第7話:スカイプの断絶
第7話:スカイプの断絶
「ピコン。ピコン。ピコン」
スカイプのチャット欄が、聞き慣れた、けれど今は吐き気を催す心臓の鼓動のように脈打つ。 「お母さん、起きてる? 大事なニュースよ。感謝してね」 美咲からのメッセージが、視界の端で閃光のように明滅する。私は震える指でマウスを握り、恐る恐る原稿を開いた。
その瞬間、指先が凍りついた。
「……なに、これ」
私の愛した、硬質で孤独な『ゼノ』のセリフが、どこにでもある凡庸な「お人好しの優等生」の言葉に書き換えられている。風景描写は削られ、SEOを意識したという安っぽいキーワードが、傷口に塩を塗り込むように埋め込まれていた。
『お母さんの文章、やっぱり情緒不安定で読みづらかったから、私が全部「正解」に書き換えておいたよ。これで読者も迷わない。ほら、分かりやすくなったでしょ?』
美咲の声が、スピーカーから弾んだ調子で響く。 それは、慈しみ育てた庭の花を「雑草だと思ったから」と、笑顔でコンクリートで塗り潰されたような絶望だった。
「……美咲、あなた、私の断りもなく……これに、手を入れたの?」
『手を入れた? 違うよ、救ってあげたの。お母さんのあの書き方じゃ、またアルファポリスの時みたいに「独りよがりだ」って叩かれるに決まってる。私はお母さんを、守ってあげたいだけなの。分かるでしょ? 九つの感謝はないの? 私が一晩中かかってリライトしてあげた……』
「……っ!」
私の喉の奥から、言葉にならない悲鳴が漏れた。 三浦綾子の言葉を、私の魂を縛り、蹂躙するための鎖として使う娘。 私の「識字障害」を、無能の証として、管理の口実として、六年間嘲笑い続けた娘。
視界が、真っ白に弾けた。 閃輝暗点の歯車が、かつてない速さで回転を始める。 虹色の光が渦を巻き、視界を狭窄させ、現実を切り刻んでいく。 耳の奥で、千七百の作品たちが、削除の瞬間に上げた断末魔が、大合唱となって響き渡る。
「……ああ、そう。そう。そうなのね」
私は、笑っていた。 込み上げてくるのは、怒りを超えた、冷たくて透き通った「殺意」にも似た拒絶。
『お母さん? 何笑ってるの? 怖いわよ。……ねえ、リライトしたところ、ちゃんと読んで。私が考えた「レナード」の新しい設定……』
「美咲。あなたは、私の物語を愛したんじゃない。私という「存在」を、自分好みの人形に書き換えたかっただけなのね」
『な、何を言ってるの? 私はあなたを思って……』
「さようなら、美咲」
私は無言で、マウスを動かした。 カーソルが、画面上の「ブロック」の文字に吸い寄せられる。 迷いはなかった。 カチッ。 一瞬のクリック音。 美咲の、耳障りな「正義」が、スピーカーから永遠に消えた。
沈黙。 深海のような静寂。
私は次に、デスクの端で震えているスマートフォンを手に取った。 液晶には「美咲」からの着信。何度も。何度も。 私は、隣に置いてあった、氷の浮いたコップを見つめた。 透明な水の中で、氷がカラン、と涼やかな音を立てる。
(蜜の味、って言ったわね、美咲)
私は、スマートフォンの電源を落とすことさえせず、そのまま、コップの中へと沈めた。 ボチャン。 小さな水飛沫。 青白い光が、水の中で一度だけ強く瞬き、そして、ゆっくりと死んでいった。
すべての通信が、断絶した。 外界と私を繋いでいた、腐ったへその緒が、今、完全に切り落とされた。
腕の蕁麻疹が、急速に引いていくのがわかった。 熱を持っていた皮膚が、心地よい冷気に包まれていく。 視界の歯車は、加速し続け、ついには一本の光の線となった。
(ここには、もう私と、物語しかない)
私は、パソコンの画面を睨みつける。 美咲が「リライト」した、汚された原稿。 私はそれを全選択し、デリートキーを叩き込んだ。 真っ白な画面。 広大で、自由な、処女地。
私は、書き始める。 一時間後の予約投稿など、知るものか。 管理? SEO? 読者の顔色? そんなものは、ゴミ箱に捨ててきた。
私は、ただ、書く。 指先から溢れ出すのは、六年間、千七百作品分の、そして、娘に支配され続けた歳月分の、黒いマグマ。 識字障害の目が、文字を光の奔流として捉える。 虹色の歯車が、私を加速させるエンジンの音を立てる。
「……見ていなさい。これが、管理不能な、私の本当の言葉よ」
午前四時。 秘密のアカウント『閃輝』のページに、新たなエピソードが並ぶ。 タイトル:『第7話:お人好しのレナードは、死にました。』
投稿ボタンを、全力で叩いた。 カチッ、カチッ、カチッ! 狂気的な連投。一時間に二十話。 一文字一文字が、美咲という檻を撃ち抜く弾丸。
私は、暗い部屋で、一人で笑い続けた。 スマホの沈んだコップの水は、もう、震えることもない。 復讐の夜が、今、本当の幕を上げたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます