第3章

 十一月七日の朝は、いつも同じ順番で始まる。窓の白い光、湯気、食器の触れ合う乾いた音。陽の鼻歌。世界は「昨日」を一度も経由せずに、同じ地点へ正確に戻ってくる。

 湊は目を開けた瞬間から、自分の身体を点検した。心拍は安定。呼吸は一定。恐怖反応なし。痛覚は欠落したまま。味覚は――輪郭が薄い。トーストを噛めば温度と硬さは分かるが、甘みや香ばしさは遠い。遠いという表現が正しいのかも曖昧で、ただ「情報量が少ない」と感じるだけだった。

 キッチンに立つ陽の背中を見て、湊はノートを開く。紙の上には、これまでの死が並んでいる。場所、時刻、視線の角度、男〈貴島〉の足運び、刃の軌道。最後に残るのはいつも、同じ結論だ。回避行動は読まれる。守ろうとするほど、未来は一本に束ねられる。

 陽が振り向いて、笑おうとした。けれど笑い切れない。口角が途中で止まり、瞳の水分が溜まる。涙は落ちる前に頬の上で躊躇して、やがて重力に負ける。湊はその挙動を見ながら、無意識に考えていた。塩分濃度。瞬きの頻度。呼吸の乱れ。情動が生存行動を妨げる確率。

 「……湊、今日も行くの?」

 陽の声には震えが混じっている。湊はページをめくり、赤いペンで線を引く。夜の公園までの動線。街灯の位置。遮蔽物。逃走不可点。陽の涙は、その線を滲ませるだけの水だった。

 「行くよ」

 返事は短くていい。余計な言葉は、相手の理解を促すためのものであり、理解はさらに感情を増幅する。増幅された感情は行動を乱し、乱れた行動は貴島に読まれやすい未来を与える。だから最適化する。淡々と。

 陽が近づいて、湊の腕に触れた。指先が震え、体温だけが頼りなく伝わってくる。湊は自分の腕が、以前のように触れ返していないことに気づかない。必要なのは拘束でも拒絶でもなく、管理だ。重要オブジェクトの安定化。

 「泣かないで」

 湊はそう言った。慰めの言葉ではない。警告に近い。泣けば注意力が落ちる。足が止まる。視線が揺れる。貴島はそれを拾う。拾われた未来は、刃として確定する。

 陽は唇を噛んだ。涙を止める努力が、余計に涙腺を刺激する。その現象を、湊は「逆効果」とだけ記録した。倫理という概念が摩耗したのではない。もともとそれは、勝率に寄与しないノイズとして分類されるだけだった。

 ノートの余白に、新しい欄を作る。人の流れ。群衆。遮蔽物としての身体。分岐の飽和。貴島の未来視が処理できない状態――それを作れるかどうかが、次の鍵になる。

 陽の泣き声は小さかった。湊の耳には、冷蔵庫のモーター音と同じ種類の振動として届く。彼女の崩れ方を見ても、胸は動かない。動かないことが異常だと気づく回路も、もう薄い。

 湊はペンを置き、懐中時計の重みを確かめた。冷たい金属は、今日も同じ位置にある。止まった針は、何度巻き戻しても、同じ顔で黙っている。

 守る。その目的だけが残る。方法は、目的に従属する。従属したものは、いつか消耗する。湊はそれを「損耗」とは呼ばず、「調整」と呼んだ。

 陽は、湊の背中を見るのが怖くなっていた。

 前は、同じ部屋にいるだけで安心できた。湊がいる、という事実が、世界の形を保ってくれていた。

 でも今は違う。湊がいることで、世界がどこか別の場所に繋がってしまう。冷たい扉が、音を立てずに開きかけている。その隙間から風が入り、部屋の温度だけを奪っていく。

 その違和感は、朝の時間が進むほど、静かに濃くなっていった。

 湊は優しくしようとしている。陽には分かる。食器を洗う。鍵を確認する。横断歩道では自然に前に出る。危険を避ける動きだけは完璧だ。なのに、その完璧さが怖い。優しさの形をした、作業。

 陽が泣くと、湊は「泣かないで」と言う。昔も言ったことがある言葉なのに、意味が違う。昔は「大丈夫だよ」という手の温度が一緒にあった。今はない。今はただ、泣くことが湊の計画を乱す、という意味でしかない。

 陽は、湊のノートを見てしまった。見ようとして見たわけじゃない。湊が机に置き忘れたページが、少し開いていた。赤い線。矢印。丸で囲まれた文字。数字。知らない単語――「人流」「遮蔽物」「飽和」。そこに、陽の名前があった。「対象」。その隣に「保護」。さらに隣に、小さく「管理」。

 胸の奥が冷えた。涙が出るより早く、身体が反射で後ずさった。湊から離れたい、という本能が先に動いてしまう。でも同時に、陽は分かっていた。離れたら死ぬ。貴島は来る。湊がどれだけ冷たくなっても、湊だけがそれを止められる。

