第1章
街灯の明かりが薄い公園で、空気だけが先に冷えた。
陽は、いつもの調子でしゃべり続けていた。誕生日の予定、駅前で見つけたケーキ屋の話、乾杯の練習だとか、くだらなくて、だからこそ救いになるような言葉の連なり。湊は相槌を打ちながら、胸の奥にひっそりと立つ、説明できない違和感だけを確かめていた。
冷えるのは風のせいじゃない。気温が下がる前に、世界の方が先に体温を失う。そんな、あり得ない順番。
公園の入口をくぐった瞬間、音が薄くなった。車の走行音も、遠くの笑い声も、葉擦れも、急に布で包まれたみたいに丸くなる。代わりに、足音だけが浮く。自分たちの二組の足音――と、もうひとつ。
陽は気づかない。湊だけが気づく。気づいたことを、言葉にできない。言葉にした瞬間、何かが確定してしまう気がした。
「ねえ、湊。今日さ、ほんとに普通に――」
「陽」
名前を呼んだ声が、思ったより低かった。陽がきょとんと顔を上げる。その笑顔の端に、街灯の光が小さく跳ねる。湊はその光を、守らなきゃいけない、と頭のどこかで判断した。感情じゃなく、判断。
足音が近づく。一定のリズム。迷いのない速度。視界の端、街灯の陰から、紺色のレインコートが滑り出た。フードが深く、顔は見えない。雨でもないのに濡れているみたいに、布が光を吸っている。
湊の背中に、ぞくりと冷たい線が走る。
同時に、陽がようやく空気の変化に気づいたのか、言葉を切った。
「……誰?」
返事はない。男――貴島は、歩幅を変えずに近づいてくる。湊は陽の前に一歩出て、肩で彼女を後ろへ押した。逃げろ、と言いたい。けれど喉が固まる。
貴島の腕が、ほんの少し動いた。
次の瞬間、金属が擦れる音が、遅れて届いた。――シャ、と薄い音。湊は音を聞いた後に、刃が抜かれたことを理解した。順番が逆だ。見て、聞いて、理解するはずなのに、理解が最後に来る。
湊は護身の形を取ろうとした。相手の手首、刃の根元、距離。頭の中で教科書みたいな手順が並ぶ。右足を引き、体を斜めに――
しかし、その「予備」が終わる前に、貴島がずれていた。大きく動いたわけじゃない。肩が一センチ、足が半歩。たったそれだけで、湊が想定していた角度が消える。湊の手が空を掴む。
もう一度。今度は逆方向に踏み込む。陽を背にして、刃の線を遮る――
貴島は、そこにもいない。まるで湊の次の動きを先に見て、そこから退けているみたいに。いや、退くというより、最初から「そこにいない未来」を選んでいる。
湊は息を吸った。声を出して威嚇しようとした。助けを呼ぼうとした。
その一拍の前に、貴島の視線が動いた。湊ではない。湊の肩の横、数歩先の、何もない空間。
貴島が初めて口を開いた。低く、平坦で、怒りも興奮もない声。まるで結果を読み上げるだけの、報告の声。
「……悪いな。この結末は、もう決まっているんだ」
言葉の意味を、湊が噛み締めるより早く、刃が来た。
避けたはずだった。体は動いた。なのに、刃の軌道は、湊が避ける先へ滑り込んでくる。
熱いものが、胸の奥で弾けた。痛みが遅れて追いつく――はずなのに、まず視界が揺れた。街灯が上へ流れ、空が回る。足元が消えていく。
「……湊?」
陽の声が遠い。指先が何かを探して空を掻く。握るべきものは背中にあるのに、手が届かない。
膝が折れ、地面が近づく。最後に湊が見たのは、貴島のフードの影――そして、その奥の瞳が、自分ではなく、数秒先の「どこか」を見ていることだった。
湊は倒れながら、貴島の視線が自分ではなく、数秒先の「どこか」を見ていると悟った。
*
倒れかけた視界の端で、貴島の視線が自分ではなく、数秒先の「どこか」に合っているのが分かった。
それが何を意味するのか、理解するより先に、胸の内側を抜けた熱が遅れて広がった。息を吸うたびに、肺がひしゃげる。空気が入らない。声が出ない。
陽が、背後で小さく息をのんだ。
「……湊?」
自分の名を呼ぶその声が、やけに遠い。公園の木々の影が濃くなり、街灯の橙が滲む。さっきまで聞こえていた街の喧噪は、薄い膜の向こうで溺れているみたいに鈍くなる。音が消えるんじゃない。届かなくなる。
湊は陽を背に隠したつもりだった。
けれど、貴島は最初から「そこ」に刃を置いていた。回避でも、追跡でもない。結果の場所に、先に道具を置いているだけだ。
湊の膝が折れ、落ち葉の湿った匂いが鼻を刺す。視界が上下に揺れた。
伸ばした指が、空を掴む。掴めない。指先に力が入らない。血が指の腹を濡らし、冷たくなっていくのが分かるのに、痛みだけが妙に遅い。
陽がスマホを握りしめた。画面の光が小さく揺れて、彼女の頬を青白く照らす。
「助け……っ」
声は、言葉になる前に途切れた。
貴島の動きは最小だった。
足を一歩も踏み替えず、肩をほんの少し傾け、刃を「そこ」へ滑らせる。まるで、陽が叫び、電話をかけ、湊が伸ばす指先の届かない場所に崩れる未来まで、すべてが既定の手順であるかのように。
陽の身体が、ふわりと力を失った。
倒れる、というより、糸を切られたみたいに落ちた。
「……ひ、かり……!」
