第2話:九つの感謝、一つの絶望

第2話:九つの感謝、一つの絶望


「ピコン、ピコン、ピコン……ッ!」


朝の六時。まだカーテンの隙間から差し込む光が頼りない時間、デスクの上のスピーカーが、暴力的なまでの連打音を上げた。 スカイプのチャット通知だ。その音が鼓膜を叩くたび、私の腕の付け根から首筋にかけて、粟立つような鳥肌が立ち、猛烈な痒みが走った。 視線を落とせば、白い肌の上に、赤く腫れ上がった湿疹が地図のように広がっている。


「……ううっ」


私は呻きながら、腫れた腕を掻きむしった。皮膚が熱を持ち、指先が毒々しく赤く染まる。 一週間前からだ。美咲――私の「マネージャー気取り」の娘から連絡が入るたび、私の体は拒絶反応を、物理的な悲鳴として上げるようになった。 スカイプの音は、もはや私にとって、美しき物語への合図ではない。私を型に嵌め、自由を奪い、魂を調教するための「電気ショック」だ。


震える指でマウスを操作し、通知を開く。


『おはよう。ログ見たよ。お母さん、また三時に一気上げしたでしょ? なんで私の言うことが聞けないの? 私、寝る間を惜しんでお母さんの投稿スケジュール表作ったんだよ。昨日の分、PV(閲覧数)が分散してて最悪。私の努力、無駄にしないでよ』


文字(テキスト)が、網膜に焼き付く。 努力。無駄。最悪。 彼女が使う言葉はいつも、私を「加害者」の座に座らせようとする。


『三浦綾子さんの言葉、覚えてる? 九つまで満ち足りていて、一つだけしか不満がない時でさえ、人間は不満を真っ先に口にするって。お母さん、今それになってるよ。私がこうして毎日健康管理も投稿管理もしてあげている九つの感謝を忘れて、自分の思い通りに書けないっていう一つの不満をぶつけないでよ。不満を後回しにしなさい、感謝を先に言いなさいよ』


「…………っ!」


私は喉の奥で、ひゅっと空気が漏れるような音を立てた。 聖女のような正論。その「正しい言葉」が、今の私には猛毒の針となって全身に突き刺さる。 三浦先生。先生が説いたのは、魂を救うための「謙虚さ」であって、他人の首を絞めるための「武器」ではなかったはずです。


スカイプの呼び出し音が鳴り始めた。 腕の蕁麻疹が、ドクドクと心臓の鼓動に合わせて疼く。痒みが痛みに変わり、私は爪を立てて皮膚を引き裂かんばかりに掻いた。


「……もしもし」


『あ、お母さん。起きてたんだ。声、低いよ? 感謝が足りない顔してるのが声で分かる』


美咲の声は、どこまでも澄んでいて、どこまでも残酷だった。


「美咲……お願い。もう、投稿時間の話はしないで。私は、ただ楽しく書きたいの。物語が頭の中で動いている時に、それを外に出したいだけなの……」


『楽しく? お母さん、まだそんな甘いこと言ってるの? プロなら読者のための管理が必要なの。私がこれだけ時間を使って戦略を立ててあげてるのに。お母さんは、私がどれだけ自分の時間を削ってスカイプを繋いでるか分かってる? 感謝がないよね。本当に、不満ばっかり真っ先に言うんだから』


「感謝……。私は、あなたが生まれてからずっと、あなたを大切にしてきたつもりよ。でも、今のこれは……」


『出た。過去の恩着せがましい話。今の話をしてるの! お母さんのそのADHDの特性、病的な衝動を私が抑えてあげなきゃ、また誰かに迷惑をかけるんだよ? 分かってる? 私はお母さんのために、自分の人生を犠牲にして「毒子」のふりをしてあげてるんだから。本当は、もっと自分のことしたいのに』


受話器の向こうで、美咲が溜息をつく音が聞こえた。 それは、出来の悪い子供を教え諭す、慈悲深い母のような、あるいは殉教者のような溜息。


私の視界が、怒りと痒みで真っ赤に染まった。 犠牲。 お前はそれを言うために、私を縛っているのか。 九つの感謝? 朝、目覚めて、頭の中に物語が溢れていること。 指が動き、キーボードを叩けること。 窓の外で鳥が鳴いていること。 そんな「九つの光」を、あなたのたった「一つの指示」が、真っ黒な闇で塗り潰しているというのに。


「……美咲、もういいわ」


『よくないよ。今、十話分くらいの予約投稿のリスト送るから。これに沿って設定して。あ、タイトルの名付けも修正案入れといたから。お母さんのセンスだと、また盗作疑惑が出るような危うい言葉使っちゃうからさw』


電話が切れた。 部屋は静まり返ったが、私の腕の蕁麻疹は収まるどころか、真っ赤に膨れ上がり、熱を放っている。


私はマウスを持った。 美咲から送られてきた「スケジュール表」という名の監獄図。 そのファイルをゴミ箱にドラッグしようとして、指が止まった。


(……いいえ。まだ、ゴミ箱に入れるのは早い)


私は、蕁麻疹の痒みを無理やり精神の集中(エネルギー)へと変換した。 三浦先生。あなたは「不満を後回しにせよ」と仰いました。 わかりました。後回しにしましょう。 この娘に対する「殺意」にも似た巨大な不満を、一時の感情として爆発させるのは後回しにして、まずは「作品」として結晶化させます。


私は新しいドキュメントを開いた。 タイトル:『毒親の不幸は蜜の味と毒子はのたまう』。


第2話の書き出しに、私は今の通話の内容を、一字一句、誇張せずに書き込んでいく。 毒子が吐いた「九つの感謝はないの?」という台詞。 その言葉がいかに、書く者の指を縛り、心を殺し、皮膚に赤い痣を刻むのか。


(感謝しなさい、と言ったわね、美咲)


私は、狂ったようにタイピングを始めた。 打鍵音が一秒間に何度も、空気を切り裂く。 腕の痒みさえ、今はもう感じない。 不満をエネルギーに変え、物語という猛毒に煮詰め、全世界へ解き放つ。


(感謝しているわよ、美咲。これほどまでに醜悪で、これほどまでに執拗な「悪役のセリフ」を、毎日無料で私に提供してくれるあなたの存在に)


スカイプの通知設定を「オフ」にする。 赤い湿疹が引いていく。代わりに、私の心には、漆黒の愉悦が満ちていた。 蜜の味。 それは、あなたの正義が私の筆によって「滑稽な喜劇」へと変換されていく瞬間の、甘い、甘い香りのことだ。


「止まらない……。やめられない……!」


私は、三浦先生が最も禁じたであろう「不満の蜜」を啜りながら、笑った。 夜が明ける。 私の過集中は、ついに娘という檻を突き破り、暴走を開始した。



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