第2章
目が覚めたのに、心臓が騒がなかった。
いつもなら、意識が浮かぶ前に汗が張りつき、息が浅くなり、『また始まる』という圧が胸へ落ちてくる。喉の奥は乾き、胃が縮む。生きているのに、死の手触りが先にまとわりつく。
けれど今朝は、ない。動悸も、焦げつく不安も、皮膚の内側を走る震えも。目覚めはただの目覚めで、身体は機械みたいに平らだった。
湊はゆっくり起き上がり、手のひらを胸に当てた。拍動はある。生きている。だが、速くならない。意識が『十一月七日』に縫い止められているのに、心臓だけが平常運転を続けている。
キッチンから、フライパンの軽い音がした。トースターが鳴る。鼻歌が壁を透けて届く。陽の声だ。
いつもなら、その一音だけで喉の奥が締まって、視界の端に血の色が差す。『守らなきゃ』が反射みたいに湧いて、立ち上がる前に足が震える。
しかし今日は違った。音は音としてしか来ない。鼻歌は空気の振動で、トーストの匂いは匂いとして漂うだけだった。何かを思い出させる針が、全部抜かれている。
湊は洗面所へ向かった。足取りは安定している。廊下の床板の軋みも、自分の体が発生させた結果だと淡々と理解できる。
鏡の前で顔を上げると、そこに湊の顔があった。寝不足のはずなのに、目の周りの重さが薄い。瞳孔の開きも妙に整っている。
「怖くない」
口の中で言葉だけを転がしてみる。本来なら、そんな事実に気づいた瞬間、別種の恐怖が立ち上がるはずだ。自分が壊れていく怖さが。
だが、立ち上がらない。怖いはずだという知識だけが残り、感覚が付いてこない。
背後から陽の足音が近づいた。
「湊、おはよう。今日、早いね」
声がやわらかい。笑いながら近づいてくる気配も、いつも通り。湊は口角を上げた。驚くほど簡単に、笑顔の形が作れた。頬の筋肉が、練習していたみたいに滑らかに動く。「大丈夫」と言うときの角度まで、勝手に決まる。
「おはよう。誕生日、おめでとう」
言葉は適切だった。声の高さも、たぶん自然だ。陽の瞳が一瞬だけ曇った気がしたが、その理由を探るより先に、湊の脳は次の手順へ移っていた。
湊はポケットを探り、懐中時計を握った。いつもは、触れた瞬間の冷たさで死の輪郭がよみがえり、熱を持つ予兆で夜の終わりを悟る。
しかし今、そこにあるのは『重さ』だけだった。熱でも冷たさでもない。真鍮の質量が手の中に沈み、祖父の声が遠い録音みたいに思い出される。
「救う時が来る」
救う。その言葉に胸が痛まない。焦げつく衝動も、祈りもない。代わりに妙に透明な理解だけがある。恐怖がない。だから、逃げろという声もない。
あれだけ繰り返した死が、今の自分を止めない。止めるものがないということは、次に動くとき、躊躇が発生しないということだ。
それは利得だ、と湊は計算した。恐怖が消えたなら、身体が壊れる可能性も、危険な一手も、ただの選択肢として並べられる。
鏡の中の自分を見つめ、まばたきをしてみる。一定の間隔でしか瞬きをしない。湊はそのことに気づいても、眉ひとつ動かさなかった。胸の奥は凍ったまま、音がしなかった。
*
湊の「おはよう」が、知らない人の声に聞こえた。
陽はコーヒーの香りを確かめながら振り向いた。いつもなら、寝癖のついた湊が目をこすって、少し気だるそうに笑う。今日だけは特別に、そういう『普通』が欲しかった。
なのに湊の顔は整いすぎていた。笑っているのに、笑っていない。目の奥が、何かを受け止める前のガラスみたいに平たい。
陽はカップを差し出す手が、わずかに震えているのに気づいた。熱いはずの陶器が、指先だけ冷たく感じる。
「……ねえ、湊。大丈夫? 無理してない?」
言い終わる前に、自分の声が上ずっているのを自覚した。誕生日の朝に恋人へ向ける声じゃない。それなのに、口が勝手に聞いてしまう。
湊は穏やかに笑った。完璧な形の笑顔だった。口角の上がり方も、目尻の角度も、教科書みたいに正しい。だから余計に怖い。
「大丈夫。問題ないよ」
「問題ない」という言い方が、陽の背中に冷たいものを落とした。湊はいつも、そんな言葉を使わない。「大丈夫だよ」と笑って、頭を軽く撫でて、ふざけてごまかす。そういう人だった。
陽は思わず湊の手を握った。確かめたかった。そこに、いつもの体温があるかどうか。
冷たい。血が通っていないわけじゃないのに、指先が冷蔵庫の取っ手みたいだった。陽が力を込めても、握り返されない。抵抗もない。ただ、掴まれているという事実だけを受け取っているみたいに、手がそこにある。
陽の喉がきゅっと縮む。