湊は叫んだつもりだった。喉が震えた感覚だけが残って、音にならない。肺が鳴らない。心臓が打つたびに、体の内側から何かが抜けていく。
陽が湊のほうを見た。
恐怖で見開かれた瞳の奥に、まだ「今日」が残っている。誕生日のデートの続きを、当たり前みたいに信じていた目だ。
彼女の唇が、わずかに動く。
血の泡が、そこに混じった。
「……みなと……」
名前だけが、か細く落ちた。
次の言葉は、音にならないまま喉の奥で崩れた。けれど、最後に形になった息が、やっと一つだけ、湊の耳に届いた。
「……生きて……」
その瞬間、湊の世界から色が抜けた。
街灯の橙が灰色になり、落ち葉の赤も、アスファルトの黒も、同じ濁った面に溶けていく。
貴島は倒れた陽を一瞥しただけで、湊へ視線を戻す。そこに勝利の興奮も、罪悪感もない。ただの確認。作業の終了確認。
湊は貴島の目を見返したかった。憎しみでも、恐怖でも、何かを返したかった。
だが、まぶたが重い。
視界の端が暗く染まり、音がさらに薄くなる。心臓の鼓動だけが、遠くで鳴っている。
最後に残ったのは、陽の声の余韻だった。
「生きて」と言った彼女の口元が、二度と動かないという事実だけが、遅れて胸の奥に沈む。
湊は陽へ伸ばした手を、途中で止めた。止まったのではなく、止められた。
指先が震えたまま、闇が落ちてくる。
世界が、欠けた。
*
視界の端から闇がにじんでくる。けれど完全に落ちる前に、湊はポケットの中の冷たさだけをはっきり覚えていた。右の太腿に当たる真鍮の重み。朝からずっとそこにあったはずの異物が、今だけやけに存在感を増している。
陽の声がもう聞こえない。街の喧噪も、風も、葉擦れも、どれも薄い膜の向こうへ押しやられていく。残っているのは自分の鼓動だけだった。胸の内側の熱が抜けていくたび、呼吸がひしゃげ、空気を吸うという単純な動作が難しくなる。
それでも湊は陽へ手を伸ばした。指先は宙で止まり、言うことをきかない。止まったのではなく、命令が身体に届かない。そう理解した瞬間だった。
ポケットの中で、懐中時計が熱を持った。火に触れたような熱ではない。もっと深いところから湧き上がる、骨を通して意識の中心を炙るような熱だった。湊は反射的に手を突っ込み、金属を掴んだ。
触れた瞬間、世界が一度だけ白く跳ねた。音が鳴った。耳ではなく頭蓋の内側で鳴る、乾いた「カチリ」という音。湊は蓋が開いたかどうかを確認する余裕もなく、その『鳴り』だけを感じた。
止まっていたはずの針が、ひと目盛りだけ動いた。しかも、進むのではなく逆方向へ跳ねた。あり得ない。理解が追いつく前に、熱がさらに増す。時計の歯車が掌を通って体内へ入り込み、心臓の鼓動と噛み合っていくような感覚がした。
祖父の声が遅れて蘇る。「これがお前を救う時が来る」。救う。誰を。どうやって。問いが形になる前に、意識がほどける。身体が「湊」という形を保てなくなっていく。皮膚の境界が曖昧になり、骨の位置がずれ、世界と自分の区別が溶ける。
最後に湊は確信した。この熱は、死の直前にしか起きない。トリガーは自分の死だ。その確信ごと、闇がすべてを呑み込んだ。
*
目を開けたとき、背中にあるのは冷たいアスファルトではなく、清潔なシーツの感触だった。柔らかくて、温かい。呼吸ができる。胸が普通に上下する。さっきまで肺を潰していたはずの苦しさがないことに、湊は逆に混乱した。
窓から秋の光が差し込んでいる。十一月七日の、あの穏やかな朝の光だ。さらにキッチンから鼻歌が聞こえた。湊は全身が硬直した。音が鮮やかすぎる。先ほど公園で薄くなっていった世界が、ここでは厚みを取り戻している。フライパンの音、トーストの焦げる匂い、食器の触れ合う小さな音まで、くっきり耳に届く。
湊はベッドから転げ落ちるように起き上がり、リビングへ向かった。足がもつれる。鏡を見る勇気がない。キッチンに立つ背中が見えた。陽だった。傷ひとつなく、普通の朝を作っている。髪を束ね、鼻歌を口ずさみ、トーストを焼いている。
「おはよう、湊。どうしたの? 顔、真っ白だよ」
陽は心配そうに近づいてくる。湊は後ずさりしかけて踏みとどまった。逃げたいのに、目を離せない。さっき確かに、自分の目の前で倒れたはずの彼女が、今は笑っている。そのえくぼが浮かぶのが、残酷だった。
湊は震える手で懐中時計を探した。ベッド脇の椅子に掛けてある服を掴み、ポケットの位置を確かめ、金属の冷たさに触れた。蓋を開くと、針の位置が違う。戻っている。夢ではない、と身体が先に理解した。
湊は周囲を見回した。カレンダーが目に入る。十一月七日。朝。少なくとも一度はここへ戻された。戻り幅は「この朝」に固定されている可能性が高い。仮説でしかないが、今の湊にはそれで十分だった。もし死ぬたびにここへ戻るのなら、この朝は何度でも繰り返される。そしてその繰り返しを知っているのは自分だけだ。
「怖い夢でも見た?」
陽が柔らかく笑う。湊は頷くことも否定することもできない。幸福なはずの朝が、もう同じ温度では味わえない。陽は何も知らず、ただ今日を生きている。その温度差が湊を深い孤独へ突き落とした。
