守るべき対象か、排除すべき障害か。その二択の間を、ためらいなく往復する装置の目。
「戻って……」
言葉が宙に落ちた。床に落ちたわけでもない。誰にも拾われず、形を失って、消える。陽はそれが怖くて、もう一歩踏み込んだ。今度は湊の頬に触れようとした。触れられたら、湊は「人」に戻るはずだと、最後の最後で縋った。
指が頬の手前で止まる。湊の皮膚は、見た目のまま冷え切っている。触れた瞬間に確信してしまう。戻らない、と。
湊の瞳が、微塵も揺れない。そこにいるのは湊なのに、湊がいない。
陽は泣きそうになった。でも泣けば、それもまたノイズになる。だから泣けない。泣けないまま、喉だけが熱く痛む。湊の名前を、もう一度だけ呼ぼうとして、息が詰まった。
次の瞬間――鉄骨の影から、貴島の刃が飛んだ。
それは「起こる」ではなく、「決まっていた」速度で、一直線に届こうとしていた。
*
影が多い場所では、未来も欠ける。
陽の指が頬から離れた直後、鉄骨の影が「決まった未来」みたいに伸びて、そこから刃が来た。音が遅れて追いかけてくる。金属が空気を裂く音、潮の湿り気を含んだ錆の匂い、遠い海鳴り。全部が遅延して、全部が同じ温度だった。
湊は身体をひねる。急所を、最小でずらす。刃先の線は喉ではなく、肩の外側を撫でて抜けた。皮膚が裂けた感触だけが残り、痛みの警報は鳴らない。痛覚は入力で、いまは沈黙している。だから動作は一定のまま、揺らがない。
貴島がもう一度踏み込む。刺突。速い。廃工場の柱の影から影へ、機械の骨格を縫うように角度を変えてくる。湊は退かない。退くという選択肢は、読める未来を増やす。ここでは逆だ。遮蔽物が多いほど、分岐が減る。見えるはずのものが見えなくなる。
鉄板の山を挟むたびに、貴島の視線がほんの一瞬、遅れる。視界が切られる。未来視の映像が欠ける。欠けた分だけ、貴島の動きが鈍る。湊は、その鈍りだけを拾う。
足音が反響し、遅れて返る。呼吸が鉄に吸われ、吐いたはずの息が自分の耳元へ戻ってくる。陽は背後にいる。気配だけでわかる。言葉は尽きている。湊は振り向かない。振り向く理由はない。守るべき対象は、視界の外側に置けばいい。
貴島の刃が三度、四度と来る。湊は関節の角度を変え、重心を移し、急所の座標をずらし続ける。恐怖はノイズで、いまは発生していない。合理化は、すでに倫理の代わりに動いている。最短。最小コスト。ここで必要なのは、勝つことだけだ。
貴島の眉が、初めて歪んだ。
「……おかしい」
声に熱が混じる。視えるはずの未来が、途切れている。その事実に、貴島は初めて苛立ちを見せた。
*
次の瞬間、貴島の動きが「計算」から外れた。
湊にはわかる。未来視に頼る人間の動きは、滑らかで、無駄がない。最適解の集合だからだ。だが今の貴島は違う。瞳の奥で何かが燃え、燃えたものが身体の先へ漏れ出している。
砂が落ちた。袖口から、あるいは傷口から。乾いた粒が床に散り、音もなく広がる。時間の残骸みたいに。貴島の呼吸が荒くなる。連続予知の禁忌――命を削って未来を並べ替える行為――その負荷が、目の焦点を揺らす。未来視は明滅し、ノイズが混じる。
それでも、貴島は来た。
刃の軌道が、ねじれる。湊が「避ける」と判断した角度ではなく、もっと原始的な線で。合理性ではなく、情念の衝動が軌道を狂わせる。未来予知の計算では拾えない、心拍の跳ね上がりが腕を動かす。
湊の右腕に、鈍い衝撃。肉が押し切られ、温いものが流れる。血だ。だが痛みは来ない。警報が鳴らないから、反射も起きない。湊の身体は「損耗」を受け取るだけで、動作の質を落とさない。端数として処理する。
貴島の顔が、ほんの一瞬だけ明るくなった。
当たった。
その事実が希望になって、希望がさらに熱を生む。熱が、また未来を狂わせる。砂が、さらに零れる。床に落ちた粒が血に濡れて、色を変える。代償が加速していることを、貴島自身の身体が証明している。
湊は一歩、距離を詰める。反撃のためではない。工程を進めるためだ。次の死角へ、次の遮蔽物へ。相手の「視える」領域を削り続ける。
貴島は歯を食いしばり、瞳だけで湊を刺す。そこにあるのは憎しみではなく、何かを取り戻そうとする執念だ。誰かのために、という形をした暴力。
だが湊の顔は動かない。驚きの筋肉が、もう存在しない。
*
貴島の一撃が入った位置を、湊は視線で確かめた。血の量。服地の裂け方。指先の可動域。痛覚は入力されない。だから遅延も発生しない。動作は落ちない。落とす理由がない。
床の水たまりに、天井の穴から落ちた雨が輪を作る。音が反響して戻って来るまでの時間が、ここではやけに正確だった。湊はその反響を「距離」として把握する。視界が欠ける場所。足音が消える場所。貴島の未来視が穴を作る場所。