「今日……もし、しんどいならさ。デート、やめてもいいよ」
言いかけて、陽は言葉の途中で飲み込んだ。やめたらいい。そう言えたらいい。けれど今日は二十歳の誕生日で、湊と過ごすと決めて、楽しみにしてきた。自分から壊すみたいで、怖かった。
湊は陽の顔を見た。いや、見ているようで、見ていない。陽の表情を読む目じゃない。どこが不具合なのか探すみたいな目だった。
陽は背中の奥で、何かが欠けた感覚を覚えた。歯が一本抜けたみたいに、舌が触れても言葉にならない空洞。
「……湊。ほんとに、大丈夫?」
その瞬間、湊の目が『問題』を探す目になった。陽は自分の誕生日が、知らない種類の朝へ変わってしまったことを、はっきり理解した。
*
怖くないと分かった瞬間、世界が計算式に変わった。
十回目の朝。キッチンから聞こえる鼻歌は、相変わらず軽い。トーストの匂いも、湯気も、湊の肺を通っていく。けれど胸の奥――いつもなら先に鳴っていた警報だけが、どこにもない。
湊はテーブルにノートを開いた。ページの端には、九回分の死が、箇条書きみたいに並んでいる。場所、時間、角を曲がったときの光、陽の声、そして男〈貴島〉。
最初は「運が悪い」と思った。二回目で「尾けられている」と疑った。三回目で「知っている」と確信した。けれど、今なら言葉がひとつに収束する。
――読まれていた。
湊が逃げようとした瞬間。助けを呼ぼうと息を吸った瞬間。人混みに紛れようと肩をすぼめた瞬間。貴島の刃は、いつも「その一歩の前」に居た。
目的地が読まれているのではない。ルートが監視されているのでもない。湊の身体が、恐怖に反応して選ぶ「回避行動」そのものが、先に刈り取られていた。
人間は怖いと、保守的になる。安全な方へ寄せる。遠ざける。隠す。頼る。湊の九回は、その全部だった。だから貴島は迷わなかった。湊が守りに入るほど、未来は一本に細くなり、刃はそこへ落ちるだけになる。
湊はペンを走らせ、九回の共通点に丸を付けていく。
逃げる。叫ぶ。守る。離れる。
丸が増えるほど、別の言葉が浮かび上がった。
――保守化。
恐怖はブレーキだ。生き延びるために必要なはずのそれが、この戦いでは逆に「予測可能」という形で命取りになる。湊が慎重になるほど、貴島の数秒先は鮮明になる。湊が「普通の人間」であろうとするほど、貴島はそれを正確に先読みできる。
湊は指先で、胸の鼓動を探した。無い。鼓動はある。けれど、焦りの色が付いていない。心臓が仕事をしているだけだ。
これなら――恐怖という一番大きな変数を、盤面から外せる。
湊はノートの余白に、今まで書かなかった言葉を書いた。
「回避しない」
その五文字は、宣言ではなく手順だった。逃げない。助けを呼ばない。距離を取らない。守りに入らない。貴島の得意な間合いに、自分から入る。読まれても困らない行動を選ぶ。読まれても同じ結果になる行動を選ぶ。
湊は、ページの下に淡々と書き足す。
「公園」
陽の鼻歌が一瞬だけ大きく聞こえて、すぐにただの音に戻った。湊はノートを閉じた。心臓は静かだった。静かすぎることだけが、次の夜の予告みたいにそこに残っていた。
*
足が震えないだけで、道は短くなる。
夜の公園は、相変わらず薄暗い。街灯は点いているのに、光が地面まで届かない場所がある。木の影が、息を潜めた生き物みたいに伸びている。九回目までの湊なら、入口の柵を見た時点で喉が固くなったはずだ。
しかし今、湊の身体は、遅れてくる寒さを「寒い」と認識しているだけだった。恐怖の味付けがない。心拍は上がらない。掌の汗も出ない。
陽が隣で、小さく息を吸った。
「……ほんとに、ここ?」
湊は頷いた。説得の言葉は選ばない。ただ、手を離さない。離すことが危険だと分かっているから。優しさではなく、確保のために。
砂利を踏む音が、二人分から三人分に変わる。
貴島は、いつも通りの場所にいた。紺色のレインコート。深く被ったフード。顔は影に隠れているのに、視線だけがこちらを捉えていると分かる。
刃が抜かれる音がした。湊はその音の「先」を見た。貴島が踏み込む角度。刃の軌道。陽の位置。逃げ道。全部が、ただの情報として並ぶ。
貴島が動く。最短距離で、最短の殺意。
湊は逃げなかった。
避ける代わりに、半歩だけずらした。急所の線だけを外し、刃が通る余白を与える。肩が裂けた。血が温かい。けれど痛みは来ない。湊の顔の筋肉は、そのままだった。
貴島の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
止まったのは足ではない。思考だ。