*
十一月七日の朝は、昨日と寸分違わない匂いで始まった。トーストの焦げる香ばしさ、フライパンの油が跳ねる音、鼻歌まじりの陽の声。数時間前に死んだはずの彼女が、何も知らない顔で食卓に皿を並べている。その「当たり前」が、湊には残酷だった。
湊は椅子に座るふりをして、指先でポケットの懐中時計を確かめた。冷たいはずの金属が、微かに熱を帯びている。昨夜の灼けるような熱ではない。けれど、確かに『生きている』感触があった。
「陽。今日、外に出るの、やめよう」
自分の口から出た言葉が、ひどく頼りなく聞こえた。陽はパンをちぎる手を止め、きょとんと湊を見た。
「え。なんで? だって今日、私の誕生日だよ」
「……だから」
続きが出ない。何を言っても破綻する。「夜に公園で刺される」「俺は死ぬ」「それで朝に戻る」――言葉にした瞬間、陽の目に浮かぶのは心配じゃない。困惑だ。怖れだ。こちらを『壊れた人』として見る視線だ。
湊が沈黙したまま拳を握ると、陽は笑って誤魔化さなかった。代わりに、椅子を引いて正面に座り、真剣な顔で言った。
「湊。今日の予定、全部やめてもいい。映画も、レストランも。だけど、理由だけは言って。私、置いていかれたくない」
置いていかれたくない。昨日の夜、置いていったのは――湊の沈黙だった。声も、体温も、すべてが途中で途切れた。湊は喉の奥が詰まり、息を整えることだけで精一杯になる。
「……危ないんだ。今夜」
「誰が?」
答えようとして、湊は止まる。名前を出した瞬間、その名前が現実になる気がした。陽の誕生日が「地獄の数時間」だと確定してしまう気がした。
陽は湊の手を取ろうとして、途中でやめた。触れると崩れそうだと思ったのかもしれない。代わりにスマホを掴んで画面を開き、言い切った。
「じゃあ警察に相談しよう。湊が怖いって言うなら、それはもう『気のせい』じゃない」
通話の呼び出し音が短く鳴り、やがて落ち着いた声が応答する。陽は最初に、言葉を選んだ。「刃物」も「男」も「今夜」も、断定の形では言えない。知らないからだ。知っているのは、湊の声の硬さと、いつもより浅い呼吸だけ。
陽はそれを、事実のままに置いた。
「今夜、外出する予定があるんです。本人が、外で危ない目に遭うかもしれないって言っていて……最近、変な気配が続いてるみたいで」
相手が質問を重ねるたび、陽は「見た」ではなく「感じた」の範囲で答えた。家の近くで足音が止まること。駅前で、視線みたいなものが背中に貼りついた気がしたこと。はっきりした特徴は言えないから、背格好と服の色を、曖昧なまま伝える。
「断言はできないんです。でも、怖がってるのは本当で。念のため、注意してもらえませんか」
電話の向こうの声が、落ち着いた調子で何かを約束する。陽は何度か頷き、礼を言って通話を切った。
湊は横で、言葉を選び続ける陽の背中を見ていた。自分なら、もっと具体的に言える。いつ、どこで、どう刺されるかまで。しかし、その証拠は未来にしかない。
「被害届は出されていますか」
「身元の分かる情報はありますか」
「今の段階では、巡回を増やす程度になります」
丁寧な声は丁寧なまま、最後まで温度が上がらなかった。陽が食い下がっても、返ってくるのは「まずは身の安全を」「不審者を見たら一一〇番を」という、正しいだけの手順だった。
電話を切ったあと、陽は黙ってスマホを伏せた。泣きはしない。ただ唇を噛んで、湊を見た。
「……証拠がないと、動けないんだね」
湊は頷くことしかできない。自分の中にだけある死の証拠。昨日の血の温度。倒れた視界。あれを『提示』できない。説明できない壁が、二人の間に立ち上がる。
「ごめん」
湊が言うと、陽は首を振った。
「謝らないで。……二人で、今夜を壊さない」
その強がりに、湊の胸が一瞬だけ疼く。守りたいのに、守り方が分からない。湊は懐中時計を握り直した。熱はまだ残っている。今日は、何回目の「今日」になるのか。その数え方だけが、現実みたいに確かだった。
*
夜。湊は公園を避けた。昨日の死が染みついた近道を捨て、駅前の繁華街へ回る。看板の光、行き交う人の波、コンビニの自動ドアの音。人が多ければ、多いほどいい。誰かの視線がある場所なら、刃物は振るわれにくい。少なくとも、そう信じたかった。
「ね、今日はさ。遠回りだね」
陽は笑っている。けれど、笑い方が少しだけ硬い。湊の沈黙が長いせいだ。湊は「うん」とだけ答え、陽の歩幅に合わせながら、周囲を数秒先まで『見張る』ように見渡した。
交番の前を通るとき、湊は立ち止まった。昼の電話だけでは足りない。顔を見せて、もう一度伝える。たとえ笑われても、記録だけでも残す。湊が息を整え、声を出そうとした、その瞬間だった。
信号が変わり、人の流れが一拍だけ途切れる。雑踏が膨らむはずの場所に、小さな『空白』が生まれる。そこに、紺色が滲んだ。
深い紺のレインコート。フードを深く被った男が、路地の影から滑るように出てくる。雨は降っていないのに、濡れた気配だけを纏っている。貴島。
