第3話 白は泥に、祈りは灰に
その日の朝、ルカの瞳には、半年ぶりに子供らしい光が宿っていた。ボロ小屋の床下から掘り出した布袋は、半年分の汗と煤を吸って黒ずんでいたが、その中身は黄金よりも重く、神聖な響きを立てていた。ルカは、眠るトトとカカの静かな寝息を確認すると、祈るような手つきで扉を閉めた。
向かう先は、街で一番大きな、教会の隣にあるパン屋だ。ルカは店の前で一度、煤だらけの服を精一杯払い、呼吸を整えた。忌み子である自分が入れば、客は顔を背け、店主は不快感を隠さないだろう。だが、今日のルカには、世界と戦えるだけの証がある。
店内に一歩踏み込むと、温かな、幸福を絵に描いたような香りがルカを包み込んだ。
「……これを、ください」
ルカは震える指先で、棚の一番奥にある白いパンを指した。店主はルカを汚物を見るような目で見下したが、カウンターに積まれた銅貨百枚を目にした瞬間、その目は卑屈な欲望へと濁った。
ルカは、受け取ったパンの温もりを、壊れ物を扱うように抱きしめた。まだ生きているかのように温かい。このパンが、二人の冷え切った内側に火を灯してくれる。ルカは誇らしげに、だが人目を避けるように路地裏を抜けていった。
あと少し。あと数分で、あの暗い小屋に光が届く。だが、路地を曲がった先、いつもの鍛冶場への分岐点で、ルカの視界を銀色の静寂が遮った。
白馬に跨ったハリスが、そこにいた。彼はただ、冷え切った冬の空気のようにそこに佇んでいた。ハリスの瞳は、ルカが抱えるパンの包みをじっと射抜いている。その無言の圧迫感に、ルカの足がすくんだ。
ハリスがわずかに顎を動かすと、控えていた従者が、ルカの腕から乱暴にパンを奪い取った。
「やめろ! なにするんだ、返せ! お願いだ、それは……!」
ルカの叫びを、ハリスは耳に届いていないかのように聞き流す。ハリスは馬上から、従者が差し出したパンの包みを無造作に開かせた。ハリスは、その純白のパンの表面を、指先でゆっくりとなぞった。そして、爪を立てるようにして、パンの中身をボロボロとむしり取り始めた。雪のように白い欠片が、路上の泥の上にこぼれ落ちていく。
ボチャン。
ハリスは、むしり取られたパンの残骸を、足元のドブへと落とした。汚泥を吸い、黒く変色していくパン。ルカが半年かけて、指の爪を剥がしながら積み上げた努力の結晶が、音を立てて崩れ去った。
ルカはドブに這いつくばり、汚水に手を突っ込んだ。だが、掴めるのは腐った泥だけだ。
ハリスは馬上から、泥にまみれたルカを静かに見下ろし、その薄い唇を開いた。だがそれはルカへの言葉ではなく、背後に呼び寄せた憲兵への合図だった。
「……この忌み子が、店から金を盗んだ疑いがある。このパンが、その証拠だ」
その言葉にルカは凍りついた。ハリスは、ルカが自らの手で金を稼いだことを知っている。それを、この場で盗品に書き換えたのだ。憲兵はハリスの言葉を神託のように受け止め、ルカを強引に地面に抑え込むと懐をまさぐった。残っていた数枚の銅貨、ルカが万が一のために残した端金までもが証拠として没収された。
ハリスは一度も声を荒らげることなく、ただ泥のついた靴を予備のハンカチで拭うと、ルカをその場に放置して去っていった。
空手で小屋に帰り着いたルカを待っていたのは、今にも消え入りそうな二人の姿だった。トトはもはや咳をする力もなく、口の端から暗い色の血を流している。カカは、ルカの足音を聞きつけると、震える手で壁を探り、無理に微笑んだ。
「……おかえり、ルカ。お腹がすいただろう。昨日のスープを温めるからね」
ルカの脳裏に、ガトーの仕事場に転がっていたあの音が響いた。カチリ、と錠前が外れる音。もう、半年待つ余裕なんてない。明日には、二人は冷たい骸になっているかもしれない。
深夜。ルカは昼間のパン屋の前に立っていた。手には、ガトーの仕事場から隠し持ってきた一本の細い鉄線。