貴島は、次の未来へ踏み込もうとした。視線が動く。影を避け、遮蔽物の少ないラインへ。未来が視えるなら、視える場所へ寄る。癖だ。能力の癖は、使うほど身体に固定される。
湊は、その癖を押す。
鉄骨の柱を背にして一歩退く。貴島の刃が追って来る。刃先が胸を狙う未来が、貴島には最短だ。湊は胸をずらす。ずらした分だけ、腕が切れる。切れても、腕は動く。警報が鳴らない以上、問題はない。
貴島の呼吸が乱れている。乱れは熱の副産物で、計算を狂わせるノイズだ。湊は貴島の熱量を「誤差源」として扱う。娘のため、という言葉が回路を占有し、未来のフレームを削る。貴島は速い。だが速さは、焦りと同義になり始めている。
湊は、次の工程を選ぶ。
死角へ誘導するのではない。死角を貴島の身体に作る。視界を遮る位置に自分の肩を差し込み、貴島の顔を無理に回させる。首が軋む一瞬、未来は欠ける。その欠けた瞬間だけが、湊にとっては永遠に近い。
湊の手が貴島の手首を掴む。骨の硬さと、筋の張り。砂が混じった皮膚の感触が、ざらつく。人体はまだ人体の形をしているが、時間がその内部からこぼれている。
刃が、湊の脇腹へ入る。深い。だが湊の顔は変わらない。痛みがないからではない。痛みがあったとしても、表情を変えることが最短ではない。湊は刺された部位を「損耗」として記録し、同時に貴島の腕を締める。刃を抜かせない。未来を一本にする。
貴島が瞬間、目を見開いた。熱が、怒りに似た形で噴き上がる。湊はその噴き上がりを待っていた。熱は人間を強くする。だが、強さと一緒に余計な動きも増える。余計な動きは分岐を増やす。分岐が増えれば、未来は飽和する。
湊は柱へ体重を預け、貴島の腕を鉄骨に押し付けた。刃を持つ手の自由度を奪う。逃げ道の数を削る。選択肢を減らす。未来視の価値を下げる。
貴島の瞳が、湊の肩越しに「次」を探す。視えるはずのフレームが、影に切り取られて途切れている。貴島の喉から、声にならない息が漏れた。
湊はそこへ、ためらいなく詰めた。
自分の損耗は、勝利のコストだ。コストは支払うためにある。支払った分だけ工程は前へ進む。湊の刃が、貴島の「次に選ぶ未来」の入口を塞ぐ位置に入る。刺すためではない。逃げるための余白を消すために。
貴島の手が震えた。熱が、軌道を狂わせる。奇跡を呼ぶ熱が、同時に自滅の引き金にもなる。
湊の呼吸は一定だった。海鳴りも一定だった。世界は、ただ処理されていく。
*
未来が、途切れ途切れになった。
見える。見えない。見える。見えない。
映画のフィルムが燃えて穴だらけになったような視界の中で、貴島は必死に「一つ」を探した。娘が助かる未来。娘が泣かない未来。自分が間に合う未来。だが分岐は多すぎた。影。鉄骨。反響。湊の動き。湊の無表情。湊の無音。すべてがノイズとなって、未来の輪郭を削り取っていく。
足元から、砂が零れた。自分の身体の内側にあるはずのものが、床へ落ちる。湿ったコンクリートに黒い粒が広がり、雨水に混ざって流れていく。握りしめたはずの拳が、指の形を保てなくなる。人間の形を保つことが、こんなにも難しいものだったのか。
湊の刃が、逃げ道を塞いでいる。視えた未来の中に、回避がない。回避がない未来は、ただの現在だ。
貴島は笑いそうになった。やっと止められる。止められるのは相手ではない。自分だ。止まれないまま殺し続けて、儀式みたいに「交換」を繰り返して、最後には誰かに受け取らせるしかないと思い込んでいた。押し付けるために殺したのか。止めてもらうために殺したのか。どちらでも同じだ。どちらも父の言い訳だ。
娘の顔が浮かぶ。あの小さな手が、駅前の雑踏で自分の指を握っていた感触。次の瞬間にそれが消える未来を、何度も視てきた。視えるからこそ救えなかった。視えるからこそ、間に合わない回数を数えてしまった。
貴島は虚空へ手を伸ばした。掴むものはない。掴めないことだけが確かだった。砂が指の隙間から落ちる。手のひらが軽くなる。存在が薄くなる。
言葉が喉に引っかかった。
「……やめろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。湊にか。自分にか。あるいは、もういない未来にか。押し付けるな、と続けたかった。止めてくれ、と続けたかった。だが声は、錆びた工場の空気に吸われて形にならない。
湊の瞳は動かない。そこに怒りも憎しみもない。熱が、受け皿を失って宙で燃えている。貴島はそこで初めて理解した。自分は「愛」で戦っていたのではない。「愛の名を借りた執念」で、世界を殴っていただけだった。