貴島は次の刃を振る。湊の喉を狙う。湊はまた半歩ずらす。刃が頬をかすめ、皮膚が薄く開く。陽が声を漏らす。その声が、湊には遠い。
貴島が小さく息を吐いた。焦りの匂いが、夜気に混じる。
「……おかしい」
その言葉に、湊は反応しない。会話は分岐を増やす。分岐は貴島に利くと、九回で学んだ。湊はただ、貴島の刃の「次」を見た。次はこう来る。だから、こうする。処理。繰り返し。
貴島は軌道を変え、陽へ視線を走らせる。狙いをずらし、湊の「守り」を誘発させる。今までなら、湊は恐怖と焦りで身体を硬くし、陽を背に隠し、退路を探して――その瞬間に終わっていた。
だが湊は、陽を守るために慌てない。
陽の肩を引き、ただ一歩だけ後ろに置いた。動作は無駄がない。湊の声は平坦だった。
「動かないで」
命令ではなく、最適解の提示。陽は頷くより先に、身体が固まった。湊の言葉は正しい。なのに、正しさの温度がない。
貴島の刃が、もう一度、湊の中心へ落ちる。湊は受け流し、いなすのではなく、当たり方を選ぶ。致命ではない場所。次の動作が潰れない場所。血が落ちる音だけが増えていく。
貴島の呼吸が乱れた。未来が、ズレている。見えているはずの数秒先が、湊の無反応によって崩れる。恐怖で固定されていた一本の未来が、急に枝分かれを始める。
「……なぜ、逃げない」
貴島の声は初めて、刃ではない揺れを含んだ。
湊は答えない。答える理由がない。湊はただ、次の刃が落ちる瞬間を待っていた。待つことが怖くないから、待てる。
陽は湊の横顔を見た。
守ってくれている。生きている。なのに、胸の奥が冷える。
九回目まで、陽が恐れていたのは貴島だった。今、陽の身体が後ずさりそうになるのは――湊の静けさだった。助けの形をして、何かが別のものに変わっていく気配。
湊の指先が、血で濡れたまま動かない。
公園の闇が、いつもより深く見えた。
*
湊は、公園を「場所」ではなく「条件」として見ていた。街灯の位置、木の影の濃さ、砂利の音が跳ねる範囲、陽の立ち位置、貴島が踏み込んだときの最短距離。そこから導かれる刃の軌道まで、全部が線になって頭の中に並ぶ。九回の敗因は単純だった。恐怖が身体を保守化させ、行動が狭まり、未来が一本に細くなる。その一本を、貴島は迷いなく切る。だから湊は、未来を細くされる前提を変えるのではなく、細くされても困らない形に作り直す。
回避できないなら、固定する。逃げる未来を消し、刺される未来をこちらから選ぶ。刺されることを負けにしないために、刺され方を決める。湊は、自分の身体を無機質に切り分けた。即死しない部位、動作が継続できる部位、出血が致命へ直結しにくい部位。腹部、喉、内腿、脇下――危険な候補を無言で弾き、残る選択肢から「やりすぎない」一点を探す。目的は勝利ではない。貴島の予知を潰すためのルール提示であり、そのために必要なのは「刃を抜けなくする」一手だけだ。
湊が選んだのは肩だった。外側、骨が近い。深く入れない角度を作れる。筋肉と骨の構造が、刃にブレーキをかける。腕も脚も残る。陽を動かすための力も残せる。湊は一歩を差し出し、身体の角度をわずかに調整した。避けない。ただ、刺さる場所をこちらが決める。
貴島が踏み込む。刃が来る。冷たい金属が皮膚を割り、肉を裂き、肩に食い込んだ。血の温度だけが現実として増える。だが湊の顔は変わらない。痛みを拒否しているのではなく、痛みを処理しているだけだった。湊は肩を落とし、肘を内へ絞った。骨と肉で刃の根元を噛み、抜けない形に固定する。同時に左手で貴島の手首を掴む。強さではなく角度。逃げ道が消える方向へ、確実に。
貴島が引いた。抜けない。捻った。捻れない。呼吸が乱れる。未来を視ても、成立する動作がなくなる。湊はその「成立しない」という事実を、言葉ではなく物理として突きつける。右拳を振り上げ、顔面の骨へ短く当てた。狙いは気絶ではない。次の一手を遅らせるための時間だ。貴島の頭がわずかに跳ね、視線が揺れる。
湊は、陽へだけ淡々と指示した。「動くな」。命令でも慰めでもない。工程の提示だった。陽の息が詰まり、声にならない震えが喉で止まる。湊の肩から突き出た刃は、まだそこにある。抜かせない。抜けない。未来を一本にしたまま、その一本をこちらの都合で固定した。湊の中に勝ち負けの言葉はない。残るのは記録だけだった――固定、成功。
*
「……湊、お願い。逃げよう」