 だから、陽は選ぶしかない。守られる側のままでは、もう無理だ。

 湊を止める。止めなきゃいけない。湊が貴島に勝つために、世界を壊す前に。知らない誰かを「道具」にする前に。たとえ陽が助かったとしても、その先に、湊がいなかったら意味がない。そんなことを考える自分が傲慢なのは分かっている。それでも、湊が「人間」でなくなる瞬間を見過ごせない。

 陽は湊の横顔を見る。整いすぎている。水面みたいに静かで、何も映さない。そこにあるのは、焦りでも怒りでもない。決意、という言葉とも違う。ただ、確定した工程の顔。

 「ねえ、湊」

 呼びかけると、湊は顔だけを向けた。目は動かない。陽の言葉を、受け止めるのではなく、受信する目だ。

 陽は息を吸った。震えを押し込める。泣けばノイズになる。湊がそう判断するなら、泣かずに言うしかない。泣かずに、止める。

 「私、今日は……あなたの言うとおりにはしない」

 言葉にした瞬間、恐怖が背中を駆け上がった。湊に怒鳴られるのが怖いんじゃない。湊が怒鳴らないことが怖い。拒絶されることが怖いんじゃない。拒絶されても胸が動かない湊が怖い。

 それでも、陽は目を逸らさなかった。湊のノートの赤い線が、まだ瞼の裏に残っている。あの線の先には、知らない誰かの叫び声がある。陽はそこに立つ。助けられるためじゃない。助ける側として。

 湊が何か言いかけた。その口の動きが、あまりにも平坦で、陽は少しだけ泣きそうになった。

 でも泣かなかった。

 泣かないまま、陽は決めた。湊を止める。そのために、今日、初めて自分の足で動く。

 〈湊〉

 十四回目の夜の公園で、男〈貴島〉の目が揺れた。ほんの一拍の遅れ。刺突の角度ではなく、判断そのものが止まった時間。それは僕の勝ち筋を示す兆候だった。予知が破れる瞬間は、相手が「見えない」のではなく、「見えているのに選べない」状態になる。

 予知は万能ではない。万能に見えるのは、僕が恐怖で行動を細くしていたからだ。逃げる、隠れる、助けを呼ぶ。その保守的な選択が、未来を一本に束ね、男の視界に『一本道』を渡していた。

 なら、未来を束ねさせなければいい。束ねる前に、枝を増やす。枝を増やして、枝同士を同時に進行させる。予知が数秒先を見られるとしても、同時多発の分岐が一定数を超えれば、処理が追いつかない。人間の脳には帯域がある。どれほど先を覗けても、同じ瞬間に手を伸ばせる選択肢は限られる。

 僕はノートに、短い式を書く。

 予知の価値=「先読み」×「実行可能な分岐の数」。

 分岐が増えれば増えるほど、価値は落ちる。ゼロにはならないが、落とせる。落とせるなら、勝てる。

 公園は分岐が少ない。暗く、遮蔽物が固定で、人の流れが単純だ。だから男の未来は強い。逆に、分岐が最初から過密な場所はどうだ。交差点、駅前、歩行者、車両、信号、店の出入口、視線の交錯。人間が「勝手に」動く場所。意思が衝突し、予定が崩れ、偶然が連鎖する場所。

 僕は「駅前」を思い浮かべた。そこには余計な説明が要らない。誰もが知っている複雑さがある。人は自分の都合で止まり、急ぎ、振り返り、落とし物を拾い、電話に気を取られ、迷子を探し、怒鳴り、謝り、立ち尽くす。分岐は自然発生する。僕がすべきことは、その分岐を『同時刻に』重ねることだ。重ねて、男の先読みを飽和させる。視えている未来を、選別できないほど増やす。

 ここで重要なのは、僕の感情が介入しないことだった。以前の僕なら「そんなことをしたら」と胸が痛んだだろう。けれど今の僕には痛覚がない。味覚も薄い。感情は入力として鈍り、倫理はノイズとして扱われる。残るのは最短距離と最小コストの計算だけだ。

 陽の涙が浮かぶ。胸の奥に引っかかるはずの像が、記録の端に押しやられる。彼女が崩れていくことも、分岐の一つとして数えられるだけだ。危険度、遅延率、失敗要因。泣く確率が上がれば、管理が必要になる。その管理がさらに彼女を傷つける――そんな循環が見えるのに、僕は止まらない。止まらないことが、僕の中で正しさとして機能してしまっている。

 解が見える。そう感じた瞬間だけ、体温が上がった気がした。喜びではない。解像度が上がると、視界が明るくなる。ただそれだけ。僕はペンを走らせ、駅前の地図を描き、いくつかの『同時刻』を丸で囲った。

 男は、同時多発の分岐に弱い。僕はそれを仮説ではなく、手順の前提として採用した。

 〈湊〉

 準備は、感情の領域ではなく、事務の領域で進む。僕がやるのは「悪いこと」ではない。「工程の組み立て」だ。工程に善悪は含まれない。含まれるのは成功率と失敗率、そしてコストだ。