身体が崩れる。砂が肩から、胸から、腹から、静かに落ちる。床に広がった黒い粒の上を、雨水が細い川になって走る。貴島は最後まで、手を伸ばしたままだった。娘を抱きしめる形で。何も掴めない形で。
音が戻って来る。
海鳴り。雨。鉄骨の軋み。遠くの車の走行音。
その中で、貴島の呼吸だけが消えた。残ったのは、砂の冷たさと、届かなかった言葉の重さだけだった。
*
貴島が崩れたあと、工場の空気だけが遅れて戻ってきた。鉄骨の隙間を抜ける風が潮の匂いを運び、床の水たまりが小さく震えた。そこに溶けた砂が黒い筋を引き、雨水に押されて薄く広がっていく。湊は息を整えない。整える必要がないからだ。心拍は一定で、視界は澄んでいる。終わった、と判断する。勝利ではなく完了だった。
湊は陽のほうへ向いた。泣き声があるはずなのに音が遠い。耳が悪いわけではない。内部で意味が立ち上がらないだけだ。「終わった。もう来ない」湊はそう言った。慰めではなく報告だった。
陽の肩が小さく跳ねた。湊は一歩近づき、返り血のついた指先で陽の肩に触れようとした。触れる直前、陽の身体が反射で引いた。肩が跳ね、背中が壁を探すように後ろへずれる。触れられたくない、という信号が皮膚から出た。湊は手を止める。止めた理由は優しさではない。反射が出るなら次の行動に支障が出る。支障は工程の遅延になる。
陽は言葉を探している顔をしていた。目の奥に駅前の炎が残っている。叫びと煙と倒れた背中。あれは陽が見た地獄で、湊が作った地獄でもある。その二つが同じ場所に重なった瞬間、陽の胸の中で何かが冷えた。泣くための熱が引き、代わりに氷みたいな現実が差し込む。湊がこちらを見る。それが怖い。助けてくれたはずの目に、救いが入っていない。そこにあるのは測る光だけだった。
「……湊?」陽が呼ぶ。呼んだ名前は、床に落ちたように感じられた。湊は瞬きの回数を変えない。陽はもう一歩下がる。足の裏が勝手に逃げ場を計算する。陽が「違う」と呟く。否定は誰に向けたものか曖昧だったが、曖昧なまま胸の奥で固まっていく。
湊が近づく。退路を塞ぐ位置に自然に回り込む。守るための動きなのに、陽には檻の動きに見える。陽の肩がまた跳ねた。触れられる前に触れられないように身体が拒む。胸の冷たさが広がっていく。勝ったのに、助かったのに、陽は確信する。自分は生き残った。しかし湊との「あいだ」はここで死んだ。
湊はその沈黙を恐怖反応として記録した。陽が逃げる気配を見せた瞬間に内部で鳴ったのは、危険の警報だけだった。危険の警報は、正しく鳴る。だがそれは、陽の心に触れるための音ではない。湊はその違いを判別しなくなっていた。
*
陽が怯えている。湊はそれを正確に観測できる。表情、呼吸、距離、筋肉の緊張。入力は十分だ。にもかかわらず、湊の内部は反応しない。痛みも焦りも後悔も起きない。昔なら胸の奥で熱が暴れ、言葉が詰まり、手が震えたはずだ。今は無音だった。
湊は「怖い」という概念を知っている。だが自分が怖くない。怖くないだけではない。陽が怖がっていることが、湊の行動を変えない。変えるべき理由が、内部で生成されない。陽の怯えは、危険度の上昇として処理されるだけだ。危険度が上がるなら管理が必要になる。管理は配置と保持で可能だ。そこに感情は要らない。
陽がさらに下がる。湊は反射的に距離を埋める位置へ動く。守るため、ミッションのため。その理由で足りる。湊は陽を見ても波立たない。そのことが確定する。残っていた「引っかかり」が、音もなく抜け落ちた。最後の楔が外れた、と理解する。抜け落ちた穴から風が吹いている。冷たい風のはずなのに、寒さは感じない。
懐中時計が掌の中で重い。時間の道具ではなく、支払いの記録みたいだと思う。恐怖、痛み、倫理、そして愛着。順番に捧げてきたものの最後が、いま確かに消えた。湊は陽の肩にもう一度触れようとしてやめる。触れれば跳ねる。跳ねれば転ぶ。転べば危険が増える。危険が増えるのは非効率だ。結論は単純だった。
「帰る」湊はそう言う。命令でも提案でもなく、事実として言う。陽の返事はない。それでも湊は陽の手首を取って歩かせる。痛くない強さで、逃げられない確かさで。海鳴りが遠くで鳴っている。工場の天井から水滴が落ちる音が一定の間隔で続く。そのリズムに合わせるように、湊の内部は静かなままだ。
湊の中で一ノ瀬陽は「愛する人」ではなくなった。保護すべき重要オブジェクト。そう定義した瞬間、世界が少しだけ整って見える。その整い方が、湊自身にとっても不気味だという感覚だけが、遅れて浮かぶ。しかしその不気味さも、行動を止める材料にはならない。湊は歩幅を一定にし、工程を次へ進めた。
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