陽の声は震えていた。血の匂いが鼻の奥に刺さり、街灯の下で湊の肩が赤く濡れているのが見える。痛いはずなのに、湊の表情は何も言わない。陽は言葉を重ねた。「病院に行こう。警察でもいい。どこでもいいから、ここじゃないところへ」叫びになりかけた声を、必死に抑える。怖いのは貴島だけではない。湊の静けさが、別の種類の恐怖として迫ってくる。
湊は陽を見なかった。視線は貴島の手首、刃の角度、足の踏み替え、影の濃さ、距離の変化――戦闘の情報だけを拾い続ける。陽の声は、その情報の列に入らない。陽はそこで理解してしまう。届かないのではなく、最初から『扱われていない』。湊の中で、自分の言葉がノイズとして処理されている。
陽は湊の腕に縋りついた。掴んだはずなのに、温度が返ってこない。握り返されない手は、人の手というより、硬い器具だった。「やめて……湊、やめてよ。こんなの、こんなの……」泣き声が混じり、喉が痛む。湊は小さく息を吐くと、陽の指を一本ずつ外した。乱暴ではない。だからこそ残酷だった。優しさがない。作業として外している。
「離れないで」
湊の声は平坦だった。怒りも焦りもない。命令の形だけが残り、中身が空洞のまま落ちてくる。陽は首を振る。「違う、そうじゃない。離れたいんじゃない。逃げたいの。二人で――」言い終える前に、陽は自分でも驚くほど強く湊の腕を振りほどいた。初めてだった。湊の手から、自分の身体を取り返したのは。
陽は一歩、後ろへ下がる。走れる。逃げられる。だが、その一歩の先に暗い影がある。貴島の気配が、まだ消えていない。心臓が痛いほど鳴る。湊がすぐ追ってくる。速いわけでも、荒いわけでもない。ただ確実に、距離を詰めてくる。
陽の手首が掴まれた。痛くはない。けれど逃げ道が消える。抱擁ではなく拘束だった。陽は声を絞り出した。「湊……私、怖い……。湊が、怖い……」口にした瞬間、何かが決定的に折れる音が、自分の中で確かにした。
湊は眉も動かさず、淡々と言った。「今、それは不利だ」
陽の世界が白くなる。不利。自分の涙が、恐怖が、お願いが。湊の中ではただの誤差で、削るべきノイズに過ぎない。陽は言葉を失った。涙だけが落ちる。湊の手は最後まで離れなかった。助ける手の形をしながら、冷たい檻の強度のままで。
*
公園の外れに、管理用の通路がある。柵と植え込みに挟まれた、逃げにくい細道。湊はそこを「地形」ではなく「固定具」として選んだ。貴島の予知が数秒先を見られるなら、その数秒先に存在できる選択肢を削ればいい。未来が見えても、そこに通路がなければ移動は成立しない。
湊は陽を背中側へ押し、声量を落として指示した。「壁に沿って、動かない」命令の形をしているが、内容は避難経路の指定に過ぎない。陽の返事は聞かない。聞く価値がない、というより、聞くと盤面に余計な揺れが増える。
貴島が追ってくる。いつも通りに最短で、いつも通りに刺しに来る。湊は一度、わざと距離を詰めた。肩に残る痛みは、まだ動作を鈍らせる。だから早く終わらせる必要がある。湊は恐怖を使わない。恐怖は未来を細くして、相手に渡す。代わりに、こちらが未来を細くし、こちらの都合で固定する。
袋小路の端で、湊は半身になった。貴島の刃が来る。湊は身を引かない。刃が入る角度を選び、筋肉で噛ませ、手首を掴む。二度目の固定。貴島の動きが一拍止まる。予知があっても、抜けない現実は避けられない。
湊は殴った。顔面を狙うのではなく、意識の処理速度を落とすための打点を選ぶ。顎、こめかみ、頬骨。貴島の身体が柵に当たり、金属音が夜へ散る。ここで追撃すれば終わる――湊の頭がそう結論づける。終わる、という言葉に倫理は含まれない。排除、という作業だ。
しかし、その瞬間、湊の身体が答えを返した。
肩の奥で、何かが切れた感触がある。固定に使った筋肉が限界を超え、刃を噛むための力が急に抜ける。痛みが遅れて膨らみ、腕が熱い。拳を振ろうとしても、力が伝わらない。湊は理解した。勝利のコストが、いま支払いを要求している。固定は成功する。だが固定に用いる部位が、消耗品になる。
貴島はその一拍を逃さない。抜けかけた刃を無理に引き、湊の肉を裂いて離脱する。湊が追うために足を出したとき、膝がわずかに遅れる。遅れは致命だ。数秒先を読む相手に対して、こちらの遅れは『予定通り』に変換される。
陽が短く叫んだ。「湊!」湊の視界の端で、陽が動きかける。湊は反射的に腕を伸ばし、止める。追撃と保護は同時にできない。湊は迷わないはずだった。だが、身体が迷いを強制する。腕が陽を確保する動作に吸い寄せられ、貴島へ踏み込む角度が潰れる。
貴島の影が、通路の入口へ溶けるように消える。湊はそれを追えない。追えば陽が危険になる。守れば貴島は逃げる。二択が盤面に提示され、湊は最適解を選んだ――ただしそれは「勝利」ではない。