湊の背中が凍りつく。違う。偶然じゃない。ここは湊が選んだルートだ。公園を捨てた結果だ。なのに、貴島は最初から『そこにいるべき場所』に立っている。
「……悪いな」
貴島の声は低く掠れて、騒音の上をすり抜けて湊の耳に届いた。
「結末は、もう決まっている」
湊は陽の手首を掴み、引いた。店に入る。人混みに紛れる。交番へ駆け込む。頭の中で選択肢が弾け、同時にその選択肢が一つずつ潰れていく感覚がした。
コンビニへ向かえば、入口の前に貴島がいる未来が見える。交番へ走れば、湊が「助けを呼ぶ姿勢」を取った瞬間に刃が届く未来が見える。タクシーを拾えば、ドアが閉まる前に影が差し込む未来が見える。
見えるのは未来ではない。湊の『選ぶはずの手』だ。選ぶ前から狩られている。
湊は喉が乾く。陽が「湊?」と声を上げた。陽の声に反応したくないのに、反応してしまう。守りたいという衝動が、最短の判断を遅らせる。
「湊、どうしたの。ねえ、どこ行くの」
「……動くな」
湊の声が自分でも驚くほど硬い。陽の瞳が揺れた。命令されることに驚いたのか、湊の声に温度がないことに怯えたのか、分からない。
貴島が一歩進む。最小の動き。最短の角度。湊が避ける『予備動作』を読むように、刃が置かれる場所が先に決まる。湊は身を捻り、陽を背に庇う。
その庇い方さえ、貴島には織り込み済みだった。
湊は理解し始める。貴島は数秒先だけを見ているんじゃない。湊が逃げる、通報する、遠回りする、誰かを頼る――その「選択肢」そのものを、先に潰してくる。未来を読むというより、分岐を刈り取って、結末へ一本道を敷いている。
陽の指が湊の袖を強く掴んだ。
「湊……私、怖い」
その言葉が、湊の中で『守るべき対象の状態変化』として冷たく記録される。湊は自分が今、何を失いかけているのかを考える余裕もなく、次の一手だけを探した。
繁華街の光の中で、貴島は静かに距離を詰めてくる。まるで、湊がどんな手を選んでも、その先に必ず立てると知っているみたいに。
*
助けを呼ぶ、その一秒が最も危険だった。
朝から湊は、陽の予定をなるべく「人の多い場所」に寄せた。駅前、商店街、交番の前を通る道。街の明るさと他人の気配を、鎧にしようとした。
昼過ぎ、湊は人目を避けてスマホを握り直し、もう一度だけ一一〇番にかけた。声が震えないように、息を整える。
「不審者に付きまとわれています。刃物を持っているかもしれません。今から駅前の通りを歩きます」
相手は事務的に聞き返し、結局は「危険を感じたらすぐに知らせてください」という、いつもの文句に戻った。証拠がない。名前も住所も分からない。湊の言葉は、現実の硬い壁に吸われていく。
それでも今日は違う、と湊は自分に言い聞かせた。人混みがある。防犯カメラがある。声さえ出せれば、勝てる。
「ねえ、湊。そんなに急がなくても……」
陽が少し不満そうに言う。誕生日の空気が、湊のせいで固くなっていくのが分かった。だが、柔らかい時間を取り戻すには、まず夜まで生き残らなければならない。
駅前の歩道は混んでいた。買い物袋を下げた人、スーツ姿の会社員、部活帰りの学生。ざわめきが耳を満たし、湊の胸の奥で、ほんの少しだけ安心が形になる。交番の近くまで来た。制服の肩章が視界の端に入る。
――いける。今日は、いける。
湊は陽の手を握り直し、もう一度スマホを掌の中で確かめた。いざとなれば叫ぶ。叫べば人が振り向く。人が振り向けば、あいつは動けない。
その確信が生まれた瞬間だった。背中側の空気が、ひとつだけ冷える。雑踏の音の中に、違うテンポが混ざった。硬い靴音。近づく、というより、最初からそこにいたような距離。
湊は振り向く前に、息を吸った。叫ぶために。助けを呼ぶために。
次の瞬間、喉元に、冷たい線が走った。
声にならない息が漏れ、空気がひゅ、と情けなく鳴る。熱いものが一気にあふれて、口の奥に鉄の味が広がった。湊は自分の両手で首を押さえた。指の隙間から、赤いものが止めどなくこぼれる。
「……湊?」
陽の声が、遠い。誰かが悲鳴を上げた気がした。でも、それが陽なのか、別の誰かなのか、湊には判別がつかない。目の前の人波は、最初の一拍だけ遅れる。現実はいつも、理解に時間を要する。
湊の視界の端で、紺色のレインコートが揺れた。貴島は、こちらを見ていない。湊の目ではなく、湊が叫ぶはずだった「一秒先」を見ていた。湊が息を吸う気配を、最初から知っていたみたいに。
助けは、間に合わない。
湊の膝が折れ、世界が傾く。陽の顔が歪む。口が動いているのに、何も届かない。湊は最後に、喉の奥で小さく言葉を作ろうとした。ごめん、逃げて、近づくな。けれど声帯はもう、音を鳴らす道具ではなかった。
視界が暗くなる。赤い点滅が消え、街の音が薄くなった。
次に目を開けたとき、湊はベッドの上にいた。朝の光と、キッチンから聞こえる陽の鼻歌。湊は反射で喉を撫でた。そこには傷がない。それでも指先が震える。
――叫ぶ瞬間を、狩られた。
湊は息を吸い、声を出して確かめた。出る。ちゃんと出る。なのに、その「出るはずの声」が、もう信じられなかった。湊はノートを開き、震える字で書いた。助けを呼ぶ一秒が危険。戦いは力じゃない。情報だ。
