第10話:蜜の味は、自由の味

第10話:蜜の味は、自由の味


窓の外には、湯煙の向こうに雄大な雪山がそびえていた。 しんしんと降り積もる雪が、すべての音を吸い込み、世界を真っ白な静寂で包み込んでいる。


「……ああ、極楽だわ」


私は、古びた温泉宿の文机に向かい、深く息を吐き出した。 鼻腔をくすぐるのは、ほのかな硫黄の香りと、宿の人が淹れてくれたほうじ茶の香ばしい匂い。そして、使い込まれた畳のい草の香り。 どれもが、かつての王都のマンションにあった「管理された清潔」とは無縁の、生きた匂いだった。


私は、愛機となったノートパソコンの蓋を開けた。 液晶の光が、網膜を心地よく刺激する。


「ピコン」


空耳だ。 かつて私の指を、心を、そして皮膚を蕁麻疹で焼き尽くしたあのスカイプの通知音。 『おはよう。一時間おきに上げすぎだよ。管理できてないね』 脳裏に響く娘の幻聴。以前なら、その声だけで心臓が握り潰されるような恐怖を覚えたはずだ。


だが、今の私は、その幻聴に向かってふふっと鼻で笑った。


「いいネタだわ、美咲。……今のセリフ、悪役のドクコの断末魔に使いましょうか」


私は、踊るように指を動かし始めた。 一話、二話、三話……。 過集中(ハイパーフォーカス)の奔流が、堰を切ったように溢れ出す。 識字障害の目には、文字が美しい図形のように映り、それが物語という絵画を完成させていく。


一時間に十話。一日で二十話。 美咲が聞いたら卒倒するであろう狂気的なスピード。 だが、誰が止めるというのか。ここには、私を縛る「戦略」も「SEO」も「予約投稿」も存在しない。 あるのは、ただ、書きたいという剥き出しの原始的な欲動だけだ。


(止まらない……。やめられない……! そして、それがこんなにも、素晴らしい!)


虹色の歯車が、視界の隅で美しく、軽やかに回転している。 閃輝暗点の光は、もはや私を脅かす病魔ではない。 それは、私の脳が全速力で回転していることを示す、勝利の凱旋門の輝きだ。


私はキーボードを叩きながら、心の中で、遠い空の下で今も「管理」という名の虚像に縋り付いている娘へ語りかけた。


「娘ちゃん。あなたがずっと言っていたわね。『九つの感謝を先に言え』って」


私は、一度だけタイピングの手を止め、窓の外の雪景色を見つめた。


「今、ようやく分かったわ。私があなたに感謝すべきことは、たった一つ。……あなたが私の人生から消え、二度と干渉しなくなったこと。それだけよ」


その一言を頭の中で確定させた瞬間、胸の奥にこびりついていた黒い澱が、スッと消えていくのが分かった。 感謝とは、強要されるものではない。 支配から解き放たれ、自分という個を取り戻した時に、内側から静かに溢れ出す「光」なのだ。


私は、物語の最後の一文字を打ち込んだ。


『――毒子は叫んだ。「私は、あなたを管理してあげていたのに!」  母は微笑んだ。「その管理こそが、私の翼を折る鎖だったのよ。さようなら。あなたは、あなたの鏡の中だけで生きていきなさい」』


投稿。 「閃輝」というアカウントに、今日も膨大な数の物語が並ぶ。 コメント欄には、読者たちの熱狂的な叫びが溢れていた。 『作者さん、今日も更新が止まらない!』 『この熱量は、誰にも真似できない。本物の言葉だ』


私は、マウスを置き、窓辺に歩み寄った。 雪は、まだ降り続いている。 三浦綾子先生の本を手に取り、その表紙を撫でた。 先生、私は不満を捨てました。 そして、自分の中にある「魔物」を、愛することに決めました。


識字障害も、過集中も、閃輝暗点も。 かつて「欠陥」と呼ばれた私のすべてが、今は、自由な物語を紡ぐための大切な「色」になっている。


「……さあ、温泉に入って、また続きを書きましょう」


私は、独り言を呟き、立ち上がった。 足取りは驚くほど軽い。 背中にあった、目に見えない重石は、もうどこにもない。


宿の廊下を歩く私の指先は、まだ物語の残熱で微かに震えている。 誰の指示も受けず。 誰の顔色もうかがわず。 私は、私の人生という物語の、唯一の執筆者(作者)になったのだ。


雪原を抜ける風が、窓を叩く。 それはまるで、新しい世界の始まりを祝う、喝采のように聞こえた。


蜜の味は、自由の味。 私は、その甘美な液体を、一滴残らず、自分の言葉に変えていく。


【完】


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『毒親の不幸は蜜の味と毒子はのたまう 〜過集中な私の投稿を管理したがる娘(マネージャー気取り)を、異世界追放してやった〜』 春秋花壇 @mai5000jp

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