希望は確かに見えた。予知は物理で潰せる。拘束は成立する。殴打は通る。だが同時に限界も見えた。湊の身体が、勝利の装置であると同時に、勝利の代償になる。固定するたびに、湊は壊れていく。壊れた分だけ、次の一手が遅れる。
湊は血の滴る肩を押さえもしないまま、ただ事実として記録した。拘束成功。殴打成功。追撃失敗。原因は相手ではない。自分の身体が、コスト化した。
*
十一回目の朝、湊は目を開けた瞬間に異常を確信した。
いつもなら、寝起きの身体には小さな不快がある。首のこり、指先の冷え、胃の重さ。生理的な雑音が「生きている」ことを保証する。だが今朝は、それがない。軽いのではない。無い。感覚の配線が一本、抜け落ちたように静かだった。
湊は起き上がり、洗面所へ行く。鏡の前で、頬を抓った。皮膚が引っ張られる圧はある。爪が食い込む触覚もある。だが痛みが発生しない。湊はもう一度、力を増やして抓る。赤くなる。それでも痛くない。
湊は理解するのが早い。これは偶然ではない。九回目から続く変化の延長だ。恐怖が消え、倫理が薄れ、次は痛覚が落ちた。感情や痛覚は、システムの入力だ。入力が減れば処理は安定する。安定は戦闘に利く。だが入力が減るという事実は、人間としての保護機構が削られることでもある。
湊は指で、前腕を強く叩いた。鈍い衝撃はある。だが警報が鳴らない。痛みがないのは、自由ではなく、異常だ。痛みは制限であり、制動であり、破損の通知だ。その通知が消えた状態で、身体を道具として酷使すればどうなるか。答えは簡単で、だから恐ろしい。
――壊れるまで、動ける。
湊は冷蔵庫から水を出し、コップへ注ぐ。水の音が規則正しい。陽の鼻歌がまた聞こえる。昨日までなら、その音に『人』の温度を感じたかもしれない。だが今、湊はそれを環境音として処理した。陽が近づいてきて、「大丈夫?」と問う。湊は頷く。大丈夫、という単語は状態報告として便利だ。内容を伴わなくても会話が成立する。
陽が湊の手を見て、眉を寄せた。抓った跡の赤みだろう。陽の心配は、湊にとってデータではあるが、優先度は低い。湊はその視線を避けず、ただ観測した。陽の瞳孔の揺れ。呼吸の浅さ。声のかすれ。昨日の袋小路から、陽の内部で何かが折れ始めている。
湊はノートを開き、簡潔に書いた。
「十一回目:痛覚入力0。動作鈍化なし。固定のコストは、痛みではなく破損へ直結する可能性」
書き終えた瞬間、湊は自分が「怖い」と感じていないことにも気づく。恐怖は警報だ。痛覚と同じ種類の入力だ。その入力が落ちた世界で、湊は冷静に最適化を続ける。最適化は勝ちに近づく。勝ちに近づくほど、戻れない。
湊はペン先を止め、次の行に付け足した。
「代償が加速している」
その文に感情は乗らない。ただ、事実として置かれる。まるで観測結果のように。
*
味噌の匂いは、確かに立っている。湯気が鼻腔の奥を撫で、揮発した成分が空気に混じる。そのことは分かる。だが「おいしい」という反応が、どこにも発火しない。
口に入れた瞬間に来るはずの輪郭が、ない。甘いのか、塩辛いのか、好きだったのか――判断の手掛かりが、薄膜の向こうへ退いている。残るのは温度と粘度と、咀嚼の回数だけだった。
試しに一口、もう一口。舌の上に流れる液体は、ただ温かい。舌の表面がそれを「味」として分類できないまま、喉へ落としていく。細胞の受容体が死んだのか、信号の経路が切れたのか。原因はまだ確定できない。だが現象は記録できる。
代償③。生活系の剥離。戦闘性能は低下しない。むしろ集中は上がる。そういう種類の欠損だ。
陽は向かいの椅子で背筋を伸ばし、箸の先を宙に止めたまま、こちらの顔を見ていた。
「どう? 今日は……ちゃんと味、する?」
問いかけは軽い形をしているのに、声が微かに擦れている。睡眠不足。涙腺の刺激。呼吸は浅い。瞳孔の揺れが、言葉より先に「怖い」を伝えてくる。
「問題ない」
口が勝手に、最適化された返答を選ぶ。嘘ではない。摂取は可能だ。胃の反応も正常範囲。塩分も熱量も、必要量を満たしている。
陽の表情が、僅かに崩れた。崩れた理由は理解できる。理解はできるが、胸が動かない。
箸で豆腐を切る。白い断面が滑り、味噌汁の表面に小さな波が立つ。その波が、昔は「家」だった。今は、ただの流体力学だ。
パンにバターを塗り、噛む。以前なら香りが立って、陽が笑った。いまは繊維が歯に当たり、油分が口内に広がるだけ。砂糖のジャムを舐めても、甘さが来ない。塩を指先に取って舌へ載せても、刺激は鈍い。欠損は広範囲だ。