*
未来をずらしても、待ち伏せがずれてくれない。
戻った朝はいつも同じだ。まだ薄暗く、陽の呼吸だけが規則正しい。湊はそこで一度、意識を落としてしまう。次に目を開ける頃には、たいてい陽は台所に立っていた。
湊は陽を起こす時間を、意図的に早めた。いつもの支度より三十分前。予定を前倒しすれば、貴島の出現も前倒しになるのか、それとも「場所」だけが固定されているのか。確かめたかった。
「まだ早いよ……今日、そんな急ぐ用事あった?」
寝ぼけた声の陽が、目をこする。湊は笑顔の形だけを作った。大丈夫、と言う代わりに、早く出よう、と繰り返した。説明する言葉はない。説明したところで、陽の世界では現実にならない。
外へ出ると空気が冷たい。朝の街はまだ固く、コンビニの明かりだけが浮いている。湊は陽の歩幅を合わせながら、何度も振り返った。さっきまでなら「気のせい」で済ませた癖が、もう身体に染みついていた。
違う道を選ぶ。一本裏の路地を抜け、住宅街を回り、わざと信号を多く渡る。陽が「遠回りだよ」と言っても、湊は「こっちの方が好きなんだ」と嘘を重ねた。嘘の回数だけ、喉の奥が乾く。
駅が見えてきた。改札前の広い空間には、出勤の波ができ始めている。アナウンス、電子音、足音。人の流れが線になって、入口へ吸い込まれていく。湊はその「流れ」に身を預ければ安全だと思いたかった。
そして、改札の手前で、足が止まった。
柱の影、ほんの一段だけ暗い場所に、紺色のレインコートが立っていた。雨は降っていないのにフードを深く被り、まるで「ここで会う約束」をしていたみたいに、当然の顔でそこにいる。
貴島は湊を見ていない。湊の背後の、数秒先の配置を見ている。人の流れがどう割れて、陽がどこに押し出されるか。その結果だけを見て、そこへ立っている。
「……知り合い?」
陽が小さく囁く。湊は答えられない。喉が硬直し、息の吸い方さえ分からなくなる。叫ぶ一秒が危険だと、身体が覚えてしまっている。
湊は陽の手首を掴み、反射で引いた。引いて、流れの逆へ逃げようとした。だが貴島は一歩だけ動いた。たった一歩。人の波を乱さない最小の移動で、湊たちの進路の「出口」だけを塞ぐ。
湊は理解する。こいつは追っているんじゃない。待っている。俺がどんな選択をしても、結局ここへ来ることを知っている。時間をずらしても、場所を変えても、「結末へ至る道」そのものを押さえている。
湊が息を吸いかけたとき、貴島の腕が先に動いた。
改札の電子音が鳴る。その音に紛れて、刃が空気を切る音は驚くほど小さかった。湊の喉に、冷たい線。声が、出ない。
周囲の人間は一拍遅れ、次の拍で騒ぎが爆発する。陽の悲鳴。誰かの叫び。走る足音。けれど、湊の視界はもう、暗転へ滑り落ち始めていた。
倒れながら湊は、貴島の視線が自分ではなく、また数秒先の「どこか」を見ているのを見た。
――「こちらの作戦を知っている」じゃ足りない。もっと根本だ。俺の選択そのものが、先に狩られている。
その結論が形になったところで、世界が切れた。
*
〈湊〉
敵が強いのではない。こちらが読まれている。
そう言葉にしてみると、少しだけ呼吸が整った。
十一月七日の朝は、相変わらず同じ匂いをしていた。トーストの焦げる香ばしさと、洗剤の残り香と、陽の鼻歌が混じった、平和の匂いだ。昨日も、昨日の前も、そして「さっき」も、同じだった。違うのは、俺の中だけだ。
喉のあたりを無意識に撫でる。皮膚は滑らかで、傷なんてない。それでも指先には、冷たい線が走った感覚が残っている。声を出そうとして、出せなかった瞬間。助けを呼ぼうと息を吸っただけで、世界が切断された瞬間。
身体は無事でも、記憶だけが痛い。
「湊、コーヒー淹れたよ」
陽が振り向く。えくぼができる。俺はそれを見て、笑い返す練習をする。笑顔は形だ。形だけでも作れば、陽は安心する。安心してくれないと、俺の判断が一つ増える。判断が増えれば、男に渡す手札も増える。
「ありがとう。……うん、いい匂い」
自分の声が、少し他人みたいに聞こえた。陽は気づかないふりをしてくれている。あるいは、本当に気づいていない。彼女にとって今日はただの誕生日で、ただのデートの日だ。
食卓で二、三言、当たり障りのない会話をしてから、俺は「レポート、少しだけ」と言って自室へ戻った。嘘ではない。今の俺にとって、これがいちばん重要な課題だ。
机の上にノートを開く。三回分の死を、時系列に並べる。
一回目。夜の公園。路地裏。街灯が薄い場所。男、初出。俺が陽を背に隠した瞬間に、彼はナイフを抜いていた。俺の動きは全部、最小の動作で潰された。
二回目。通報。人混み。警官の気配。助けがあると思った。俺が声を出そうとした、その一拍の隙で喉を断たれた。
三回目。早出。予定を前倒し。時間をずらせば回避できると思った。改札前で、彼は待っていた。まるで約束でもしていたみたいに。
ペン先が紙を擦る音だけが、部屋に残る。
共通点。
俺の「選択」の直後に、男が最適な位置に現れる。