 ノートのページを三つに割る。

 起点。動線。波及。

 言葉は簡潔で、どれも中身を隠している。具体を書けば、僕自身の手が迷う。迷いは時間を増やし、時間は恐怖を呼ぶ。恐怖は保守化を生み、保守化は男に未来を渡す。だから、具体は最小限に留める。ここで僕が必要としているのは、精密な工作ではなく、同時刻の分岐を増やす設計思想だ。

 僕は被害を数で見る。人の数、密度、滞留時間。逃げ道の幅。見通し。音の伝播。誰がどこで立ち止まり、どこで押し合い、どこで転ぶか。読みは統計で済む。個人の顔は必要ない。顔を思い浮かべれば、倫理が入力として割り込む可能性がある。割り込みはバイアスだ。バイアスは勝率を下げる。

 陽がキッチンで何かを作っている。匂いは届くが、味はもう想像できない。彼女が「これ、好きだったよね」と言う未来は容易に予測できる。予測できるのに、僕は返答のテンプレートを用意するだけだ。「ありがとう」「おいしいよ」。意味は不要。必要なのは会話の終了速度。

 動線の設計は、僕の足で確認する。駅前へ向かい、視線を落とさず、看板も見ない。地面の反射と人の流れだけを観測する。分岐の発生点が見える。立ち止まりが生まれる角。押し戻しが起きる狭い箇所。人は善意でも悪意でもなく、単に『流体』として動く。その流体に、同時刻の刺激を複数与えれば、渦ができる。渦は予測を難しくする。

 僕は、最終的な波及を「延焼」という語でまとめた。実際にどう広がるかは、現場の偶然が決める。偶然を支配しようとすれば工程が増え、増えた工程は失敗を増やす。僕は支配しない。条件だけを置く。条件を置くことは、僕の得意分野になっていく。

 机に戻り、ページの隅に小さく数字を書く。

 想定される負傷者数。混乱の持続時間。救助の遅延。男の選別可能分岐数の上限。

 数字が並ぶほど、胸は静かになる。静かであることが、僕の狂戦士化の完成形だと思った。怒りも憎しみもない。あるのは、最短で敵を排除するための最適化だけ。

 他者が嫌悪する芽は、ここにある。誰かを傷つけるつもりだと宣言するのではない。誰かを傷つける計画を、淡々と「作業」に落とし込める視線そのものが、薄く冷たく立ち上がっていく。

 陽が背後で、食器を置く音を立てた。振り向くと、彼女は泣いていなかった。泣けない顔をしていた。泣くより先に壊れてしまう顔。

 僕はその顔を、処理対象として見る。危険度が上がっている。能動性が増している。ここから先、彼女は僕を止めようとする。

 それでも僕は、ペンを止めない。止める理由がない。

 駅前で起きることは必然になる。必然にするために、僕は必要なだけの条件を置く。条件の集合が、やがて炎上という結果を呼ぶ。僕の手の中で、倫理はまだ音を立てない。音を立てないから、僕はそれが擦り減っていることに気づけない。

 湊の手は、誰かを押しのけるための道具みたいだった。指先は迷いを知らなくて、そこがいちばん怖い。部屋の空気はいつもと同じなのに、湊の動きだけが違う。棚を開ける音、鞄のファスナー、紙が擦れる乾いた音――全部が「準備」の音に聞こえた。

 陽は、湊の背中に向かって声を出すタイミングを探していた。いきなり止めたら、湊は振り返らずに続ける。優しく言ったら、届かない。強く言ったら、壊れる。どれも失敗の分岐で、陽の中だけで増殖していく。

 「ねえ……湊。やめて。お願い」

 湊は返事をしなかった。聞こえていないみたいに、ではなく、聞いたうえで処理が終わっているみたいに。陽は一歩前に出て、湊の腕に触れた。触れた瞬間、湊の体温がわからなくなる。あたたかいはずの相手に触れているのに、確かめられない。怖いのは、その「わからなさ」だった。

 「こんなことしてまで助けてもらっても、私は……」

 言葉の途中で喉が詰まった。助けられることが、もう救いじゃない。そう言いたいのに、言ってしまったら本当に終わる気がした。陽の胸の奥で、痛みが鳴り続ける。警報みたいに。止めて、止めて、と。湊には、その警報が聞こえない。あるいは、聞こえていても「ノイズ」に分類されている。

 湊はようやく顔を向けた。目が合ったはずなのに、陽は合っていないと思った。瞳の奥に、陽ではなく別の図面が浮かんでいる。

 「必要な工程だ」

 声は平坦だった。怒っていない。焦っていない。感情が薄い膜で覆われている。陽はそこに、優しさの余地を探してしまう。けれど湊の次の動きは、探すこと自体を無意味にした。

 湊の手が、陽の手首を掴んだ。

 痛くはない。骨が軋むほどでもない。ただ、冷たい。冷えた金属に触れたみたいに、体温を吸われる感覚がある。陽は息を吸い込んだのに、肺に空気が入らなかった。拘束されたのは手首だけなのに、全身が止まる。