「……湊、これ、好きだったよね」
過去形にしないでほしかった、と頭のどこかが言いかける。だがその声は、すぐに雑音へ変換される。戦闘の前に、処理すべき変数が増える。陽の情緒は、行動選択を遅らせる。遅れは死亡率を上げる。だから排除する――そんな結論が、息をするみたいに自然に浮かぶ。
陽の料理が意味を失う。意味とは、感情と結びついた価値だ。価値が消えれば、残るのは機能だけ。
それは効率的で、そして――陽にだけ残酷だった。
陽は台所で、いつもより長く煮たのだろう。味噌が鍋肌に焦げつかないよう、木べらで丁寧に混ぜた痕跡がある。そこまでの手間を、以前の自分なら「愛情」と呼んだ。いまの自分は「工数」と呼べる。
呼び方が変わっただけで、世界の色が一段、薄くなる。
陽の視線が皿の上を彷徨う。味の感想を待っているのではない。相沢湊という人間が、まだそこにいるかどうかを確かめている。
食器を重ね、流しへ運ぶ。皿の縁が指に当たっても痛みはない。手元は正確だ。代償の加速度が、日常の側へ侵入しているのが分かる。
テーブルに戻ると、陽は箸を置いたまま、唇を噛んでいた。泣かないようにする顔。泣くより、崩れないようにする顔。
「ごめんね」と彼女が言う。何に対しての謝罪か、分類はできる。だが、返す言葉が見つからない。慰めは工程にない。
ノートを開く。紙の上に、男〈貴島〉の軌道を引く。線の太さを均一にする。ここで揺れたら、また死ぬ。
背後で、椅子が小さく鳴った。陽が立ったのか、座り直したのか。
その音だけが、今の家の中でいちばん人間だった。
*
〈陽〉
玄関の鏡に映った湊は、整いすぎていた。髪の乱れも、シャツの皺も、息の揺れもない。寝不足の朝に残るはずの、どうでもいい乱れがひとつもない。
――たまたま、だよね。そう思おうとした。誕生日だから、気合いを入れただけ。そういうことにしたかった。
昼間、湊はノートに線を引いていた。私が声をかけるたび、ペン先だけが止まる。止まるのに、顔は上がらない。返事は遅れない。丁寧すぎるくらい丁寧で、だから余計に、私のほうが間違っている気がした。
眠いのかな。何か悩み事? 言えないこと? 昨日、喧嘩したわけでもない。昨日までの湊は、ちゃんと笑っていた。ちゃんと、私の顔を見ていた。
それなのに――今、目の前の湊は、手触りが違う。
冷たいガラス、というより、温度のない金属みたいだ。触れたら傷つくんじゃなくて、こちらの熱だけが奪われる。
「行こう」
湊の声は低い。優しい低さじゃない。感情を削ったあとに残る、音だけの低さだった。
私は「待って」と言おうとして、言葉が喉の奥で絡まった。止めたいのに、止め方が分からない。何を止めればいいのかすら、まだ言葉になっていない。
靴を履く湊の手元が、あまりに正確で、怖い。迷わない。迷わない指は、頼もしいはずなのに、今日は違う。迷わないまま、何でもできてしまう気がした。
近づこうとして、身体が勝手に引く。ほんの半歩。私が決めたんじゃない。足が先に退いた。床の冷たさが足裏に刺さって、やっと自分が怖がっていると気づく。
湊の服から、消毒液みたいな匂いがした。昼のうちにどこかを処置したのだろう。痛がった様子なんて、思い当たらない。痛みがないことより、痛みを共有できないことが怖い。
玄関の段差を越えるとき、湊は私の肩の位置を直した。転ばせないための、最短の角度。やさしさというより調整。
ありがたい、と思うべきなのに、鳥肌が立つ。鳥肌の理由が、まだ言葉にならない。
湊が顔を上げる。目が合う。……はずなのに、合っていない気がした。そこに私は写っているのに、届いていない。
「陽。離れないで」
命令じゃない。お願いでもない。事実を読み上げるみたいな声音だった。背筋が硬直する。
「……湊」
名前を呼ぶだけで、胸が痛い。泣きたいのに涙が出ない。私はもう一歩、後ろへ下がってしまう。
湊の眉がわずかに動く。怒りじゃない。困惑でもない。何かがズレた、と検知したみたいに。
湊の手が伸びてくる。その指が触れる前に、私は反射的に肩をすくめた。拒んだつもりはない。体が勝手に拒んだ。
湊は一瞬だけ止まり、それから手首を取った。強くはないのに、外せない。痛くないのに、冷たい。
その冷たさで、頭の中の最後の言い訳が薄くなる。
口の端まで来ていた。「あなた誰?」が、喉の奥で折れ曲がる。言ったら、戻れなくなる。戻れなくなるのは私たちじゃなくて、私の中の『湊』だ。