そしてもう一つ。俺が「助け」を呼ぶ瞬間、あるいは呼べる可能性が生まれた瞬間を、必ず狩ってくる。
ここまで来て、ただの勘では済まされない。
男は俺の頭の中を読んでいるのか。――違う。もし心が読めるなら、二回目の通報なんてする前に詰んでいたはずだ。俺がスマホを掴む前に、俺は刺されている。
それでも、あいつは「結果」だけを正確に奪ってくる。
数秒先。
俺はページの端に、小さく「射程=数秒?」と書いた。
男が見ているのは、遠い未来じゃない。十秒も先なら、俺が走ったり、押し倒したり、叫んだり、変数はいくらでも増える。だがあいつの動きは、短い。無駄がない。最短の刃だけで、世界を確定させる。
つまり――数秒先の映像を見て、その通りになるように自分の身体を置いている。
もし予知だとしたら、次が見えてくる。
予知は「回避」に依存する。
俺が怖がって避ければ避けるほど、次の一手は単純になる。守りの動きは読みやすい。逃げる方向も、陽を庇う角度も、声を出すタイミングも。保守的な行動ほど、未来は細くなる。細い未来は、狩りやすい。
逆に言えば、未来の映像があっても、その映像の通りに身体が動けない状況なら、予知はただの知識になる。知っているのに防げない。
その「知っているのに」が、さっきまでの俺だった。叫べば喉を断たれると分かっていても、叫びたくなる。助けを呼びたくなる。陽を失いたくないから。
喉の奥が、ひゅっと鳴った。息が浅くなる。
怖い。そう思った瞬間、自分で自分を叱る。今は、怖がっている場合じゃない。怖さは、未来を細くする。
ノートの端に、もう一つだけ短い文を書く。
「男=未来を数秒見る。俺の選択を狩る」
陽に悟られないように、普段通りに振る舞う必要がある。だが、普段通りに振る舞えば、普段通りの未来が太くなる。矛盾だ。
俺はペンを置き、椅子の背にもたれた。天井を見上げると、朝の光がぼんやりと白い。こんな平和な部屋の中で、俺だけが戦場の地図を広げている。
ドアの向こうから、陽の足音が近づいてくる気配がした。俺は慌ててノートを閉じる。閉じた表紙に手のひらを置くと、紙の熱が移る。
この熱は、生きている熱だ。死の冷たさじゃない。
「湊、準備できた?」
「うん。今行く」
俺は立ち上がり、鏡の前で自分の表情を確かめた。笑っている。――笑えているように見える。
それでいい。今はそれでいい。
ドアノブに手をかけた瞬間、もう一度だけ心の中で結論を更新する。
次は、あえて「いつもと違うこと」をする。
未来を細くするのは、怖さだ。なら、未来を乱すのは――俺の側の不規則だ。
*
〈陽〉
湊は笑っていた。――でも、少しだけ遅れて届く。
それが最初の違和感だった。
誕生日の朝は、いつもより空気が軽いはずなのに、湊はどこか硬い。優しいのに、触れると冷たいガラスみたいで、こちらが指先を引っ込めたくなる。
コーヒーを渡したときも、ちゃんと「ありがとう」と言ってくれた。けれど、その声が、どこか遠い。眠いのかな、と最初は思った。昨日、何かあったのかもしれない。大学のこととか、バイトのこととか。
「今日、どこから回る?」
私がいつものテンションで聞くと、湊は一瞬だけ、言葉の候補を空中で並べた。ほんの一瞬。でも、誕生日の私はその「ほんの一瞬」に敏感になってしまう。
「人が多いところ、行こう。明るいところ」
「え、映画の前に公園寄らない? この前言ってた、ショートカットの」
言いながら、湊の目を見る。
目が違う。
いつもは、私の言葉にすぐ反応して、笑ったり、困ったり、照れたりするのに。今日は、目の奥が動かない。まるで、私の言葉を「処理」しているみたいだった。
「やめとこう。遠回りでいい」
湊はそれ以上説明しない。しないのに、私の手を取る力だけが強い。痛いほどじゃない。でも、逃がさないみたいに、しっかり。
私の胸の奥で、小さな針が立つ。怖い、というほどじゃない。ただ、知らない湊が混じっている気がした。
「……何か、あった?」
聞きたい。ちゃんと聞いて、ちゃんと笑って、いつも通りの誕生日に戻したい。
でも、誕生日の日に喧嘩みたいになるのは嫌だった。私が望んでいるのは、派手なサプライズじゃない。大きな夢じゃない。こうして手を繋いで、映画を観て、初めてお酒で乾杯して、「普通」を一緒に喜べること。それだけだ。
「何でもないよ」
湊は笑う。口元だけが上がる。私は、頷くしかなくなる。
何かを隠している。そう思った。けれど同時に、隠したい理由もあるのだろう、とも思った。湊は嘘が上手なタイプじゃない。だから余計に、隠していることが見える。
外に出て、街へ向かう。湊は交差点のたびに、視線を少し後ろへ流す。誰かを探しているような、確認しているような。
私は笑って話題を繋いだ。今日を壊したくなかった。
「湊、大丈夫だよ」
私がそう言った瞬間、湊の指が、ほんの少しだけ震えた。
風のせいかもしれない。気のせいかもしれない。
でもその震えは、なぜか胸の奥に残った。小さな不安が、ゆっくりと形を持ち始めるみたいに。
*