 「離れるな」

 「……なんで。こんなの、誰かが――」

 「誤差を増やすな」

 湊の言葉は、陽の存在を数字の端に追いやった。陽の涙は勝手に出てきた。出てきて、頬を伝って、落ちる。その一連の流れさえ、湊にとっては「入力」でしかないみたいだった。泣くまでの時間。呼吸の乱れ。声が震える周波数。

 陽は分かった。湊はもう、「正しい」「悪い」で止まらない。湊の中で動いているのは、ただ最短と最小コストの計算だ。陽のお願いは、計算を乱すノイズでしかない。

 掴まれた手首の冷たさが、しつこく残った。湊の指は優しくないわけじゃない。優しさに似た正確さで、陽の逃げ道を塞ぐ。陽は、その正確さの中に落ちていく。言葉が届かない、という事実の底へ。

 音が、割れた。

 最初は、誰かが落とした金属の音だと思った。駅前の夕刻は、雑音の海だ。改札の警告音、アナウンス、信号、笑い声、子どもの泣き声。入力が多すぎて、一つの異常は埋もれる。埋もれるはずだった。

 次の瞬間、雑音の海の底が抜けた。圧が来る。空気が押される。耳の奥が熱い。目の前の人波が、ひとつの方向にだけ歪んだ。言葉になる前の叫びが、喉の奥で破裂して、空間に飛び散る。

 「火事! 火事だ!」

 「危ない、押さないで!」

 「子ども! 子どもが――!」

 「誰か、救急車――!」

 「こっちじゃない! 逆! 逆だって!」

 声が増える。声が重なる。声がぶつかり合う。湊はそれを、意味としてではなく、方向と距離と密度として受け取っていた。右斜め前、近距離で高音。左奥、低音で長い悲鳴。中央、複数の怒鳴り声。入力が飽和していくのが分かる。分かる、という感覚だけがある。

 煙の匂いがした。焦げた匂いと、化学的な刺激が混ざる。目が勝手に涙を作る。涙は、視界のフィルターを濁らせるだけの邪魔な機能だ、と湊は思った。痛覚が薄れたときと同じで、人体の仕組みが「遅延」を作っている。遅延はコストだ。

 隣で、陽が息を呑む音がした。湊は振り返らなかった。振り返る必要がない。位置は把握している。陽の指が、湊の袖を掴む。掴む力が弱い。力の弱さは恐怖のサインだ。湊はそう分類した。

 「離れるな」

 言った瞬間、陽が一歩前に出ようとするのが分かった。誰かを助けようとする動き。陽の中の倫理が、まだ生きている。その生きているものが、今は危険だ。湊は陽の肩を押して、後ろへ寄せた。抱き寄せるのではなく、配置する。安全圏に置くべき対象の移動。

 「お願い、あの人――」

 「見るな。足を止めるな」

 陽の声は震えていた。声の震えは、湊の中で「ノイズ」として記録される。ノイズが増えれば、判断が鈍る。鈍りは死につながる。死は戻れる。だが戻るたびに削れるものが増える。削れの総量が、どこかで閾値を超える。だから最短。だから最小。湊の中では、その式だけが静かに回っている。

 人波が崩れて、転ぶ音がした。靴が擦れ、荷物が落ち、硬いものが地面に跳ねる。誰かの頭が段差に当たったような鈍い音。続いて、泣き声。泣き声の高さが、他の音を突き破って刺さる。

 「ママ! ママぁ!」

 陽が反射的にそちらへ向きかける。湊は陽の手首を掴んだ。さっきの冷たさと同じ冷たさで。痛くはないが、逃げられない正確さ。

 そのとき、群衆の向こうに貴島が見えた。人混みの中で、不自然に止まっている。周りが押し寄せても、貴島だけが一瞬、硬直している。目が忙しく動く。未来を拾っている目だ。拾うべき未来が、多すぎて詰まっている。

 貴島の肩が揺れた。選択肢が増えすぎて、どの回避が最適か決められない。湊は、貴島の「強さ」が処理能力であることを確信した。処理には容量がある。容量を超えれば、強さはただの遅延に変わる。

 炎の反射が、貴島の瞳に映る。貴島が一歩踏み出そうとして、止まる。踏み出せば別の未来で誰かにぶつかる。避ければ別の未来で出口が塞がる。群衆が未来を押し潰す。

 陽が嗚咽を漏らした。湊は陽を見ない。見なくても、陽が地獄に立っているのは分かる。地獄の音が、地獄の匂いが、地獄の熱が、陽の身体を揺らしている。湊の中には、それを止めるスイッチがない。

 湊はただ、前へ進んだ。工程が進む。盤面が機能している。貴島が立ち往生している。成立。

 背後で、誰かが「助けて」と言った。湊は振り返らなかった。言葉は届いていた。届いたうえで、処理が終わっていた。

 炎は、光ではなく音で広がった。駅前の空気が割れ、悲鳴が遅れて追いつき、喉の奥に煤の味が刺さる。熱の輪郭より先に、人の声が押し寄せてくる。呼ぶ声、怒鳴る声、泣く声。誰かの名前。誰かの「痛い」。誰かの「こっちじゃない」。