湊は私の表情を読み取らない。読まないのではなく、読まなくても手順が回るみたいだった。
ドアが閉まる。外気が頬を撫でる。
街灯の下で、私だけが心拍を早めている。湊の背中は一定で、私の恐怖だけが夜に取り残されていた。
歩数も、息継ぎの間隔も、正確すぎて泣きたくなる。隣にいるのに、世界でいちばん遠い。
今日は誕生日だったはずなのに。
*
〈湊〉
十二回目の朝、僕は目を開けた瞬間に「夜の公園」を思い出した。思い出した、というより、すでに配線された手順が起動する感覚だった。恐怖はもう来ない。代わりに、時間が来る。食器の触れ合う音と、陽の鼻歌は、空気を揺らすだけのデータになっていた。
歯を磨きながら、僕はノートを開く。昨夜の失敗点だけを抜き出す。殴打の角度、掴みの深さ、刃が入る位置。痛覚が消えた身体は、壊れやすくなったのではなく、壊れても動く機械に近づいた。痛みがないということは、制限がないということだ。制限がないということは、勝率が上がるということだ。
「湊、今日……」
陽が何かを言いかける。僕は「聞こえた」と判断する。返答に必要な時間だけ、頷く。表情は作れる。声の温度も再現できる。だからこそ、自分が恐ろしく正確になっていくのが分かる。正確さは、優しさよりも簡単だった。
夜。公園へ向かう道は短くなる。足取りが軽いわけではない。余計な迷いが消えた分、距離が縮んだだけだ。陽の歩幅を半歩後ろに固定する。ここで陽が前に出る確率は、直近三回の行動から見て——と、頭が勝手に数える。僕はそれを止めない。止める理由がない。
男〈貴島〉は、いつも通り出てくる。紺のレインコート、フードの影、刃が光るタイミング。違いは、僕が「来た」と理解するまでの遅れがなくなったことと、男のほうにわずかな遅れが混ざりはじめたことだ。予知は完璧でも、それを実行する身体が完璧ではない。そこに初めて、現実が入り込む。
刺突。僕は避けない。急所だけを外す。刃先を受け入れる位置は、最初から決めている。身体が一瞬、内部から軋む。だが痛みはない。代わりに圧力と熱がある。血が出ることも、視界が揺れることも、すべて「起きた」と記録するだけだった。
僕は男の腕を掴み、逃げ道を塞ぐ角度に回す。殴打は二回。二回目で男の呼吸が乱れる。これまでは、乱れなかった。乱れた、という事実が、今夜の収穫だった。
その瞬間、男の手首のあたりに、妙なざらつきが見えた。血でも汗でもない。ひびの隙間から、微細な粒が混じっている。街灯の光を吸う、濡れた砂みたいな色。僕の視界の中で、粒は落ちるというより、ほどけるように剥がれた。
男の目が揺れる。焦り、と呼ぶほどの感情ではない。だが彼の予知が「ズレ」に遭遇しているのは分かった。人間が無意識にやっている微小な誤差、呼吸の乱れ、重心の偏り——そういうものが、今夜の男から溢れている。未来は視えても、未来の身体は持たない。僕はその結論を、胸で感じることなく、ペン先の冷たさで確かめた。
追撃できない。僕の腹の奥で、血圧が落ちているのが分かる。身体が「止まる」までの残り時間が計算できる。僕は男を逃がさないための最短距離を取れない。陽を背に置くという目的が、まだ僕の手順に残っている。残っている、ということ自体が、ノイズなのに。
男は、砂を落としながら離脱した。足を引きずっているのに、正確に死角へ消える。僕は追えない。追うより先に、次の改善点が浮かぶ。殴打の回数は増やせない。増やすなら、最初の拘束角を——。
暗転の直前、陽が僕の袖を掴む。泣いている。涙の温度があるはずなのに、僕の皮膚は何も言わない。陽の声は「助かった」ではなく「怖い」に近い。それが、僕の内部で危険度の高い信号として処理される。意味は、処理の外に置かれた。
十三回目は、さらに短い。準備、移動、遭遇、拘束、殴打、失敗。工程の連結が滑らかになるほど、心の摩擦がなくなる。公園の土の匂いも、風の冷たさも、僕にとっては背景音だ。男の身体のひびは増え、砂は確実に混ざっていく。彼の目だけが、以前より必死に燃えている。その熱が、僕の冷えた内部を照らすことはない。ただ、余命の指標として役に立つ。
戦いは最短化する。僕はそれを進化と呼ばない。圧縮、と呼ぶ。世界が薄くなっていくのを、僕は勝率の上昇として受け取ってしまう。
*
〈湊〉
日が傾きはじめたころ、陽がキッチンで湯を沸かしている間、僕は机にノートを開いた。紙の匂いがする。インクが乾く音がする気がする。どれも錯覚だろう。錯覚だとしても、僕の手は止まらない。止める理由がない。止める、という行為は、いまの僕には「感情の仕事」に見えてしまう。