「……鍵は、心の鏡だ」ガトーの言葉を反芻しながら、ルカは鉄線を鍵穴に差し込んだ。指先の感覚が、驚くほど鋭敏に研ぎ澄まされていた。内部のピンが一段ずつ、自分の意志で屈服していく感触。
カチリ。
半年間、誰よりも正しくあろうとした少年の心が、完全に壊れた音だった。
音もなく店内に潜り込む。ルカは棚にあるパンを必死にかき集めた。これがあれば、二人は救われる。だが、ルカがパンを掴んだその瞬間、背後でガチャリと、重い音がした。松明の明かりが、一気に店内の闇を焼き払う。
「……やはり、戻ってきたか。泥棒猫が」
そこには、睨み付ける店主と表情ひとつ変えぬハリスがいた。そして、十数人の憲兵。
ハリスは冷たい眼差しで、ただ、ルカがパンを盗んでいるという完成された光景を見つめていた。
「違う……、僕は、二人が死んじゃうから……!」
ルカの叫びを、ハリスは無言で遮った。ハリスはゆっくりと歩み寄ると、ルカの手からパンを一つ取り上げ、それをルカの顔のすぐ横で、再び指先でバラバラにむしり取った。
「お前は、自ら罪を選んだ。……そうだろ、ルカ」
ハリスの瞳が、至近距離でルカを射抜く。憲兵たちがルカを取り押さえ、冷たい石畳に叩きつける。引きずられていくルカの視界の端で、ハリスは丁寧に、また指先を拭い、チェスの駒を一つ片付けるような仕草を見せた。
「行かせてくれ! 二人が死んじゃうんだ!」
ルカの悲痛な叫びは、冬の夜風にかき消された。
*
「……ルカ、遅いねえ……」
カカが、震える手で隣の寝床を探った。そこにあるはずの孫の体温は、もうとうに消えている。隣で激しく咳き込んでいたトトが、血の混じった息を吐きながら、無理やり体を起こした。
「……ルカが、帰ってこん。……何か、あったのかもしれん」
二人は、自分たちが立つのもままならない体であることを忘れたかのように、互いの肩を支え合い、小屋の外へと這い出した。外は、刺すような冬の寒気が支配していた。カカは光を失った瞳で、トトは肺を灼くような激痛に耐えながら、ルカが毎日通っていたあの鍛冶場の方角へと、一歩、また一歩と。
「ルカ……どこだい……」
カカが石畳に爪を立て、掠れた声を絞り出す。トトは、ルカが自分たちのためにどれほど無理をしていたかを知っていた。毎日、煤だらけで帰ってくる孫の小さな背中を思い出し、涙が血の跡をなぞって地面に落ちる。
「すまん、ルカ……。ワシらのために、お前を……」
街の中心から、ルカを連行する馬車の車輪の音が聞こえてきた。だが、二人の耳にはもう、その音を捉える力は残っていない。路地裏の角で、トトの膝が折れた。支えていたカカも、重なるようにして冷たい石畳に倒れ伏す。
雪が静かに降り始めた。カカは、冷たくなっていく指先で、トトの手を握りしめた。
「……トト。ルカは、きっと……お土産を持って、帰ってくるよね……」
「ああ……。あの子は、優しい子だからな。……きっと、帰ってくる」
二人は、自分たちが死に直面していることよりも、今この瞬間、ルカがどこかで泣いていないか、冷たい思いをしていないか、それだけを案じていた。遠のいていく意識の中で、二人が最後に見たのは、ルカと三人で丘の上の木陰で笑い合う、叶うはずのない春の幻だった。
翌朝、雪に覆われた路地裏で、抱き合うようにして冷たくなっている二人の老人が発見された。その表情は穏やかで、最期まで孫を案じていたことを物語っていた。
二人が伸ばした指先の、わずか数センチ先。ドブの縁には、汚泥を吸ってどす黒く変色した、パンの成れの果てが転がっていた。
降り積もる雪は、ただ静かに、二人の亡骸と、黒く汚れたパンを白く覆い隠していった。
次の更新予定
2026年1月3日 18:00
白い雲、灰色の空 きくぞう @kikuzouz
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