 湊の視界は、声の塊を「流れ」として捉えた。恐怖が残っていれば、耳を塞いだだろう。だが今は、入力が増えただけだ。過負荷でもない。むしろ、必要な乱数が揃い始めた、と判断できる。

 右へ行けば駅舎の壁。左へ行けば車道。正面は煙が濃い。人は、出口の形をした方へ吸い寄せられる。全員が同じ方向を向く瞬間に、流れは一つの刃になる。刃が立つ位置を、湊はすでに測っていた。

 彼は走らない。走れば目立つ。目立てば、ノイズが減る。必要なのは「煽り」ではなく「微調整」だった。視線と身体の角度、立つ位置。たったそれだけで、群衆の進路は変わる。誰かが叫ぶ。「こっちだ、こっち!」 誰が言ったかは重要じゃない。声が矢印になる。その矢印を、ほんの少しだけ曲げればいい。

 湊は、弱い速度を見つけた。足の遅い人。抱きかかえられた子ども。杖。荷物。泣きながら靴を探す手。彼らは遅い。遅いものは、流れの底に沈む。沈む場所が、退路になる。

 胸の奥が何か言うはずだった。けれど、そこは静かだった。代わりに、ノートの文字が浮かぶ。最短。最小コスト。誤差許容。――人流=壁。まだ書いていない言葉が、先に意味だけを持っていた。

 煙の向こうに、貴島がいた。あのレインコート。あのフード。刃の光。いつもなら、そこへ至る道筋が確定しているはずの男が、足を止めている。立ち往生。ほんの一拍の空白。その一拍が、未来視の「詰まり」だと湊は理解する。

 貴島の目が動く。誰かの肩がぶつかり、誰かが転び、誰かが踏まれそうになり、悲鳴が増える。分岐が増える。画面が割れる。予知の価値が落ちる。貴島は、視えているはずの選択肢を、選べない。通れない。通れば刃が血ではなく群衆に埋まる。埋まれば目的が達成できない。だから、止まる。

 湊は、その止まりを「成立」として処理した。やることは残っている。貴島が動けないなら、動けないままにしておけばいい。退路を、流れの底へ重ねる。

 湊は一人の老人の腕を掴み、車道側へ押すのではなく、壁側へ導いた。乱暴ではない。力まない。方向を与えるだけ。老人は咳き込み、咳き込みながら流れに押される。次に、ベビーカーを押す母親が同じ角度に引き寄せられる。誰かが「危ない!」と叫び、その叫びがさらに同じ方向へ人を集める。弱いものほど、声に従う。声の方向が、壁になる。

 陽が湊の袖を掴んだ。爪が食い込む。痛覚はない。圧力だけが伝わる。

 「お願い、やめて……」

 声は震えていた。湊は振り向かない。振り向けば入力が増える。増えた入力はバイアスになる。

 「離れるな」

 命令ではない。最適解の提示だ。陽の震えは、誤差だ。誤差は管理すればいい。湊は陽の手をほどき、指を絡める代わりに、手首を固定した。逃げないように。流れに飲まれないように。生存確率を上げるために。

 そして、貴島の目が、初めて焦りの形を取った。未来が見え過ぎて、何も選べない顔。怒りではない。恐怖でもない。処理落ちのような、苛立ち。湊はそれを観測し、記憶に保存する。――仮説、正。情報飽和、成立。

 その瞬間、群衆の足元で小さな靴が片方だけ転がった。誰かが拾おうとして指を伸ばし、伸ばした指が踏まれ、叫ぶ。湊は靴を見ない。見ても、何も起きない。起きないことだけが、起きている。

 勝率の数字が、内側で上がった。胸は何も言わないまま、計算だけが静かに勝った。

 未来が、うるさい。

 見える。見えすぎる。火の手、煙、転ぶ足、泣き声、押し合う肩、割れるガラス。分岐が無数に増殖し、どれも同じ重さで目の前に並ぶ。選べない。選ぶための「余白」がない。数秒先を掴むはずの視界が、砂嵐みたいに崩れていく。

 貴島は息を吸い、吸ったはずの空気が喉を擦った。胸の奥で、何かが崩れている。皮膚の内側から、細かい砂が増えていく感覚。指の節が軋み、関節の隙間から青黒い粒が漏れる。歩くたびに、身体の一部が「残る」。置いていく。戻れない。

 それでも、見る。見なければならない。見えることだけが、彼に残された道具だった。

 娘の顔が、ふいに混じる。炎の揺らぎの中に、まるで広告のポスターみたいに、あり得ない輪郭で浮かぶ。笑っている。いつもの癖で、口角の片方だけが上がる。名前を呼びかけると、声にならない。喉が父を拒む。拒まれているのは娘ではなく、自分の弱さだと分かっている。