目が覚めた瞬間、湊はまず喉に手を当てた。皮膚は滑らかで、傷はない。それでも指先に、冷たい刃が走った感覚だけが残っている。息を吸った瞬間に声が消えたこと、血の味が口いっぱいに広がったこと、それらは「終わった」出来事なのに、記憶だけが身体の中で遅れて生き続けていた。
キッチンからトーストの焼ける音と、陽の鼻歌が聞こえる。十一月七日の朝。窓から差し込む光の角度まで、さっきまでの世界と同じだ。湊はスマホで日付を確かめ、次にカレンダーを見た。やはり十一月七日。戻り幅は、どうやらこの朝に固定されている。
机に向かい、ノートを開く。書かなければ、思考が恐怖に飲まれる。湊はページの端に小さく数字を書いた。四度目。数えるのは怖い。けれど数えないと、何回目の自分が今ここにいるのか分からなくなる。
懐中時計を取り出す。真鍮の蓋は冷たい。壊れていたはずの針が、わずかに位置を変えているように見えた。確信はない。だが、あの異様な熱と「カチリ」という内側の音は、偶然ではない。湊は短く結論を書きつける。
――発動の条件:湊の死。
――戻る時刻:十一月七日・朝(固定の可能性が高い)。
ペン先が止まる。次の行に書くべきことは分かっていた。「陽だけが死んだ場合」だ。けれど、確かめるには彼女を見殺しにする必要がある。湊はその可能性を想像しただけで胃が沈み、行の頭に小さく「未確認」とだけ書いて、そこで止めた。
代償の兆候も、少しずつ見えてきている。寝たはずなのに、睡眠を取った感覚が薄い。目の奥が乾き、朝の光がやけに刺さる。心拍は落ち着いているのに、身体の底に疲労が溜まって抜けない。肉体は戻っても、内側の「消耗」だけは積み上がっていく。湊はそれを、怖いと思う前にデータとしてノートに落とした。
――戻るたび、何かが削れる。
――兆候:睡眠の質低下/疲労の持ち越し(仮)。
背後で足音がして、陽がリビングから顔を覗かせた。「湊、準備できた?」という声は、昨日も聞いたはずの声だ。湊は反射的に笑おうとして、頬が引きつるのを感じた。自分だけが同じ日を複数回生きている。その温度差が、陽の笑顔の隣に立つたび胸の奥に刺さる。
それでも湊は、ノートを閉じた。怖さは消えない。だが、怖さのままでは未来が細くなる。湊は深く息を吸い、最後に二つだけ、太い字で書いた。
――守る。
――間に合わせる。
ページを閉じたとき、湊の中で何かが一段だけ固まった。説明できない壁があるなら、行動で越えるしかない。湊はドアノブを握り、陽のいる世界へ戻った。
*
四回目。湊は公園を避け、繁華街の明るい通りを選んだ。人が多ければ刃物は振るえない。そう信じた瞬間、路地の影から紺色のレインコートが滑るように出てきた。貴島は湊を見ない。湊の背後、数秒先の「湊が動く場所」を見ている。その視線に気づいた瞬間、喉の奥が冷え、世界が切れた。
五回目。店に逃げ込んだ。ガラス越しに外を確認し、陽を奥へ座らせ、出口から一番遠い席を選ぶ。安全だと口にしようとした一拍で、出入口のベルが鳴った。湊が振り向くより早く、貴島の刃が「湊が息を吸う場所」へ置かれる。叫びは音にならず、陽の名も喉の奥で潰れた。
六回目。今回はタクシーを使った。目的地を変え続け、降りる場所もその都度変えた。なのに、降りた瞬間にそこにいる。貴島は追っているのではなく、待っている。湊がどの選択肢を取っても、結局ここへ来ると知っているように。湊が陽を庇う角度すら、先回りされていた。
七回目。交番の灯りを目指した。人混みの中で一一〇番に繋げば、今度こそ間に合う。湊がスマホを口元へ近づけた一瞬、喉が断たれる。助けを呼ぶ「その瞬間」だけが、狙い撃ちされる。周囲が騒ぎ出すまでの一拍の遅れが、何度繰り返しても埋まらない。
八回目。湊は警戒しすぎて、陽を泣かせた。
「湊、怖いよ。何が起きてるの?」
その言葉に反応した一瞬、湊の視線が陽へ寄る。貴島はその「寄り」を待っていたみたいに現れ、最小の動きで結末を確定させる。湊が陽の前へ出た時点で、すでに詰んでいる。
暗転。熱。朝。鼻歌。トースト。
同じ朝が積み重なっていくたび、湊の反応だけが少しずつ薄くなる。吐き気は遅れ、震えは短くなり、代わりにノートへ書く速度が上がる。恐怖は消えない。だが恐怖の上に「次の手順」が整列していく。
そして湊は、何度目かの朝に気づく。生きていることが、喜びではなく「また始まる」という重さに変わっていることに。
*
九回目の朝は、音から始まった。キッチンで皿が触れ合う軽い音。トーストが焼ける乾いた気配。湯気と一緒に、陽の鼻歌が部屋へ流れ込んでくる。昨日も同じ、今日も同じ――そう思った瞬間、湊の胸の奥に、薄い鉛の板みたいな重さが落ちた。
起き上がることが面倒だった。死んだ記憶が痛いのではない。むしろ痛みは、記憶の隅で勝手に再生されているだけで、湊の身体はまだ生きている。生きているのに、最初からもう疲れていた。「また、ここからやり直す」という事実だけが、喉に引っかかった微かな魚の骨みたいに消えない。
「湊、おはよう」