背後で、ケトルの小さな沸騰音が増減する。陽がカップを取り出し、棚の扉を閉める。生活の音は、平和の証拠のはずなのに、僕の中ではただの環境ノイズになっている。ノイズは嫌いじゃない。むしろ必要だ。男の「正解」を埋める材料になる。
ページの上に、男の動線を書き、僕の動線を書き、遮蔽物の位置を書いた。柱、ベンチ、街灯、樹木。路地の角度。足元の段差。視界の切れ目。次に、そこに「人」が入る余地があることに気づく。気づく、というより、空欄が不自然に見えた。
人は動く。人は遅れる。人は転ぶ。人は叫ぶ。男が先読みしているのは、僕の回避行動だけではない。周囲の揺らぎも、未来の材料にしている。なら、揺らぎを増やせばいい。予知の処理容量に負荷をかける。分岐を過密にする。彼の「正解」を埋める。
僕のペン先が、迷わず欄を増やす。
《人流》
《滞留点》
《転倒ポイント》
《視線の衝突》
文字が整いすぎていることに、自分で軽く驚いた。驚いたのに、驚きは続かない。感情は、起動しない。起動しないまま、次の項目へ移る。
僕は「誰かを利用する」という言葉を書かない。倫理という単語も書かない。代わりに、配置、誘導、遮断。無臭の語彙だけが増える。紙の上で、人間は記号になる。丸と矢印と、時間の目盛りに変換される。
ふと、ページの端に、別の枠が勝手に立ち上がる。公園だけでは分岐が足りない。揺らぎを増やすなら、人が多い場所。人の流れが自然に生まれて、滞留が発生して、衝突が起きる場所。
僕はその候補を、言葉ではなく箱で書いた。
《駅前》
書いた瞬間、胸のどこかがひやりとした気がした。気がしただけだ。内部は平坦なままだ。平坦なまま、最小コストの方向へ針が振れる。
キッチンの音が止む。陽がこちらへ来る気配がする。僕はノートを閉じない。閉じる理由がない。隠すという行為は、相手の心を想像する時に必要になる。僕は今、陽の心を想像していない。ただ、陽の行動が戦闘のパラメータに影響することだけは想像できる。
陽がリビングの入り口に立つ。湯気をまとったカップを二つ持っている。頬が赤い。以前ならその赤さに安心したかもしれない。けれど僕の内部は平坦だ。平坦なまま、陽の足元の位置を確認する。距離は適切。転倒の危険は低い。泣く確率は高い。
「……また、書いてるの?」
陽の声は小さい。怒りや諦めが混じっていることくらいは分かる。分かるのに、それが僕の行動を変えない。行動を変えないということが、僕の中で「正しさ」になりつつある。正しい/悪いではない。最短/最小コスト。言葉にしないまま、基準だけが置き換わる。
陽が一歩近づいて、ノートに視線を落とす。僕は彼女の視線を遮らない。遮る必要がない。見られて困る内容ではない、と僕は判断してしまっている。紙の上にあるのは、ただの最適化の痕跡だ。人を駒にする発想の芽が、芽として見えない。芽を踏み潰す感覚が、僕にはもうない。
陽の肩が小さく揺れた。嗚咽になりそこねた音が、喉の奥で引っかかる。僕はその音を「ノイズ」として分類し、次に来る夜のためにページの端へ追記する。
《対象A:情緒不安定/会話の増加=行動遅延》
書き終えた瞬間、紙の白さだけが残った。人は残酷な行為そのものより、それを残酷だと思えない視線に耐えられない。僕は自分の視線が、もうその側にいることを自覚しない。自覚しないことが、もっとも危険だ。
懐中時計を握る。冷たい。重い。竜頭を回していないのに、時間が進んでいる気がする。僕はその重さを「代償」と呼ばない。ただの重量として受け入れる。重量は、計測できる。計測できるものは管理できる。
陽が僕の手に触れようとして、途中で指を引っ込めた。ほんのわずかな躊躇。以前なら胸が痛んだはずの躊躇。けれど胸は沈黙したままだった。沈黙が、次の支払いを予告する。次に捧げるのは、たぶん倫理だ。宣言ではない。気配として、机の上に落ちている。
陽はカップを置き、何か言いかけてやめた。言葉が形にならないまま、息だけが揺れる。僕はその揺れさえ、秒数に換算してしまいそうになる自分を止めない。止めないことが、いまの僕の推進力だ。
僕はノートを閉じ、ペンを揃え、部屋の灯りを落とした。暗さは余計な情報を消す。消えた分だけ、男の未来に残るノイズが相対的に増える。
陽のすすり泣きが、闇の中で長く尾を引く。尾を引いても、僕の歩幅は変わらない。変わらないことが、すでに勝利の形になっていた。
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