 ――一つ、終わらせる。終わらせれば、次が来る。次が来れば、あの子が死なない未来に近づく。

 それは祈りではなく、手順だった。儀式。刃を入れ、血を落とし、結末を固定する。理屈にしてしまえば、震えは小さくなる。父であることは、時々、致命的なノイズになる。だから、儀式にする。儀式にすれば、父は消えて、処理だけが残る。

 だが今、群衆がそれを許さない。未来が多すぎる。押し寄せる声が視界を汚す。湊の姿が、そのノイズの中心にいる。あの男は、未来視そのものを殺そうとしている。自分の「神託」を、物理で折ろうとしている。

 貴島は歯を食いしばり、砂の混じる唾を飲み込んだ。娘の幻影が薄れ、代わりに一瞬だけ、父の感情が顔を出す。怖い。あの子を失うのが怖い。だから、殺す。守るために殺す。守るために壊れる。

 未来の中でただ一つ、確かな形を探す。陽の死へ至る線。儀式の終点へ至る線。そこへ辿り着ければ、たとえ身体が砂になっても――。

 足元で、砂が増えた。自分のものだと分かるのが、いちばん惨めだった。

 炎が駅前の空気を変質させたあとも、世界は平然と時計を刻み続けていた。悲鳴は途切れず、靴底がアスファルトを擦る音だけが増えていく。人の声が、同じ言葉を何度も言い直しているみたいに重なり、塊になって押し寄せた。

 湊はその塊を、声ではなく流量として見た。どこが詰まるか。どこが割れるか。どこで転倒が連鎖し、どこで一瞬、視界が空くか。貴島はその「空く瞬間」を選び続ける。未来視は、空白を食べて生きる。

 だから空白を奪えばいい。

 人の背中が密度を増す場所へ、湊は自分の位置をずらした。陽の手首を掴む力は一定だった。強くも弱くもない。落とさないための保持。人が押し合う中で、陽の体温が一度だけ跳ね、指先が震えた。それは感情として届く前に、入力として処理された。振動。抵抗。視線のブレ。ノイズ。

 貴島の影を見つけたのは、炎の反射が一瞬だけレインコートの皺を照らしたからだった。湊は目で追わず、角度で追った。貴島の進路は最短。ならば最短の先に、最短では通れないものを置く。群衆の背中。倒れた荷物。泣き叫ぶ子供の母親が腕を伸ばした、その腕の軌道。

 貴島は動けなかった。視えているのに、進めない。予知が「正解」を示しても、正解へ届く経路が砂のように崩れている。湊は初めて、貴島の表情に焦りが混じるのを見た。怒りでも恐怖でもない。計算資源の不足。情報飽和の症状。

 湊は追い込んだ。路地の入口は一つ。背後は人の波。正面は壁。貴島は刃を構えたまま、逃げるために刺すしかない姿勢になっていた。湊は急所を外すために動いたのではない。刃の入る位置を選ぶために動いた。

 金属が肉を切る感覚は、もう警報にならなかった。痛覚は沈黙し、血だけが現象として落ちる。湊は貴島の手首を掴み、刃を抜かせない角度に固定した。相手の選択肢を、物理で狭める。未来は読めても、腕は折れる。そういう種類のルール。

 貴島が呻いた。音の質が違った。人間の喉から出る音なのに、どこか乾いている。湊はその理由を、次の瞬間に見た。

 貴島の腕の皮膚に、細い亀裂が走った。血ではない。黒い砂が、息をするみたいに零れた。歩道の埃に混じる砂ではなく、時間が砕けて粒になったような砂だった。貴島の身体は、今に踏みとどまれていない。過去と未来に引っ張られ、現在の骨格だけが空洞になっている。

 湊は殴った。拳の感触は骨に当たり、骨がずれる感覚が返ってきた。貴島の瞳が揺れた。未来が一瞬、空白になった。湊は追撃できる距離まで詰めた。詰められたはずだった。

 それでも終わらなかった。

 貴島は自分の身体の崩れを利用した。砂が床に散る。足元が滑る。湊の靴底が、ほんの一瞬だけ不安定になる。未来視ではなく、現在の重力で作った隙だ。貴島はその隙に、刃の角度を変えた。固定を解くためではない。湊の握力の「次」を奪うための切り替え。湊の中の手順が一つ飛ぶ。

 湊の視線が、路地の入口へ逸れた。逸れた理由は理解していた。陽の声が混じった。名前を呼ぶ声ではない。ただ息を呑む音。危険の兆候。入力が来た。

 その零・二秒の遅延で、貴島は消えた。群衆の波へ戻り、炎の向こうへ溶けていく。追えば追える。しかし陽を置くという選択肢は、まだ完全に最適化されていなかった。残っている人間性ではなく、残っている制約条件として。

 湊は追わなかった。焦りはなかった。勝敗は感情ではなく、工程の進捗として記録された。

 ――飽和は成立。拘束は成立。追撃は未成立。阻害要因:対象Hの介入。

 湊は自分の胸の奥に、何かが引っかかる感覚を探した。怒りも悔しさも見つからない。代わりに、次の改善点だけが浮かび上がる。必要なのは、もう一段の最短化。もう一段の最小コスト。障害となる変数を、変数のままにしておけない。

