第8話:毒子ののたまう「正義」
第8話:毒子ののたまう「正義」
「ガシャン、ガシャン、ガシャン!」
深夜、玄関のドアノブが壊れんばかりに回される音が、静寂に包まれた部屋に響き渡った。 私はパソコンのモニターの前に座ったまま、その音を、遠い国の祭り囃子のように聞いていた。 コップの中で死んだスマホは、もう光ることさえない。 外界と私を繋ぐ糸を断ち切ってから、私の脳は、かつてないほど澄み渡っていた。
「お母さん! 開けて! いるんでしょ! 何やってるのよ!」
ドアの向こうで、美咲のヒステリックな声が響く。 私はマウスを動かし、美咲がSNSに投稿した最新のメッセージを確認した。
【皆さん、助けてください。母と連絡が取れなくなりました。ADHDの特性で過集中になると、周りが見えなくなって暴走してしまうんです。今はSNSもブロックされ、安否が分かりません。誰か、母がどこかのサイトで怪しい投稿をしていないか見守ってください。私はただ、母を守りたいだけなのに……】
画面には「可哀想な娘」を演じる美咲への、以前のような称賛……は、なかった。 リプライ欄を埋め尽くしていたのは、これまで沈黙していた読者たちの、冷ややかな「気づき」だった。
『……今の今まで黙ってたけど、この娘さんの投稿、ずっと監視報告みたいで怖かったんだよね』 『「母を守る」って言いながら、一時間おきに上げたとか、名前がどうとか、全部自分の管理ミスを責めてるだけじゃない?』 『さっきバズってる「閃輝」さんの小説読んだ。あそこに書かれてる「毒子」の台詞、この娘さんの過去ツイートと一字一句同じなんだけど……。これ、虐待レベルの支配じゃないの?』
火種は、一気に燃え広がっていた。 私が『閃輝』として放った一万文字の弾丸が、美咲の作り上げた「献身的な聖女」の仮面を、裏側から粉々に砕き始めていたのだ。
「開けなさいよ、お母さん! また千七百作品消されたいわけ!? 私の言うことを聞かないから、ネットで叩かれてるんでしょ!」
「ドン!」と、ドアが蹴破られんばかりに揺れた。 私はゆっくりと立ち上がり、ドアの前まで歩いた。 木の扉一枚を隔てて、娘の荒い鼻息と、安物の香水の匂いが漂ってくる。
「……美咲。もう、あなたの声は、私には届かないわ」
扉越しに、私は静かに告げた。
「な……っ、お母さん!? 生きてたの!? 何やってるのよ、今すぐSNSで『娘に感謝しています』って投稿して! あなたのせいで、私のフォロワーが減ってるのよ! これじゃ管理失格じゃない!」
「管理……。あなたは最後まで、それなのね」
私は、ドアの鍵をかけたまま、そっと扉に背中を預けた。 冷たい木の感触が、蕁麻疹の引いた背中に心地よい。
「あなたは、私がアルファポリスで全てを失った時、私の側にいてくれたわね。でもそれは、私を支えるためじゃなかった。絶望して動けなくなった私を、自分の思い通りに動く『壊れた人形』として所有したかっただけ。……その方が、あなたの『正義』を満たせたから」
『何言ってるの……? 私は、お母さんのために……! 三浦綾子だって言ってるでしょ、不満を後回しにしろって! 私はあんたを助けてあげたのよ!』
美咲の叫びが、廊下に反響する。 しかし、同時に彼女のスマホが激しく通知音を鳴らし始めた。 SNSの炎上が、ついに「毒子」というアカウントを飲み込み始めたのだ。
『……嘘。何これ。なんでみんな私を叩くの? 「支配欲の塊」? 「毒親ならぬ毒子」? 私がお母さんを管理してあげてたのに……なんで、なんで感謝されないの!?』
美咲の狼狽した声。 私は、彼女の絶望を「蜜の味」として啜りながら、再びデスクへ戻った。
視界の端で、虹色の歯車が、かつてないほど優雅に、美しく回転している。 閃輝暗点の光は、もう私の視界を奪うものではない。 私に「真実」だけを見せる、導きの光だ。
「さようなら、美咲。あなたの正義は、私の物語の中で、永遠に悪役として生き続けるわ」
私はヘッドフォンを耳に当て、外界の叫びを遮断した。 キーボードの上に指を置く。 識字障害の目が、ディスプレイの上に、まだ見ぬ銀河のような言葉の列を映し出す。
(九つの感謝……。そうね、美咲。最後に一つだけ、感謝してあげる)
あなたが私を管理し、縛り、絶望させたからこそ、私はこの「最強の武器」を手に入れることができた。 あなたの執拗なまでの「不満」が、私の千七百作品を上回る、最高傑作のインクになった。
「ピコン」
秘密のアカウント『閃輝』のコメント欄に、新しいメッセージが届く。 『作者さん、自由にお書きください。私たちは、あなたの「本当の言葉」を待っています』
私は、微笑んだ。 偏頭痛の予兆さえも、今は愛おしい。 ドアの外で泣き叫ぶ「毒子」の声は、今や遠いノイズに過ぎない。
(止まらない。やめられない。……そして、もう、誰にも止めさせない)
第8話、投稿完了。 一秒間に数百回更新されるアクセス数。 私は、光り輝く文字の海へと、深く、深く、潜っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます