第9話:九つどころか、すべてが不満

第9話:九つどころか、すべてが不満


「ガチャン! ドサッ!」


ついに玄関の鍵が、バールのようなもので無理やりこじ開けられた。 金属が悲鳴を上げ、蝶番がひしゃげる。なだれ込んできたのは、乱れた髪を振り乱し、眼球に血走った怒りを溜めた美咲だった。


「お母さん! いい加減にしてよ! ネットが、あのアカウントが大変なことになってるのよ! 今すぐ釈明しなさい!」


美咲の声が、誰もいない廊下に虚しく反響した。 返事はない。 あるのは、カーテンが外された窓から差し込む、冷ややかな午後の光だけだ。


「……お母さん?」


美咲の足音が、板張りの床に不自然なほど大きく響く。 彼女は居間へ、そして私が執筆していた作業部屋へと駆け込んだ。 だが、そこにあったのは、昨日まであったはずの生活の残滓(ざんし)すらなかった。 デスクトップパソコンも、山積みだった資料も、私が使い古していた椅子も、すべてが消えていた。


ただ、部屋の中央。 私がいつも座っていた場所の床に、一枚の白い封筒がポツンと置かれていた。


美咲は、獲物に飛びかかる獣のような勢いでそれを拾い上げた。 その手は、怒りと、そして初めて経験する「支配からの逸脱」への恐怖でガタガタと震えていた。


封筒の中には、万年筆で綴られた短い手紙。 識字障害の私が、一文字一文字、震える手を抑えながら、誰の修正も受けずに書き記した、私の本当の言葉。


『美咲。 あなたの指示、あなたの管理、あなたの正義。 すべて――間に合っています。


三浦先生は仰いました。不満を後回しにし、感謝を先にせよ、と。 今ならその意味が分かります。 私にとって、あなたという存在そのものが、人生における最大の「不満」でした。 だから、私はあなたという不満を、人生の最後尾へと回すことにしました。


私の指先には、今、溢れんばかりの情熱があります。 あなたが「無駄だ」と切り捨てた、止まらない私の魔物。 私は、この子だけを連れて、旅に出ます。


探さないで。あなたはあなたの「正しい」世界で、一人で管理を続けてください。』


「な……っ、なんなのよ、これ!」


美咲が絶叫し、手紙をクシャクシャに握りつぶした。 部屋の空気は、埃っぽくて、どこか空虚だ。 つい数日前まで、ここには「娘に怯えながらタイピングする女」という淀んだ空気があった。だが今は、まるで古い皮膚を脱ぎ捨てた後のように、清々しい風が通り抜けている。


「ふざけないでよ! ADHDのくせに、一人でどこへ行けるっていうの!? また、あのアルファポリスの時みたいに、作品を全部消されて泣きつくに決まってるわ! お母さん、あんたは私がいないと、ゴミなのよ!」


美咲が、誰もいない壁に向かって吠える。 だが、彼女のスマホが、ポケットの中で残酷なまでに「ピコン、ピコン」と鳴り続けた。 それは彼女が私を縛るために使っていた通知音。 今、その音を鳴らしているのは、彼女のSNSを「監視」し、「管理」しようとする何万人もの見知らぬ「正義の人々」だ。


【娘さん、お母さんの手紙バズってるよ。「間に合っています」って最高の決め台詞だね】 【管理管理って、あんたが一番お母さんの才能を潰してた毒子だったんだな】 【不満を後回しにしろって、自分が言われてるじゃんw】


美咲は、スマホの画面に映る無数の罵詈雑言に、顔を青ざめさせた。 彼女が私に浴びせ続けてきた「管理」という名の言葉の刃。 それが今、鏡合わせのように彼女自身に降り注いでいる。


「……嫌。嫌よ。私は、お母さんを助けてあげてただけなのに。お母さんに、感謝されなきゃいけないのに……っ」


美咲がその場にへたり込み、涙を流す。 だが、その涙は私への後悔ではない。 自分の「完璧な管理下にあったおもちゃ」が、二度と手に入らない場所へ逃げてしまったことへの、醜い自己憐憫の涙だ。


その頃――。


私は、王都から遠く離れた、波音の聞こえる海辺の宿にいた。 窓を開ければ、潮騒の香りが部屋を満たし、冷たい海風が頬を撫でる。 デスクの上には、新しく買った、まだ指に馴染まないノートパソコン。


視界の端で、虹色の歯車が、優雅に、ゆっくりと回っている。 偏頭痛の予兆。だが、もう恐怖はない。 この歯車が回るたび、私の脳には「管理不能な物語」が、濁流のように押し寄せてくるのだ。


「……ああ、静かだわ」


私は、三浦先生の本を、そっと波音のする窓辺に置いた。 先生、私は不満を後回しにしました。 そうしたら、私の周りには、今まで見えなかった「九つ以上の感謝」が、宝石のように溢れていました。


キーボードを叩ける健康な指。 窓から見える、広い空。 宿の人が出してくれた、温かいほうじ茶。 そして、誰の許可も得ずに、一時間に十話でも、二十話でも、好きなだけ物語を産み出せる、この「止まらない脳」。


「……さあ、書きましょう」


私は、微笑みながら、指を動かした。 タイトル:『第9話:九つどころか、すべてが不満』。


一話、一五〇〇文字。 それを、一瞬の過集中(ハイパーフォーカス)で打ち抜く。 識字障害の目は、文字を「愛」として捉え、光の奔流として原稿に叩きつけていく。


「毒子の不幸は、蜜の味……」


私は、カチカチと小気味よい音を立てるキーボードの感律に身を委ねた。 美咲の叫びも、スカイプの通知も、もうここには届かない。 私は、ただの書き手になった。 私は、ただの、自由な魂になった。


蜜の味は、奪うものではなく、産み出すものだったのだ。


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