 路地の床に残った砂が、炎の光を吸って鈍く光っていた。貴島の身体は、今に繋がれない。その事実だけが、冷たい希望として残った。

 湊は陽の手首を引き、混乱から離れた。陽の涙が頬を伝っても、それは拭うべき幸福ではなく、視界を曇らせる液体として認識された。

 次の回で、終わらせる。

 その言葉は誓いではない。予定だ。

 次の朝、陽は鏡の中の自分を見ても「昨日」を探せなかった。駅前の炎も、路地の砂も、喉の奥に残った煙も、全部が夢の後味みたいに薄い。それなのに、湊の指先の冷たさだけがはっきり残っていた。手首の内側に、氷の輪がはまったままみたいに。

 湊はいつも通りに「おはよう」と言った。声は優しい言葉の形をしているのに、温度がついてこない。陽は笑い返そうとして、口角が途中で止まった。湊の目が、陽ではなく、陽の周囲を見ている。人を見ている目じゃない。場所を測っている目だ。

 陽は逃げようと思った。貴島からではない。湊から。

 誰にも言わず、鞄を持って玄関を出た。靴紐を結ぶ手が震え、結び目が一度ほどけた。二度目はほどけないようにきつく結んだ。きつい結び目は痛い。でもその痛みが、まだ自分の身体に残っていることが嬉しかった。

 階段を降りる。風が冷たい。空は晴れている。いつも通りの朝。いつも通りの音。コンビニの自動ドアが鳴る。自転車のベルが鳴る。学生の笑い声が通り過ぎる。世界は「普通」を続けている。

 陽はその普通の中に紛れたかった。誰かの背中の一部になって、湊の視界から消えたかった。

 駅へ向かう道の途中で、ふと足が止まった。理由は分からない。体が勝手に止まる。背中が冷える。振り向く前に、皮膚が先に答えを出していた。あの気配。空気が一段だけ静かになる感じ。雑踏の音が薄くなる感じ。

 角を曲がった先に、レインコートの紺があった。

 陽の喉が固まった。声が出ない。足が動かない。自分の身体が自分のものじゃなくなる。貴島がこちらを見ているのに、目が「今」を見ていない。少し先の空白を見ている。そこへ刃が届くことを、もう知っている目だった。

 陽は後ずさった。逃げたい。叫びたい。でも、どの動きも「選択肢」になってしまう気がした。選択肢は、貴島の栄養だ。

 次の瞬間、手首が掴まれた。

 冷たい。

 湊の手だった。力の入れ方が同じだった。掴むというより、固定。落ちないように。離れないように。陽の身体が、どこかの棚から取り落とされないように戻される物みたいに。

 「離れるな。」

 命令ではなく、結果報告みたいな声だった。陽は振りほどこうとした。初めて湊を拒絶する動き。湊の腕から逃げる動き。でも湊は驚かない。痛がらない。悲しまない。陽の抵抗は、ただの外乱として処理される。

 「それは生存確率を下げる。」

 湊はそう言って、陽を自分の影の中へ引き戻した。陽の視界から貴島が隠れる位置。刃が届かない角度。遮蔽物の利用。戦術の一部。

 助かった。助かったはずなのに、陽の肺は息の仕方を忘れたままだった。怖いのは貴島だ。そう言い聞かせようとして、言葉が途中で折れる。怖いのは湊の手の確かさだ。そこに、優しさの揺れがないことだ。

 湊の背中が前へ進む。陽は引かれる。引かれながら、心だけが取り残される。駅へ向かう普通の道が、檻の通路に変わっていく。

 「湊……」

 呼びかけた声は小さく、湊の耳へ届く前に雑踏に溶けた。届かなかったのではない。届いたとしても、返ってくるのは慰めではない。最適解だけだ。陽はそれを、もう知っていた。

 湊の指が手首から離れないまま、二人は歩いた。陽の涙が頬を伝っても、湊は拭わない。拭う必要がないから。涙は止まるべき現象で、止めるなら薬か休息か環境の調整でいい。そういう種類の世界に、湊はもう移ってしまっている。

 陽は、自分が「守られている」ことを否定できない。その否定できなさが、いちばん残酷だった。

 逃げたのに、戻された。

 そして戻された場所が、もう、どこにも「家」ではなかった。

 朝の匂いは、まだ部屋に残っていた。味噌の湯気、焼けたパンの焦げ、コーヒーの苦み。全部「ある」はずなのに、湊の舌の上では、温度と質量に変換されて落ちるだけだった。

 湊は一口、噛む。二口、飲み込む。舌先で探る。甘い、塩、酸の境界がどこにも立たない。世界から輪郭線だけが剥がれて、白い紙に戻っていく感覚がした。

 陽が、湊の反応を待っている。目が、助けを求める形をしている。湊はそれを見て、表情の筋肉が動くか確認し、動くように動かした。

 「おいしい?」

 質問は、評価ではなく、確認だった。陽の今日の生存を支えるための儀式。湊は最短の返答を選ぶ。

 「問題ない」

 陽の肩が、わずかに落ちた。泣く前の呼吸。喉が詰まる予兆。湊の内側は反応しない。代わりに、どこか冷たい場所で数値が動く。涙はノイズ。会話は遅延。動線の乱れ。

 湊は食卓の端に置いたノートを開く。ページの上には、駅前の地図と、そこに引かれた赤い線。人の流れを示す矢印。退路の重なり。詰まる位置。倒れる位置。書いてある言葉は、いつの間にか人間の名前を失っていた。

