第1話:聖女の仮面を被った「毒子」
第1話:聖女の仮面を被った「毒子」
「ピコン」
深夜二時。静まり返ったリビングに、鋭い電子音が響く。 ディスプレイの青白い光が、私の乾いた瞳を刺した。スカイプの通知だ。送り主は、娘の美咲。
『おはよう。また一、二時間おきに上げすぎだよ。お母さん、ADHDの特性が出すぎ。止まらないのは分かるけど、読者が追いつけないでしょ? 一日あげるなら、合計で三話分くらいがいいかも~』
語尾に付けられた「~」の波線が、私の逆撫でされた神経をチリチリと焼く。 私はマウスを握る手に力を込めた。指先は、さっきまで物語を紡いでいた熱を帯びている。脳内ではまだ、異世界の戦士たちが咆哮を上げ、魔法の火花が散っているのだ。この「止まらない、やめられない」奔流こそが私の命なのに、娘の文字(テキスト)が、冷たい泥水のようにそれを堰き止めようとする。
「……また、始まった」
私は低く呟き、三浦綾子先生の本が置かれた机に視線を落とした。 『九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ……』 先生、ごめんなさい。今の私の心には、感謝なんて一滴も残っていません。十のうち十、いや百のうち百が、この「管理」に対する不満で膨れ上がっているんです。
スマホを手に取ると、美咲のSNSが目に入った。
【母がまた執筆に没頭して、寝食を忘れています……。私がブレーキをかけないと、この人は壊れてしまう。大変だけど、母の才能を守るのが私の使命かな。今日もスカイプで投稿管理。頑張れ私!】
リプライ欄には「なんて献身的な娘さん!」「先生は幸せ者ですね」という称賛の嵐。 私は吐き気を覚えた。 献身? 使命? 笑わせないで。 それは、私の首に「管理」という名の首輪をつけ、自分がコントロールしやすい「売れる商品」に調教したいだけの支配欲じゃない。
電話が鳴った。スカイプの音声通話だ。 逃げ場はない。私は震える指で通話ボタンを押した。
「……はい」
『あ、お母さん? 起きてたんだ。今送ったチャット、読んだ?』
美咲の声は、驚くほど澄んでいる。まるで迷える子羊を導く聖女のような、落ち着いた、それでいて有無を言わせない響き。
「読んだわよ。でも、今は物語が一番乗っているところなの。書ける時に一気に書かないと、この熱が逃げてしまうのよ」
『それがダメなんだって。アルファポリスの時、あれだけ大変な思いをしたでしょ? 周りが見えなくなって暴走するから、盗作疑惑みたいな面倒なことに巻き込まれるの。私はお母さんを守るために言ってるんだよ?』
「守る」という言葉が、鋭いナイフになって私の胸を抉る。 あの時の絶望、誰にも相談できず、たった一人で言葉の海を漂っていた孤独。それを、一番連絡を寄こさなかった娘が、今さら「正義の盾」にして私を殴りつけてくる。
『あと、さっきの新作のキャラ名。「c4r.s<」って何? 名前の付け方が雑すぎるよ。SEOとか考えなよ。もっと検索されやすい、パッと見て属性が分かる名前にしなきゃ。お母さん、センスが昭和なんだからw』
「w」が声になって聞こえた気がした。 私の直感。私の魂が選んだ響き。それを「数字」という物差しで測られ、ゴミ箱に捨てられる。
「……美咲、私は数字のために書いてるんじゃない。この物語が、私の中で生きてるから書いてるの」
『出たよ、芸術家気取り。いい? 読まれなきゃ意味ないの。三浦綾子先生だって言ってるでしょ? 感謝すべきことを先に言えって。私が毎日こうしてスケジュール管理してあげてることに、少しは感謝してよ』
頭が割れそうだった。 感謝。ああ、感謝か。 お節介のフルコースを無理やり口に突っ込まれ、窒息しかけている私に、彼女は「美味しいと言え」と強要するのだ。
「……そうね。あなたが私のために時間を割いてくれていることには、感謝しているわ」
『でしょ? 分かればいいの。じゃあ、今日の分はもう上げないで。三時間後に予約投稿にセットして。一、二時間おきなんて、スパム判定されるから絶対やめてね。約束だよ?』
通信が切れた後の静寂は、死の街のように冷たかった。 私はディスプレイを見つめた。書きかけの第4話が、行き場を失って泣いている。 私のADHDという「止まらない車輪」を、彼女は力ずくでロックする。摩擦で煙が上がり、私の心は焦げ付いた匂いを立てている。
「……もう、間に合っています」
私は、三浦先生の言葉を裏返して呟いた。 不満を真っ先に口に出すのではない。 この不満を、怒りを、殺意にも似た情熱を、そのまま「物語」という猛毒に変えてやる。
私はマウスを握り直した。 美咲との約束? 予約投稿? 知るものか。 私は今、この瞬間、私の指が動くままに、世界を破壊して再生する。
画面に新しいタイトルを打ち込む。 『毒親の不幸は蜜の味と毒子はのたまう』
タイトルを入力した瞬間、脳内のアドレナリンが沸騰した。 止まらない。やめられない。 美咲からの「ピコン」という通知音が、今は最高の執筆BGMに聞こえる。 あなたのその「正義の言葉」を、全部悪役のセリフに使ってあげる。 感謝してよね、美咲。あなたの傲慢さが、私の新しい傑作の「蜜」になるんだから。
私は猛然とキーボードを叩き始めた。 夜はまだ、始まったばかりだ。
第1話、執筆いたしました。ADHDの過集中が「怒り」と結びついた瞬間の爆発力、お嬢様への宣戦布告を五感に込めて描きました。
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