陽が振り返って笑う。左頬のえくぼが浮かぶ。湊はその形を知っている。好きだったことも覚えている。なのに、その笑顔が湧かせるはずの熱が、湊の内側ではうまく立ち上がらない。代わりに、笑顔の上に重なる。昨日の夜、街灯の下で崩れた陽の身体。叫び。血の匂い。何度も見た終わりが、今日の始まりに薄く貼りついている。
湊は椅子に座り、呼吸を整えるふりをした。陽が差し出したコーヒーの湯気が、揺れる。湊はそれを眺めながら、頭の中で手順を並べ替える。どこを避けても現れる紺のレインコート。数秒先に置かれる刃。助けを呼ぶ瞬間だけを狙う、間の悪さでは説明できない正確さ。
ポケットに指を入れる。懐中時計がそこにあった。触れた瞬間、湊は小さく息を止める。冷たいはずの金属が、微かに温い。昨夜、死に落ちる直前に感じた灼ける熱ほどではない。けれど、確かに『馴染んでいる』温度だった。
その事実が気味悪かった。熱は異常のはずなのに、九回目ともなると「いつものこと」になりかけている。恐怖が薄れるより先に、異常が日常へ溶け込んでいく。湊は時計の蓋を開ける。止まった針は、少しだけ位置を変えている。戻る幅は、もう固定みたいに思えた。十一月七日の朝。何度死んでも、ここに戻る。
湊は笑ってみせた。陽に悟られないように、口角だけを持ち上げる。陽は少し安心した顔をする。その安心が、湊には残酷だった。陽にとっては『今日』がまだ白紙で、湊にとっては『今日』が九回目の繰り返しで、そして終点が決まっている。
朝が幸福ではなく、起点になった。起点は、喜びを必要としない。必要なのは、夜までの時間と、手数と、陽を生かすための最小の誤差だけだ。湊はコーヒーを一口飲み、味のことは考えないようにした。考えたら、泣きたくなる気がしたからだ。泣く権利がまだ自分にあるのか、その判断すら、もう面倒だった。
*
夜の空気は、昼よりも軽いはずなのに、肺の奥に沈んだ。街灯の下を歩くたび、視界の端がわずかに滲む。音が薄くなる。遠くの車の走行音が、膜の向こうへ押しやられていく。九回目の湊は、その前兆を『異変』としてではなく、『予定』として受け取っていた。
逃げる気にならなかった。逃げても意味がない。助けを求めても間に合わない。ルートを変えれば、別の角で同じ結末に出会う。湊の中で、九回分の失敗が一つの結論に固まりつつあった。これは運じゃない。相手は偶然に当たっているのではなく、こちらの選択そのものを狩っている。
湊は自分から公園へ入った。陽はいない。九回目の夜だけは、湊は陽を巻き込まないと決めた。決めたというより、巻き込む余裕がなかった。陽がそばにいれば、どうしても庇う未来を選んでしまう。庇う未来は、貴島にとって最も読みやすい。
暗がりの奥で、足音がひとつ増える。紺色のレインコート。深く被ったフード。雨が降っていないのに、濡れた気配だけを連れてくる男が、いつも通りの距離で立っていた。
湊は走らない。貴島も走らない。必要がないからだ。貴島は湊の肩越しではなく、湊の数秒先を見るような目をしている。湊はその視線が、自分の「今」ではなく「次」に焦点を合わせていることを、もう理解していた。
「……また来たのか」
湊の声は自分のものではないみたいに平坦だった。貴島は答えない。ただ刃を抜く。その音だけが、やけに鮮明に響いた。
湊は一歩、前に出る。避けるのではなく、近づく。貴島の刃が狙う線から外れるための動きではない。貴島の『置いた未来』に、こちらから踏み込む動きだ。貴島の目が僅かに細くなる。理解が追いついたときの表情だった。
刃が入る。熱が走る。普通なら身体が逃げを選ぶ。だが湊の足は止まらない。止まる理由がない。痛みで崩れるには、湊はもう九回分、崩れてきた。崩れ方の手順が、身体に先に刻まれている。
貴島が距離を取ろうとした。湊は追わない。追えば読まれる。ここで何をしても読まれる。湊は理解して、初めて自分の中のどこかが折れる音を聞いた気がした。怒りでも悲しみでもない。ただ、張り詰めていた糸が切れて、音が消える感覚。
貴島が湊を見た。初めて『確認』するように。数秒先ではなく、いま目の前に立つ人間を。
「……ようやく、こちら側の顔になったな」
言葉は静かだったのに、湊の背骨に冷たいものが落ちた。こちら側。貴島はずっと知っていたのだ。湊が繰り返していることを。いや、知っているだけではない。同じ臭いを嗅いでいる。乾いた倦怠。終わりの見えない作業を繰り返す者だけが持つ、目の濁り。
湊は返せない。言葉が浮かばない。浮かんでも、意味にする力がない。次の瞬間、視界が上下に揺れた。膝が落ちる。地面が近づく。いつもの暗転が、予定通りに降りてくる。
倒れながら、湊はポケットの中の懐中時計を握りしめた。熱がある。灼けるほどではない。けれど確実に、九回目の湊の掌に馴染む温度でそこにあった。
このまま戻る。また十一月七日の朝へ。陽の鼻歌が、何も知らないまま部屋に流れている場所へ。湊の意識は沈みながら、ひとつだけ確信する。
次の朝、自分はもう『怖がれない』かもしれない。
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