 「A:移動速度低。B:泣く。C:介入する」

 湊はペン先を止めて、陽の顔を見る。陽は名前を呼びたそうにしているのに、声が出ない。湊の頭の中では「陽」という固有名が、ラベルとしてしか機能しなくなりつつあった。必要な対象。保護すべきオブジェクト。誤差の発生源。

 懐中時計を取り出す。蓋を開く。文字盤に、昨日はなかったはずの細い傷が増えている。蜘蛛の糸みたいな線が一本、また一本。湊は指でなぞり、摩耗の原因を推定しようとして、意味のなさに気づく。原因は明白だ。回数だ。支払いだ。

 痛みは警報だった。恐怖は制動だった。味覚は生活の錨だった。どれも削れていくのに、動作は鈍らない。むしろ軽くなる。余計な抵抗が消える。

 「湊……お願い。もう、やめよう」

 陽の声が震える。湊は、その震えの周期まで観測してしまう。目の前で崩れていく人間の音が、ただの音として届く。遅れて来るはずの叙情が、来ない。来ないこと自体が、最も不気味だった。

 湊は時計を閉じ、ノートを閉じた。食卓の上に残った料理は、色彩としては美しいのに、意味としては空っぽだった。

 「出る」

 命令ではなく、工程の開始。陽が何か言おうとして、言葉が崩れ落ちる。湊はそれを拾わない。拾う必要がない、と判断したからだ。

 部屋のドアを開けた瞬間、外の空気が冷たい。湊は、冷たさを「快」とも「不快」とも処理しない。ただ、必要な情報として受け取った。

 駅前で成立したのは、飽和だった。未来が多すぎて、貴島の処理が詰まる。群衆の声が重なり、火と煙が分岐を増やし、視界が崩れる。その原理だけは確認できた。問題は、コストが大きい。湊の中でコストとは倫理ではなく、再現性と制御性の欠如だった。

 広すぎる場所は、偶然が混ざる。偶然は勝率を下げる。

 湊は地図を広げ、指で線を引く。未来視の価値は、見通しと選択肢の質で決まる。ならば、こちらは逆を用意すればいい。見通しを切る。選択肢を管理する。分岐を増やすのではなく、分岐の形を同じにして、判断の意味を薄める。

 頭の中で、廊下が立つ。柱が並ぶ。鉄骨の影が重なる。行き止まりと迂回が連続する構造。音が反響し、距離感を歪める場所。そこでは、数秒先の「正解」が揺らぐ。正解が揺らげば、予知はただの推測に落ちる。

 候補をいくつか消していく。倉庫は窓が多い。駐車場は開けすぎている。商業施設は人が多すぎて、また制御不能になる。残ったのは、海沿いの廃工場だった。

 湊は一度、現地に足を運ぶ。陽は黙ってついてくる。怖がっているのに、逃げる判断ができない。湊の手が、いつも同じ位置で手首を支えるからだ。優しさの形ではなく、固定の形。

 錆びた鉄扉の前で立ち止まる。内部は暗く、外の光が細い線で刺さる。床には水たまり。古いコンベア。折れた手すり。柱が視界を切り刻み、影が重なって、同じ景色が何度も現れる。ここなら、未来の絵は似たものになり続ける。

 懐中時計を握ると、重い。重さが「責任」ではなく「機能」に変換されているのが分かる。文字盤の傷が、また一つ増えたように見えた。湊は、増えたかどうかの確認を、もうしない。

 陽が息を吸う。

 「……帰ろう」

 湊は返事をしない。言葉は慰めにならない。慰めは工程を乱す。湊は地図を折り、ノートの最後のページに書き足す。

 「最終盤面:廃工場。遮蔽物多。死角多。分岐制御可。音反響」

 そして、その下に、陽の名前を書きかけて、やめる。名前は感情を呼ぶ。感情はノイズだ。湊は、文字を一つ減らしただけなのに、世界が少し静かになるのを感じた。

 「次で終わる」

 願いではなく、予定。陽が震える。湊はその震えを、危険としてだけ扱う。手首を支え、扉の前に立たせる。海鳴りが、遠くで一定のリズムを刻んでいる。

 錆びた鉄扉の向こうに、影がある。湊はそこを見て、冷たい確信を更新した。これで、貴島の「視える未来」は、欠ける。

 扉が、きしんだ音を立てる。

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