第3話:名付けの儀式、あるいは死刑宣告
第3話:名付けの儀式、あるいは死刑宣告
「ピピピピ、ピピピピ!」
今度はスカイプの通話リクエストだ。パソコンのスピーカーから放たれる機械的な電子音が、私の三半規管をかき回す。 私は、書き上げたばかりの第3話のプロットを見つめていた。物語の鍵を握る、傲慢で、孤独で、けれど圧倒的に美しいライバルキャラ。その名は、昨夜の眠れぬ暗闇の中で、雷光のように脳裏に降りてきたものだ。
『ゼノ・ヴァルグリス』。
口の中で転がせば、硬質な金属が擦れ合うような、冷たくて鋭い響き。この名が決まった瞬間、キャラクターに魂が宿り、私の指先は魔法にかかったように動いた。
だが、通話ボタンを押した瞬間に聞こえてきたのは、冷水を浴びせかけるような娘の声だった。
『お母さん、見たよ。何、あの新キャラの名前。「ゼノ」? 冗談でしょ』
美咲の声は、笑いを含んでいるようでいて、その実、刃物のような薄っぺらな軽蔑に満ちていた。
「……何が、おかしいの」
『おかしいよ。まず、「ゼノ」なんて名前、今どきのラノベやネット小説に溢れすぎててSEO(検索エンジン最適化)的に最悪。検索しても他の作品に埋もれるだけ。あとね、調べたら三年前の某ヒット作の脇役と被ってる。盗作だって騒がれたらどうするの? アルファポリスの時の教訓、もう忘れたわけ?』
「……これは、私が考え抜いた名前よ。響きも、意味も、このキャラにはこれしかないと思って……」
『思って、じゃなくて、データで見なよ。お母さんはすぐそうやって「直感」とかいう、根拠のないものに頼る。いい? 今の読者が求めているのは、もっと分かりやすい属性名。例えば「氷結の魔導公爵・レナード」とかさ。そういう、パッと見て役割がわかる名前に修正して。私がリスト作ったから、今送るね』
ピコン、とファイルが届く。 私はそれを開く気にもなれず、ただ震える手でキーボードの淵を掴んだ。
脳裏にあった、銀髪をなびかせ、孤独な瞳で地平線を見つめる『ゼノ』の姿が、美咲の「修正案」という泥にまみれて、急速に色褪せていく。
「……美咲。名前は、記号じゃないの。そのキャラの命なのよ」
『命? 食べられないでしょ、そんなの。お母さん、またADHDの過集中で周りが見えなくなってる。自分が「気持ちいい」だけの名付けは、ただの自己満足。読者が求めているのは、管理された「商品」としての分かりやすさなの。私がこうしてアドバイスしてあげてるのは、お母さんを売れっ子にしてあげたいからなんだよ? 感謝してよ、本当に』
感謝。 また、その言葉だ。 私の胸の奥で、何かが決定的な音を立てて千切れた。
(ああ、そうか……)
視界が、不自然なほどクリアになる。 腕の蕁麻疹が、熱を帯びて脈動している。 私は気づいてしまった。 美咲は、私の物語を愛してなどいない。 彼女が愛しているのは、自分の思い通りに動く「筆」であり、自分のマーケティング理論を証明するための「実験体」だ。 彼女にとって、私の創作は「魂の叫び」ではなく、効率よく換金するための「家畜」に過ぎないのだ。
『もしもし? 聞いてる? 明日の朝までに、全部その「レナード」に置換しておいてね。あ、ついでに性格ももう少しマイルドに。今のままだと、読者が感情移入しにくいって私の分析が出てるから』
「……美咲」
『なに?』
「あなたは、私の小説の、何が面白かったか、覚えている?」
沈黙が流れた。 スカイプの向こう側で、美咲が困惑したように息を呑む音が聞こえる。
『なに急に。面白いに決まってるじゃん。だから、こうして売れるように手伝って……』
「……一度も、言わなかったわね。このキャラが好きだとか、このシーンで泣いたとか。あなたはいつも、数字の話か、投稿時間の間違い探ししかしない」
『それは、私がマネージャー役をやってあげてるから……』
「いいえ。あなたは、私に死刑を宣告しているのよ。作家としての死を」
私は、静かに通話終了のアイコンをクリックした。 すぐにまた「ピピピピ!」と着信音が鳴り響くが、私はスピーカーの電源を物理的に引き抜いた。
静寂。 耳の奥で、自分の激しい鼓動だけが鳴っている。
私は、美咲が「ゴミ」だと断じた名前――『ゼノ・ヴァルグリス』を、真っ白な原稿用紙の真ん中に、力強く打ち込んだ。
(SEO? 被り? 知るものか)
私は確信した。 この子が求めているのは、私の「九つの感謝」ではない。 私を「一つの不満」として支配し続けることで、自分の有能さを確認したいだけの、空っぽの正義だ。
「……私は、商品じゃない」
私は、蕁麻疹の痒みを掻きむしる代わりに、キーボードを叩いた。 指先が、怒りで熱い。 美咲から送られてきた「修正案」のファイルを、一瞬の迷いもなくゴミ箱へドラッグする。
(死刑を執行するのは、私の方よ、美咲)
あなたの嫌いな、直感に満ちた、独善的で、あまりにも美しい「名前」で。 あなたの嫌いな、深夜の、無計画で、爆発的な「投稿」で。
私は、お嬢様が「最悪の選択」だと切り捨てた言葉たちを、宝石のように丁寧に拾い上げ、物語の城壁を築いていく。 過集中という名の魔物が、私の脳内で狂喜乱舞している。
「……見ていなさい。あなたの『正論』が届かない場所まで、私は走っていくから」
第3話の最後の一文字を打ち込み、私は「今すぐ投稿」のボタンを、全力で押し込んだ。 午前三時十五分。 娘の寝静まった夜を、私の「反逆」の狼煙が、真っ赤に染め上げていった。
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