第2話 銀色の足音、泥の影

 ルカの一日は、まだ夜の静寂が街を支配している時刻から始まる。ボロ小屋の隙間風が鳴らすヒュウヒュウという音で目を覚まし、最初にするのは、隣で眠る二人の呼吸を確かめることだ。じいちゃんのトトの、喉が鳴るような浅い呼吸。ばあちゃんのカカの、羽毛のように微かな寝息。その二つのリズムが重なっているのを確認して初めて、ルカの心臓は安堵で動き出す。


 だが、最近の部屋の空気は、以前とは違っていた。どれだけ掃除をしても拭い去れない、埃と、湿った土と、何かが静かに朽ちていくような、沈殿した匂いが混じり始めている。


「……行ってくるよ」


 二人の額を交互に、煤で汚れた手で汚さないようにそっと撫で、ルカは家を出る。目指すのは、路地裏の突き当たりにある鍛冶場だ。


 そんなルカの通勤風景を、高い場所から見下ろしている視線があった。領主邸のバルコニー。そこには銀髪の少年、ハリスが立っていた。ハリスは何も言わない。ただ、手元で一匹の羽虫を捕らえ、その薄い羽を指先で、千切れるか千切れないかの力加減で弄んでいる。ハリスの瞳は、鍛冶場へ向かうルカの姿を冷たく射抜いていた。彼は羽虫の羽を一気にむしり取ると、動かなくなった残骸を指先で弾き飛ばした。その視線は、ルカが角を曲がって見えなくなるまで、一度も逸らされることはなかった。


「遅いぞ、ドブネズミ。ふいごを引け。鉄が冷めれば、職人の心も死ぬ」


 主であるガトーは、岩を切り出したような体躯を持つ屈強な男だ。丸太のような腕には、幾多の火傷跡が刻まれており、彼が槌を振るうたびに仕事場全体が震える。ルカが働き始めた半年前、彼はルカが「忌み子」であると知っても、眉一つ動かさなかった。ただ、一言「火を絶やすな。死にたくなければな」とだけ命じた。


 ルカの仕事は過酷だ。釜の煤払い、重い鉄屑の運搬、そしてガトーが組み上げる錠前の部品を磨き上げること。指先は常に火傷と切り傷でボロボロになり、爪の間には消えない黒い煤が入り込んでいる。


 ある日の午後、ガトーが珍しくルカの手を止めた。ルカが磨いていた小さな歯車の表面を、厳しい目で見つめる。


「……ルカ。この歯車の角、少し丸めすぎだ」


「ごめんなさい。……やり直します」


 ルカが首をすくめると、ガトーは大きな、鉄のような手でルカの頭を乱暴に、だが重みのある動作で撫でた。


「謝るな。金属ってのは正直だ。磨き手の迷いも、優しさも全部映しちまう。……お前、この部品を磨きながら、誰かのことを考えていたな?」


 ルカは驚いて顔を上げた。ガトーの瞳には、かつて向けられたことのないような、一人の男としての敬意が宿っていた。


「いいか。鍵ってのはな、誰かの『一番大切なもの』を守るための門番だ。その門番には、時に、門を開けてはならぬ者から、命懸けで守り抜く覚悟がいる」


 ガトーはそう言うと、作業台の奥に隠された、見たこともないほど複雑な構造の錠前を指先でなぞった。その瞬間、彼の目から職人の光が消え、底冷えするような「殺気」が漏れ出た。


「お前は忌み子だなんだと言われているが、その指先は、誰かを守るための純粋な仕事をしている。……俺は、血筋で仕事を見るほど焼きが回っちゃいねえ。お前は、俺のまっとうな弟子だ。いいな、胸を張れ」


 初めて、あの二人以外に一人の人間として認められた瞬間だった。ルカは視界が滲むのを堪え、力いっぱいふいごを引いた。


 ルカがこれほどまでに必死に働く理由は、ただ一つ。この半年間で、銅貨百枚を貯めることだ。かつてルカが「忌み子」として石を投げられたとき、偶然見かけたパン屋の店頭にあった、黄金色に焼き上げられた、雪のように白いパン。あれを二人に食べさせてあげたい。


 昼時、ルカは一度家に戻る。ガトーが「多すぎて食えん」と放り投げる、一切れの黒パンを持って。


「ただいま、カカ。トト」


 部屋に入ると、カカが暗闇の中から声をかける。


「……ルカ。おかえり。今日も、お外は明るいのかい?」


 カカの瞳は、もうほとんど光を捉えていない。ルカは、カカの痩せこけた手を握りしめ、精一杯明るい声で嘘をつく。


「うん、眩しいくらいだよ。街中の石畳が、宝石みたいに光ってる」


「そうかい、それは嬉しいねえ……」


 トトは壁に寄りかかり、力なく笑う。だが、その笑みはどこか虚ろで、ルカが帰ってきたことにもすぐには気づけないほど、彼の意識は遠のき始めていた。ルカの手を握るトトの指先は、驚くほど冷たく、細い。二人は、自分たちが食べるよりも、ルカに食べさせようとパンを押し戻してくる。ルカは「もうお腹いっぱい食べたよ」と再び嘘を吐き、水で膨らませたわずかな欠片を飲み込むだけだ。


 季節は巡り、冬の足音が聞こえ始めた頃、ルカの貯金箱――床の下の小さな穴に隠した古びた布袋は、ずっしりと重くなっていた。


「……九十八、九十九。……百」


 その夜、ついにルカは最後の一枚を袋に落とした。金属が触れ合う、カチリという音。ルカはその袋をそっと拾い上げ、胸に抱きしめた。 布地には、半年分の汗と煤、そして幾度となく流した涙の乾いた匂いが深く染み付いている。握りしめると、銅貨の一枚一枚が放つ冷徹な金属の感触が、ルカのボロボロになった掌に食い込んだ。この痛みこそが、ルカが生き延びてきた証だった。


 ルカは二人の寝顔を見つめながら、静かに涙を流した。明日は仕事が終わったら、あのパン屋へ行く。一番高い、一番白いパンを買うんだ。トト、カカ、驚かないでね。明日、僕、最高のお土産を持って帰るから。


 一方、領主邸の窓辺では、ハリスが暗闇の中で静かに動いていた。彼は手元のチェス盤から、一つの歩兵(ポーン)を指先でなぞり、ゆっくりと盤外へ押し出した。ハリスは一度も口を開かない。ただ、月光に照らされたその横顔は、完成間近のパズルを前にした子供のような、純粋で底の知れない期待に満ちていた。  ハリスの視線の先には、ルカの小屋が、今にも消えそうな灯火を宿して静まり返っていた。

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